その後ネットで調べたら大変なことが分かったのです。
この建物は何度か取り壊されそうになって、
「語り継ぐ会」の人たちの運動によって存続してきたのですが、
いよいよ老朽化が進み、耐震性不足ということで昨年12月に市は全面閉鎖したというのです。
今後どうするか市は検討中と言っていますが、保存工事の見通しは立っていないといいます。
でも結論が出ない間にも無人で置くと老朽化が進むので
「語り継ぐ会」の人たちが月二回清掃に入ることは認められているというのです。
私が伺ったのはそんな時だったのです。
(柳井政徳さんに会う)
2月7日、午後1時頃、カミさん同伴で飛行学校に行った。
会の人たちが8人ほど来ている、柳井さんはまだお見えでないという。
しばらくして柳井さんが現れた。
がっしりとした体格で、足腰もしっかりして何より言葉が明瞭でとても90歳とは思えない方である。
初対面の挨拶をして、まずは写真を撮らせてもらうという用向きなのでさっそく入口の看板の前で撮らせてもらった。
柳井さんはいろいろ資料を指しながら私たちを案内してくれました。
”柳井政徳さん”
柳井さんが同乗した特攻隊員、京都の山本研一少尉の写真があります。
↑ 飛行訓練中は整備員として待機する若かりし頃の柳井さん(右側こちら向き)
信じられないような話もあります。
写真の山本少尉の横の高橋静雄少尉は、出撃後エンジントラブルでサンゴ礁に不時着、
島民に救助されて知覧に帰還したら、
上官から、仲間が死んでいったのになんで生きて帰ってきた、
とものすごい叱責を受け、直ちに福岡の「振武寮」(牢屋みたいな再教育機関)に送られ
ここで再教育され、再出撃するということです。
しかしこの時はすでに出撃できる飛行機もなく待機のまま終戦となった。
高橋少尉は61歳で人生の終焉を迎えるまで、
特攻隊のこと、軍隊のことは一言も話さずに亡くなったということです。