詩人PIKKIのひとこと日記&詩

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虫ケラのように県民殺した沖縄戦 「二度といくさの盾にさせぬ」 沖縄県立第一高女同窓生による座談会

2019年10月13日 | 犯罪
 沖縄県知事選の最大の争点である米軍基地問題をめぐり、県民の4分の1にあたる20万人の犠牲者を出し、基地がつくられる根源となった沖縄戦の体験者たちの経験を次世代に受け継ぐこと、そして日本全国がそれを共有することが求められている。本紙は、故・翁長知事の叔母にあたる翁長安子氏をはじめ、沖縄戦当時、沖縄県立第一高等女学校(那覇市真和志)1~3年生だった同窓生に那覇市内に集まってもらい、当時の体験や思いを話してもらった。

沖縄戦の体験を語る沖縄県立第一高等女学校の同窓生たち(19日、那覇市)
 本紙記者 基地問題を考えるとき、故・翁長知事をはじめ米軍基地建設とたたかう多くの県民の胸のなかに、絶対に譲ることのできない記憶として沖縄戦の経験があると思う。その沖縄戦とはどんな戦争だったのか。みなさんの体験と思いを、未来を担う次世代、全国に伝えたい。

 翁長 ここに集まったのは沖縄戦当時、那覇の真和志にあった県立第一高女に在校していた人たちだ。ひめゆり部隊は寄宿舎生たちで編成された看護隊だが、それ以外の生徒たちも沖縄戦でみんなひどい目にあっている。1945年4月1日に読谷村から上陸した米軍は、沖縄本島を南北に分断し、沖縄守備軍の司令部があった首里に向けて猛攻を仕掛けた。はじめは私も1、2週間で終わると思っており、まさか3カ月間も続くとは思ってもいなかった。

 島袋 前年の10・10空襲で、那覇の大半は焼け野原になった。飛行機の友軍機かと思っていたら「敵機だ!」と大騒ぎになり、楚辺方面からグーッと低空飛行で飛んできて猛爆をした。すぐに火柱が上がり、サイレンが出たのはその後だった。守備軍司令部の第32軍は波之上のホテルで宴会をしていたそうだ。はじめは爆弾で積み木崩しのように家が壊され、それから焼夷弾を落としたので街はボンボンと燃えた。那覇が灰燼(かいじん)に帰したときには米軍は帰っていった。

 翁長 米軍は6時になったら砲撃をやめる。新都心(シュガー・ローフ)の戦闘でも夕方になると野戦砲、機銃、戦車砲もピタッと止まる。それから日が暮れて、向こうが夕食をとって寝る用意に入るとき、日本兵は戦う武器がないから爆雷を抱えて「斬り込み(体当たり)」だ。米軍は空からも陸からも海からも攻撃するが、日本軍は洞穴に仕掛けた爆雷くらいのものだった。それは戦争とはいえない一方的なものだった。

 天久(那覇市北東部)の陣地は、使わないうちに米軍に潰されて砲台を占拠された。嘉手納基地も伊江島も、読谷、那覇空港でも日本がつくった滑走路は、米軍が後から使うために準備したようなものだった。高射砲も敵機を撃ち落とす前に艦砲で叩かれた。なぜなら沖縄を米軍の艦船がとり巻いている。識名(首里の南側)の高台から海を見ると、どこに島があったかわからないほど、渡嘉敷島から糸満の沖までズラーッととり巻いていた。

 そこに友軍(日本軍)の特攻機が飛んでくると、すべての艦船が一斉にサーチライトで空を明るく照らし、逃げ場を与えないくらいに高射砲や機銃で集中砲火する。まるで蜘蛛の巣にかかるような感じで撃ち落とされていった。私の兄も特攻隊に行っているので「ひょっとしたら…」と肝が潰れる思いで見ていた。「片道燃料、死出の旅」で知覧(鹿児島)から飛び立ち、ほとんどが軍艦に突っ込む前にやられた。軍の上層部がどんな考えでやったかわからないが、あんなに優秀で体格も立派なお兄ちゃんたちを予科練や特攻隊で養成して死出の旅に送り出した。

 与儀 北部でも同じだった。本部(もとぶ)の嘉津宇岳付近の山上から沖を見ていると、伊江島から本部の間の海の米軍艦船がたくさん並んでいるところに友軍機が飛んでくる。ブーンと遠方の空から飛んでくるのが見えると、すぐにサーチライトで照らされて蜂の巣のように撃たれる。これにはまってしまったらもう助からない。ヴォンヴォンヴォン…と悲しそうなエンジンの音を出して落ちていく。「あぁ、またやられた…」と毎晩、胸が潰れる思いで見ていた。
 喜界島や大島付近でも、知覧から飛んでいって沖縄に着く前に撃ち落とされ、海に突っ込んで島にうちあげられ、住民に助けられたという。

 翁長 その人たちは、戦争の実態を暴露しないために、2カ年は沈黙しなければいけなかったという。「非国民になるから口を開くことはできなかった」と。この「非国民」という言葉が、私たちの教育では徹底された。私も戦時中、父親が一緒に避難しようといったのに「断りもなく部隊から抜けるわけにはいかない。部隊の許可を得てからお父さんのところに戻る」と答え、父親は「これはダメだ」と諦めていた。非国民といわれなくても、自分の心でそう思っていた。従軍しているのに勝手に家に戻ることは許されることではなかった。「欲しがりません勝つまでは」で、お国のために働くことがすべてだった。

 島袋 当時の学生は、看護学徒隊でなくともそれぞれの部隊で何らかの形で軍の仕事に従事した。学校でも軍の作業に動員されていたから、ほとんど勉強をしていない。私は作業中にヤケドをして家にいるときに10・10空襲だった。ケガをしてなければ小禄の飛行場に動員されていたので、恐らく助かっていなかったと思う。

 同級生の一人は、お母さんが小学校の教員だったので、子どもたちに本土への疎開を奨励した。だが自分が子どもたちと一緒に乗る予定だった疎開船は満杯だったので、他の人に譲って船を下りた。その船が対馬丸だった。航海の途上で潜水艦の魚雷で撃沈され、児童を含む1600人以上が亡くなった。戦後、お母さんは沈む船に教え子を乗せたことへの自責の念でとても苦しんでおられた。

 私は10・10空襲で家を焼け出されたので学校の寄宿舎に入ることになったが、2回目の空襲でそこも追われたので一度家に帰った。そこで父は「これから学校に帰ったら命はないと思いなさい」「命は一番、勉強は二番」といって私を学校に帰さなかったから軍に従事することはなかった。疎開するのは「国賊、非国民」となる覚悟が必要だった。

 私が疎開した北部の山原(やんばる)では食料がなく、飢餓状態になって山を下りるところで捕虜になった。米軍に捕まれば殺されると思ったら、たくさんの食料をくれた。沖縄には“ムヌクイシドゥワガウシュウ(ものをくれる人が我が主)”という言葉がある。そこからはアメリカ様様になってしまった。われわれの世代は、人生のうちに言葉も変われば、主も変わるという荒波のような時代を生きてきた。同級生は38人が戦死している。ひめゆり学徒隊だ。生き残った自分たちが平和のために語り継がなければいけないと思って、必要とあらば体験を語るようにしている。

 翁長 沖縄では、神様のように偉い人たちが日本軍に睨まれて闇討ちをされた。これは沖縄人には耐えられないものだ。御真影(天皇の肖像)を守る勤めを果たすため山の中に避難している校長先生を「スパイだ」といって殺している。部隊が駐屯するときに地域の人脈を把握してリーダーをスパイ視して殺している。私もスパイの疑いをかけられたが、そのようなことがあちこちで起きた。一生懸命国に尽くしてきた人間を人間として見ていない。「軍は県民を守らない」というのが、沖縄県民が体験した真実だ。なかにはいい人もいたが、全体としてそのような組織ではなかった。


 翁長 首里(司令部)が陥落したときに軍が降伏しておけば、残りの12万人は死なずに済んだと思う。私は、沖縄特設警備隊第223中隊(永岡隊)に看護要員として従軍していたが、陥落後も首里にいた。なぜなら、日本軍の主力は撤退しているのに「お前たちは郷土部隊だから最後まで首里を死守せよ」との命令を受けたからだ。この部隊は、学校の先生や県庁の職員などが多く、首里安国寺の永岡敬淳住職(大尉)が隊長だった。

 その軍令を伝えに来たのが、担任の糸数用武先生だった。糸数先生はそれを伝えた後、砲弾が雨あられのように降る外へ出て行かれた。「先生、なぜ出て行くんですか!」と問う私に「私には私の役割がある」といい残して。

 戦って生きのびてきた兵隊たちが玉陵(琉球王統の陵墓)まで上がってきたときに爆弾が落ち、17人のうち6人が即死した。そのうち残った5、6人が壕に駆け込んできた。暗い壕の中にどれくらいいたのかはわからないが、部隊は第1~3小隊まであった。一中健児隊(鉄血勤皇隊)も傍にいたが、6月11日には南部に撤退している。その壕へ永岡隊の生き残りたちが入ってきていた。

 朝5時半ごろ、壕の外で水くみをしていると、「トンボが来たー!」と監視兵から連絡が来た。バケツをもって壕に逃げ込んだかと思うと、戦車砲がボーンと一発撃ち込まれた。今度は「戦車が来た!」という。外ではゴトゴトと戦車の音が聞こえる。もうどうしていいかわからず、隊長が「戦闘準備」といったかいわずか、その言葉も聞かないうちに今度は火炎砲が飛んできた。前の晩に生き延びて入口にある簡易の二段ベッドに横になっていた兵隊たちは、それはもうヤギのように焼き殺された。

 次に飛んできたのはガス弾だ。壕の中ではみんなアァーと騒いでいる。煙とガスと火で錯乱状態だ。私たちは10・10空襲で焼け出された裁判所が、大事な書類を保管するためにこの壕に移転していた金庫(書棚)の後ろにいたため、戦車砲もガス弾も免れた。壁の厚さが20㌢もある観音開きの立派な書棚だった。防毒面をしていたからガスも吸わずに済んだ。

 しばらくしたら、上の方で「ギリギリギリ…」と穴を開ける音がした。米軍が爆雷を埋め込む音だ。隊長が「馬乗りされたな」と一言いった。それからどれだけたったときか、バ、バーンッ! と爆発音がして、それからはわからない。馬乗り攻撃で壕全体が潰されたのだ。気付いた時には、もう何が何だかわからず、とにかく苦しかった。私が暴れたらしく、誰かが私の手を押さえて「静かにしろ!」といった。もがいて防毒面をとろうとすると「とるな!」と隣の兵隊からいわれた。あちこちから「隊長殿ぉ」「隊長殿…」と悲鳴が聞こえる。隊長は「ご苦労さんだった。僕もすぐ逝くから」とばかりいわれていた。「隊長殿、お世話になりました…〇〇です」と名前をいう人もいるが聞きとれない。私を知るおじさんは、私の声に気づき「安子さん、生きていたか。私はもうダメだ…」とおっしゃった。「お世話になりました」「先に逝きます」などの声のやりとりがしばらく続き、やがて静寂になった。

 その後、「生きている者は隣同士で合図をしなさい」という隊長の命令で、生存が確認できたのが9人だった。不思議にも裁判所の大きな書棚が、上から落盤した大きな岩を支え、反対側の岩もそこに倒れ込み、私たち9人は岩と書棚の空間にいたため岩の下敷きにならずに済んでいた。

 何時間かたった後、当番兵の石原兵長が「隊長、脱出するからそのつもりで」といった。隊長は「ここが永岡隊の最期の場だと決めてある。仏様と一緒にここを守る義務がある。君たちだけ脱出しなさい」という。石原さんも「隊長なしの部隊などありません。ぜひ一緒に脱出してください」と譲らない。衛生兵が「隊長殿、一緒に脱出してください。南部では先発隊が待っていますから」と押し問答が続き、最後は根負けして一緒に脱出することになった。

 日が暮れて「どうやって脱出するか」となり、暗闇を四つん這いでいくと壕の裏側は米軍に破壊されて空洞になっていることがわかった。そこを見ると、ちぎれた首や胴体や手足がみんな壁に貼り付いていた。内臓まで破裂した死体の山だ。米軍が打ちあげる照明弾の光ですべて浮かび上がる。「あ、あれは高良軍曹だ」「あれは〇〇だ」と、顔がちぎれて壁に貼り付いている。足元に転がっている死体を踏みつけないと壕からは出られない。

 石原さんが先発し、衛生兵の後に隊長が続く。隊長が私に「安子さん、私のベルトをつかみなさい」という。私は「はい」といって、隊長の帯剣をぶら下げるベルトをつかんで歩いたが、足元は岩なのか死体なのか、照明弾の明かりでも判別がつかない。あたりは血の海で内臓も散乱している。雨も降っていたこともあり、3、4歩ほど歩いたとき、岩だと思って踏んだ死体に足をとられ、その拍子に隊長のベルトから手を離してしまった。私はそのまま崖の斜面を転がり落ちた。上ではバラバラバラッと自動小銃の音が聞こえた。米軍は掃討作戦でそこら中に立っていたのだ。

 その弾が私の背負っていたリュックを貫通して背中をえぐっていた。何時間気を失ったかわからないが、目が覚めたら周りはすべて死体。生きている人はいない。「どうしよう…」とじっとしていたが、死体の中から這い出した。現在の「一中健児の碑」のあたりまで這い出していくと、下から米兵が5、6人、掃討作戦で日本兵狩りに来ていたので、また死体と一緒に死んだふりをした。

 幸いに米兵が素通りしていったので、それを見計らって寒川の道まで出た。喉が渇いてしょうがなかったので、仲之川の井戸まで100㍍ほど這っていくと、井戸の中には死体が2体浮いていた。木切れで死体をかき寄せて、顔を突っ込んで水を飲んだ。すると背中が裂けるように痛い。触ると血でベトベトだった。ケガをして水を飲むと出血が増す。「あぁ、私もやられていたのか…」とはじめて自覚した。

 「ここで死ぬわけにはいかない」と一念発起し、腰に巻いていた三角巾を外して、止血するつもりで傷口を縛った。「金城町の石畳」まで出ると、ここも死体の山。すべて軍人の死体だった。首里防衛のために戦ったときか、南部に移動するときにやられたか。四つん這いになって寒川まで降りると、空からギラギラ光るものが降ってきた。黄燐弾だったのではないかと思う。これに触れると火傷をすると衛生兵がいっていたことを思い出し、新垣という赤瓦の門の酒屋に逃げた。

 繁多川の坂道に渡ろうとしたら橋がない。「ここで死ぬのか…」と悟り、ここではじめて「お父さん、お母さん! どこにいるのー、迎えに来て!」と大きな声を出して子ども泣きに泣いた。橋の欄干にかけてあった丸太に気づき、それに飛び乗って向こう岸の繁多川に渡ると、ここからは民間人の死体だった。浦添や宜野湾方面から、安里鉄道(軽便鉄道)の道沿いに歩いて来た人たちだ。軍服ではない人たちの死体ばかりで、毛布やトタンを被せられている死体もあった。ずっと雨が降っているからウジや蝿が流されていて、異臭も和らいでいた。そこから識名園までいったが、こんな姿の私に「女学生さん、助けてください」と声がかかった。「溝の中にいるが、右足と右手がないから助けて」という。私も背中をやられて歩けず、四つん這いで歩いている事情を話し、「ごめんなさい。後ろからまた誰か来るかも知れないから」と通り過ぎるほかなかった。

命からがら、着の身着のままの姿で壕から這い出して収容所に向かう住民たち(1945年6月)
 翁長 津嘉山(南風原町)のにいくと、浦添や宜野湾などあちこちからきた住民が、どこに行っていいかわからず、荷物を担ぎ、子どもをだっこして大勢道ばたに座り込んでいる。みんな疲れ果てて、きび畑の中や道ばたに寝そべったり、座ったりしていた。それはもう哀れだった。知人のおじさんに八重瀬の病院までつれていってもらい、治療を受け、近所の人からウジ虫を撃退するニンニクをもらった。

 この場所では、5月31日から6月3日までは同じ沖縄とは思えないほど平穏だった。このとき日米で交渉があったはずだ。海軍は太田中将が6月6日に「沖縄県民斯ク戦ヘリ」「保護を頼む」と大本営に打電し、その後自決している。だが陸軍は首里でも交渉を拒否し、摩文仁に逃れていた。本土上陸を遅らせるための持久戦だ。遙か遠くに聞こえる艦砲は、摩文仁方面に撃ち込まれていた。

 首里からきたおじさんは背中とかかとをやられて足はウジ虫だらけだった。ウジは親指大まで大きくなり、モコモコと肉をかじる音まで聞こえる。ススキの穂先でウジをかき出して、ニンニクをすりつぶして付けてあげた。一緒に糸洲(糸満市)に向かったが、先発部隊に追いついて私が気を失っている間におじさんは息を引きとっていた。

 またトンボ(偵察機)が飛んでくる。そして艦砲が飛び、戦車がやってくる。「また戦場になるんだな…」と思った。

 3日目に永岡隊長たちと轟の壕(糸満市伊敷)で再会した。この壕でも赤ん坊を連れた母親が追い出され、艦砲の直撃で亡くなったりもした。酸素もなくてロウソクもろくに灯らない。島田知事と荒井警察署長とも出会ったが、署長はアメーバ赤痢でガリガリにやせておられた。この後、お2人も消息を絶たれた。担任の糸数先生が直撃弾で即死したことも知った。

 残ったわずか40人にまた命令が出る。「生き残った者は、国吉・真栄里の戦線へ出動せよ」と。6月18日に米軍司令官のバックナー中将が戦死した場所だ。それからは民間も軍人も見境いのない無差別攻撃だった。逃げ惑う住民も片っ端からやられた。その翌日に学徒隊にも「解散命令」が出て、壕から出たとたんに米軍の猛爆撃に晒された。ひめゆり学徒隊もそれで大半が亡くなった。あれほどたくさんの住民が生きる活路を求めて南部へ、南部へと逃げてきていたのにほとんど全滅だ。死んだ母親のおっぱいにしがみついている赤ん坊を見て助けようと思っても、自分も一分後にはどうなるかわからない。首のない赤ん坊をおんぶしている母親や、天秤棒の片方には死んだ男の子、片方には荷物や鍋釜を乗せて逃げるおじいさん……こんな人たちとすれ違う。暗くなってからはどこに死体があるかわからず、踏みつけることもあった。

 この魂が安らかに成仏できたとは思えない。苦労しながら逃げたところで、最後のとどめを受けて弾の餌食になっている。なぜこんな人殺しのためにこんな兵器を開発するのか。一発で何人殺せるかだけを研究する科学者のことを思うと、本当に情けない。それを使って戦争をやるのは政治家だ。政治家というのは人の命を守るのが仕事であり、人の命を粗末にする政治家はいらない。

 島袋 小学2年生のときに日中戦争、小学6年生のときが真珠湾攻撃だった。なぜ負けるとわかっている戦争に手を出したのか。大国相手に身の程知らずの戦争をやり、国民には長刀訓練やバケツリレーの防火訓練をさせたが、なんの役にも立たなかった。

 翁長 私たちは軍国主義時代に教育を受けて生活をし、また戦後は米国の植民地政策に乗っとられてしまった。日米地位協定など棚に飾ったボタモチと一緒で、連日どんな事故や事件が起きても、どんなに住民が訴えても何の正解もない。住民がどうなろうと日米政府が都合良く運営できるようになっている。だから、このさい保守も革新も乗りこえて、沖縄県民が一つになって「私たちの島は私たちのものだ」といえるくらいにならないといけない。はした金に目がくらんだら、絶対に沖縄はとり戻せない。

 与儀 日米地位協定は、同じ敗戦国でもヨーロッパの地位協定とは雲泥の差がある。変えてほしいといくら訴えても国は動かない。そのために県民は、いつも危険と不安に晒されている。本当に悔しいが、どうして聞き入れられないのか。やがて爆発寸前だ。

 翁長 知事選で本当に県民の意志をはっきりさせないと、安倍さんのいいなりになっていたら、また昔のような状態が起きないとも限らない。北朝鮮、中国、ロシアも一緒になってアメリカと対話をしているが、沖縄では新たな基地を「つくって差し上げる」そうだ。いつどうなるかわからない。あの大統領も沖縄の基地のことなどまるで考えていないだろう。

 与儀 日本本土でも広島、長崎の大きな悲劇もあったが、沖縄の地上戦は3カ月も続いた。だがそれが理解されない。政府に声が届かない。沖縄では誰一人として基地に賛成する人はいない。だが目の前の経済や暮らしに惑わされて、沖縄の将来を直視せず、馴れ合いで党派ばかりに凝り固まって基地建設に賛成するかのような人が出てくるから心配だ。これまで過重な基地負担を押しつけられ、「もうこれ以上はつくらないでほしい」というギリギリの要求すら聞き入れられないことが悔しい。少しでも容認のような気持ちをあらわすというのは考えられない。

 翁長 行政を預かる大臣や政治家たちは基地の周りで一週間でも寝泊まりしたらいいと思う。地上戦とは話は違うが、嘉手納でジェット機が降りるときには、車が揺さぶられるほどの振動が起きる。地上戦の苦しみをわからないで政治をやり、お金で物事が解決するという考え方で、人間の生きる望みを簡単に摘みとっている。第二次世界大戦では、何百万人という若者を肉弾にした。大学を出た兄が25歳で戦車撃滅隊で死んだことを思うと、兄の生まれてきた意味は何だったんだろうかと思う。こんなことのために生きたのかと。沖縄で亡くなった20万の県民も同じだ。だから、命の重さを理解しない人に政治家になる資格はない。

 島袋 兵隊さんを「武運長久」の日の丸を振って見送ったが、あっという間に白木の箱が帰ってきた。その慰霊祭にまた参加する。戦地に行くということは死ぬことが前提だった。夫もシベリアで凍傷になって帰り、栄養失調で土左衛門のようになっていた。二度と沖縄の若い者が戦場にいくようなことをすべきではない。

 翁長 これから新しい基地をつくるということは、沖縄を永久に基地の島にするということだ。弾は人を選ばないことを知るべきだ。無差別に人の命を奪っていく。そのようなものを輸出したり、売ったり買ったりして金もうけを企んでいる国を応援している安倍さんは、本当に民主国家の総理大臣なのかと思う。

 与儀 私たちの世代は、幼少期には戦争を知らないから軍国少女として兵隊さんたちと陣地構築をしていた。子どもの頃から「教育勅語」や「大政翼賛」とかの掛け声で死にものぐるいで一生懸命やり、米軍が上陸して公務員も含めて全部犠牲になった。軍隊が住民を守らないことをわかっているから基地に反対だ。戦争を体験していない世代の人たちはそれを知らない。戦争がどのようなものかわかっていない。

 沖縄は基地があるがゆえに犠牲になった。あの戦争で大本営は「本土を守るため時間を延ばせ」といって犠牲者がどんどん増えた。生きるか死ぬかの場面で、兵隊も住民も生きようとし、軍隊は守るどころか住民を追い出して弱い者が犠牲になった。年寄りが頑張って辺野古の現場に行っているのも、沖縄が戦争の盾になるということはもうごめんだと思うからだ。若い人も切実に考えてほしい。ここにいる人たちもみんな姉さんたちはひめゆりに祀られている。私の両親も戦争で亡くなっている。

 父親まで防衛隊でとられ、13、14歳の少年まで勤皇隊に駆り出され、陸軍中野学校出身の兵隊に引率されて肉弾戦に行った。私も見たが、山の中で20人の少年たちが背中に爆雷を担がされて、大人に連れられて行った。後で聞くと、みんな米軍の陣地に体当たりして玉砕したという。ひめゆり部隊でもうら若い少女たちが戦場につれていかれ、どの家にも犠牲者がいて、沖縄県民はそれを乗りこえてきた。しかし、今も絶えず基地や戦争の危険にさらされ続けている。理不尽でしょうがない。

 島袋 靖国神社に参拝しに行ける同級生をうらやましがったが、戦後にお見舞いに行くと、その家では父が戦死し、兄も水産学校で戦死し、本人もひめゆり部隊で家族3人の遺影が飾られていた。妹が一人だけお嫁にいかずに仏様を守っていた。亡くなった人も無念だが、残された家族もたいへんな戦後だった。

 翁長 南部では、一家全滅が4世帯に1世帯の割合であった。誰も弔う人がいないから、地主さんが畑の真ん中に石を積み上げた祠(ほこら)をつくって、木切れに名前を書いた位牌を作って立てていた。それが10年くらいはあちこちにあり、見るたびに「ああ、一家全滅だな」と思っていた。あるでは、公民館に朱塗りの位牌がずらっと並んでいる。一家全滅した家や畑を公共物に使ったから、村が身内の代わりに供養していた。

 戦後の最初の仕事は、おびただしい数の遺骨を拾って供養することだった。沖縄戦の末期に島尻だけで10万人もの人たちが亡くなり、そのまま野ざらしにされていた。亡くなった同級生の娘さんの父である真和志村の金城和信村長が発案し、糸満高校真和志分校の翁長助静校長(翁長雄志知事の父)が先頭に立ち、南部に眠る兵士や住民の骨3万5000柱を集め、糸満米須に「魂魄(こんぱく)の塔」を建立した。沖縄では戦後の政治の原点だ。

おじい、おばあが見た沖縄戦 「無抵抗の民の皆殺しだった」 占領目的の明確な意図

2019年10月13日 | 犯罪
 米軍駐留の起源は、第二次大戦において県民の4人に1人の命が奪われた沖縄戦であり、すべての米軍基地は、その殺戮のうえにブルドーザーと銃剣によって力ずくで奪われたものにほかならない。「本土から押しつけられた」「押しつけた」云々以前に、そもそもの経緯からしてアメリカが地上戦まで展開して乗り込み、勝手に奪っていったままなのである。沖縄戦体験者たちは、その言語に絶する経験をもとに、さらに未来永劫にわたって沖縄を米軍支配に縛り付ける新基地計画に対して底深い怒りを語っている。沖縄戦当時、学徒隊や兵士だったおじいやおばあはどのような体験をしたのか、沖縄戦を知らない世代に何を伝えたいのか、思いを取材した。    

◇吉川初枝氏(那覇市) 昭和高女・梯梧学徒隊
 米軍が那覇市内を焼き払った昭和19年10月の空襲から沖縄戦は始まった。当時、私は、那覇市泊にあった昭和高等女学校の4年生だった。女学生といえど勉強したのは初めの1年ほどで、それ以降は米軍上陸に備えて陣地構築などの作業をおこなっていた。那覇市泊の実家では、母親と中学1年生の弟と3人で暮らしていた。

 実家も空襲で焼け出され、家族3人一緒にその他の那覇の市民とともに国頭(くにがみ)の本部町にある八重岳へ避難し、そこで軍の協力隊として迎え入れられた。それから母は44旅団の本部で炊事担当を任され、弟は工兵隊、私は看護講習を受けることになった。

 看護講習を受けたあと、私たち昭和高女の女学生は学徒隊(梯梧学徒隊)として従軍することになった。女学生といえど軍の末端に組み入れられた。17人が2班に分かれ、首里のナゲーラ壕へ配属になった。初めのころはまだよかったが、4月になり米軍が上陸作戦を開始し始めたころから、壕には次次に負傷兵が運び込まれるようになり、ついに壕に収容しきれないほどの規模に膨れあがった。負傷兵は壕がある山頂までトラックで運び、そこからは車が通れない道を私たちが担架に乗せて2人ずつで運んだ。負傷し、脱力した人間の体は非常に重く、急斜面を女学生2人で担いで下るのは今思うとたいへんなことだったと思うが、その当時は必死だった。

「鉄の暴風」と呼ばれた米軍艦船による艦砲射撃
 米軍の艦砲射撃は日に日にひどくなり、ついにナゲーラ壕付近にも届くほどになった。壕に収容できない負傷兵は、壕近くの道に寝かせておくことしかできなかった。その間にも容赦なく続く米軍の艦砲射撃を受け、負傷したり、亡くなる兵士も多く出た。

 4月29日、壕の前で仲間と話をしているとき、艦砲の直撃を受けた。私の向かいにいた友人は艦砲の破片が当たって胸に大きな穴が空き、そこから血が噴き出し、包帯を巻いて止血しようとしたがほぼ即死だった。

 別の日には、壕の中の二段ベッドの2階で負傷兵が手榴弾で自決した。物量に任せた米軍の侵攻が迫ってくるなかで、自分が兵隊として使い物にならないほどの傷を負っていることへのむなしさや、傷の痛みに耐えられなくなったのだと思う。壕の中には血や肉片が飛び散っていた。

 死者は地面に艦砲が炸裂したあとにできる大きな穴へ埋葬した。埋葬といっても当時は1人1人丁寧に埋めることなどできず、遺体をムシロにくるんで手を合わせ、放り込むように穴の中へ埋めた。あのとき亡くなった人たちはみな一緒に誰の骨かも分からない状態で埋められたが、当時はみんな明日は我が身の心境で“悲しい”という気持ちさえ起きなかった。

艦砲射撃で蜂の巣のようになった首里城周辺
 5月の中頃になって軍の指揮系統も麻痺し、「近くに家族がいる者は帰りなさい」ということで、私はナゲーラ壕を離れ、首里高女の女学生と2人で一緒に糸数アブチラガマ(現・南城市)にいる母の元へ向かった。

 アブチラガマへ到着すると母親と弟と会うことができた。弟は工兵隊として首里の激戦地へ送られていたが、あまりに戦況が激しく、まだ中学1年ということもあり、本部の食料倉庫の番を任され糸数へ戻ってきていた。ガマ(天然洞窟)の中で生活していたとき、壕の外で炸裂した艦砲の破片が左足首に刺さった。真っ赤に燃えた鉄の破片がそのまま肉に食い込み、その猛烈な熱さと痛みは忘れられない。

 6月1日、ついにアブチラガマも危なくなり、家族3人で別の壕を目指した。そこからは軍について各地の壕を転転とする状況だった。道中に見た沖縄の街は悲惨なものだった。そこらじゅうが艦砲の穴だらけで、雨期のため地面はぬかるみ、逃げ惑う人人が踏み荒らして田んぼのようになって道がどこにあるのかさえ分からない。そしてあちこちに負傷した人が倒れ、亡くなった人が風船のように青ぶくれ、足で踏んでしまうとブスッと破裂するような状態だった。

 みな自分の命一つを守るのに必死で逃げ惑い、負傷者に手を貸すような余裕がない。ケガをして歩けなくなった女の子が這って泣いていたが、前を行く人はみな「ついてこい」としかいうことができず、助けたくても助けられない。その女の子もどうなったのか分からないままだ。移動する行く先先では「トンボ」と呼ばれる米軍の偵察機がぐるぐると上空を飛んで避難民の居場所を沖にいる母艦に知らせる。その直後にそこを狙って艦砲が雨のように襲ってくる。

 6月13日、艦砲を避けるために数人が隠れていた農具庫に艦砲が命中し、私は意識を失った。一時経って弟のうめき声で目が覚めた。弟は左半身全体にケガを負い、腕も折れていた。母は無傷だったが母の前と後ろにいた人たちは艦砲の破片が直撃して即死しており、私が駆けつけたときは母と弟の背中から大量の返り血がしたたり落ちていた。

 私は背中の肉が半分えぐれるケガを負ったが、幸い一命はとりとめた。弟は2日後に亡くなった。弟の遺体は母が1人で焼いて埋葬した。そのとき私は「どうせ自分もいつかは死ぬのだろう」と思っていたため、悲しみをまったく感じなかったが、あのとき一人息子を自分の手で焼かなければならなかった母の気持ちを考えると本当にむごいことだと思う。

 背筋をやられたためか、私は座ったり寝たりするのも一苦労で、立ち上がる動作も自力では不可能になった。立って歩くのがやっとの状態で、友だちからは「あんたは自分のケガが自分では見えないから生きていられるんだよ」といわれた。その状態で壕から壕を転転とする日が続いた。艦砲が降ってきても、走って逃げることも伏せて隠れることもできない。ただ立ちすくんでいることしかできなかった。走って逃げる友を追いかけていくと、やっと追いついたところで、友だちはみな艦砲にあたって死んでいたこともあった。

米軍に拘束され、道路脇に座り込む住民(1945年4月)
 最後は具志頭村の壕に隠れているときに米軍の捕虜になり、知念町にある志喜屋のへ収容された。少しの違いで、艦砲の破片や銃弾に当たるか当たらないかで生死が分かれる。戦後、私の背中の傷を見た病院の先生から「結核の手術でもしたのか」と尋ねられたので、「艦砲ぬ喰ぇー残さー(艦砲の食い残しだよ)」と答えてきた。

 米軍基地はこれ以上増やすべきではないし、なくすべきだ。「基地の恩恵」というが、それ以上に沖縄の海や山がもたらす恵みは大きく、沖縄の人たちは昔からその恵みで生きてきた。沖縄の側から「使ってください」といって米軍に提供した土地は一坪もない。アメリカは戦後自分たちが沖縄の土地を奪うために侵攻し、強制的に住民を追い出して基地をつくったのだ。

 沖縄の人たちは金網の中に収容され、そこからバラバラの生活を送ってきているため、体験者の私たちでさえ自分の体験以外の沖縄戦の実態は知らないことの方が多い。若い人たちには、まずは自分たちが暮らしているこの沖縄の歴史をよく勉強してから沖縄の未来について考えてほしい。

 戦争に動員された学徒隊では、ひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部・県立第一高女の女子学徒隊)が有名だが、沖縄戦では全21校から学徒が動員され、約2000人が亡くなっている。10代半ばの女子も男子もみな戦争へかり出されて亡くなっており、その多くが知られていないため「全学徒の碑」の建立を呼びかけ、昨年3月に完成させることができた。沖縄だけでなく、外国の戦地など戦争へかり出され犠牲になった多くの若者たちが、もし生きていれば今のような日本にはなっていなかったと思う。なぜあれほど死ななければならなかったのかと惜しい思いがしてならない。子や孫たちの世代に同じ経験をくり返さないためにも、沖縄に新たな基地をつくらせてはいけない。

◇興座章健氏(南風原町) 県立一中・鉄血勤皇隊
 沖縄戦は、米軍の反撃でガダルカナルが陥落し、日本軍が撤退、敗戦の一途をたどるなかで、兵員や軍艦、戦闘機や武器まで消耗し尽くしたうえで始まった。沖縄は米軍上陸前から制空権も制海権も失い、すでに丸裸にされていた。だが沖縄では、「ドイツ、イタリア連合軍や本土からの援軍が来る」といわれていた。戦艦大和も沖縄へ援軍に来ると聞いていたが、沖縄へたどり着く前に撃沈された。大本営はすべて知っていながら国民にも情報を隠し、いよいよ沖縄戦が始まった。「いつか神風が吹く」と教育され、当時10代だった私たちも正しい戦争だと信じて疑わなかった。

捕虜になり米軍の尋問を受ける鉄血勤皇隊の少年
 県立一中(現・首里高校)の4年生だった私たちは、陣地構築や、出征兵士を持つ家族の応援のために農作業を手伝っていた。昭和18~19年頃になると中飛行場(米軍占領後の嘉手納飛行場)の建設作業に動員されたが、ブルドーザーなど重機はなく、道具はスコップともっこだった。

 19年の10月10日、米軍が那覇を空襲した(10・10空襲)。これが沖縄戦の開戦だった。米軍のB29は沖にいる母艦と那覇の市街地上空を往復しながら那覇飛行場付近をめがけ、1日中爆撃を続け、これで那覇は全滅した。それからというもの何度もB29が1機だけで飛来してきては日本軍の高射砲が届かない高度を旋回し、何もせずに帰って行くことが続いた。沖縄上陸作戦に向けた偵察をしていたのだと思う。

 昭和20年の3月23日、米軍の艦砲射撃が始まった。米軍は夜が明けて明るくなると砲撃を開始し、日が沈む頃に攻撃をやめて沖に帰っていた。25日には慶良間列島に上陸して神山島に大砲を据え、首里方面に向かって砲撃を開始した。首里は一中の学徒たちが立派な壕を掘っており、中に入っていると安全だったためそこを拠点にしていた。

 学校では砲撃の合間を縫って卒業式をおこなった。当時中学は5年制だったが、4年生の私たちもくり上げ卒業となった。同期の入学者は250人いたが、予科練や陸軍の特別幹部候補生へ志願したり、九州や台湾へ疎開した者もおり、卒業式ではかなり人数も減っていた。その翌日、卒業生を含む学徒(14~16歳)によって鉄血勤皇隊が編成された。入隊後すぐに遺書を書かされ、支給されたのは軍服だけで銃も剣も持たされなかった。

 9班に分かれ、私たちの班は首里城の下に掘ってあった陸軍司令部の壕南口の土砂を搬出する作業を8時間勤務の3交代でおこなっていた。比較的安全な場所での作業だったが、壕の外へ土砂を出すときがもっとも危険だった。近くの農家の畑から芋やキャベツをとってくる食料調達や、激戦地へ行って米軍の攻撃によって切れた電話線をつなぐ作業もやった。米軍は夕飯時になるとすべての砲撃をぴたっとやめる。攻撃を受ける心配もなく、悠悠と戦争をやっていたのだ。

 4月28日、夕方静かになった時間に中隊長が「お前たち全員に食わす食料がなくなった。口減らしに何人か帰ってもらわなければならない。体力的に自信がない者は優先的に除隊するので手をあげなさい」といった。だが、手をあげる者は1人もいなかった。結局1人ずつ中隊長が指名し、除隊する19人が選ばれ、私もそのなかに入っていた。その19人で各班の班長に除隊する旨を伝えに挨拶に行ったが、「なに? それならおまえたちの故郷はいったい誰が守るのか。もってのほかだ」と全員張り倒された。中隊長からいわれたのになぜなのか…と思ったが、黙って軍服を脱ぎ、誰のかも分からない学生服を拾って、同じ方向へ帰る4人が一緒に自宅を目指して帰った。そのうち1人は途中で別れ、そこから家へ帰り着くまでのわずか3㌔の間に砲弾によって亡くなった。

 南風原村の役場に勤務していた父親と合流し、玉城村に避難している母や姉のところへ夜通し歩いて行った。家族と玉城村で合流したが、そこでは一般人も日本軍の援助として、首里の前線まで弾を運んだりしていた。米軍はすでに付近まで迫ってきたため、具志頭村の新城(あらぐすく)へ避難することになった。

 新城の天然の洞窟に入ったが、初めの1週間は静かで、艦砲も来ないし飛行機も飛ばない。戦争が終わったのかと思うほどだった。だが、翌週になると「ここは最後の戦場になるから民間人は知念半島へ逃げなさい」という情報が入ってきた。私たち家族はまた玉城の壕へ引き返した。道すがら、大勢の人たちが向かいから逃げてくる。「なぜ敵に向かっていくのか。すぐ近くまで敵が来ているぞ」といわれたが、父親は耳を貸さず進んだ。玉城の壕まで戻ったとき、米軍は玉城城址の一番山の高いところへ機関銃を据えてどんどん南の摩文仁方面へ向けて弾を撃ち続け、煙がもうもうと立ちこめていた。それを見て新城へ逃げていった叔父一家も銃弾に倒れた。四方から米軍に追い詰められ、安全といえる場所などなかった。

 その後、密林の中に私たち一家は潜んでいた。そこでは米軍が2人組で見回っていたので、暗くなってから水をくんだり、サトウキビをとったりする生活を1~2週間続けた。米軍の捕虜になった、一緒に逃げていた別の家族が呼びに来たので、米軍の収容所がある百名というで6月14日に投降した。

 収容所に来たばかりで住む家もなく私たち家族が地べたに座っていると、目の前をM4という巨大な米軍の戦車が何台も通り過ぎていった。それを見ると日本軍の戦車がブリキのおもちゃのように思え、呆然と立ち尽くしたまま涙が止まらなかった。

 馬小屋で寝泊まりし、翌日から米軍用地を整備する作業にかり出された。16歳から45歳までの男性はみな毎朝8時に集合し、2㌧トラックの荷台に積み込まれて玉城村にある今の国道331号線の溝浚いを2、3日やらされた。作業中、南部で収容された避難民が米軍に30人ほど引き連れられて歩いていた。そのなかに同じ鉄血勤皇隊にいた仲間が母親と一緒にいた。飛びついて「元気だったのか、よかったな」といいたかったが、声をかけることすらできなかった。一緒に勤皇隊を除隊された19人のうち、半分も生き残っていない。戦後は「自分は生き残って貧乏くじを引いたのだ」とずっと思って生きてきた。

 昭和22年ごろから本格的な基地建設工事が始まり、本土からも錢高組をはじめ大きな建設会社が沖縄へ入ってきた。家も土地も奪われた沖縄県民は、収容所から無一文で出され、その工事に携わることでしか生活の糧を得ることができない人も多くいた。私自身も、アメリカからやってきたAJカンパニーという建設会社に雇われ、日本人に対する運転免許交付の試験官をやった。

 地政学的に見て、沖縄は非常に重要な位置にある。沖縄古来の歴史が裏付けているように、各国との平和交流の拠点として利用することを足がかりに発展する道を進まなければいけない。今のようなアメリカだけに利用される軍事拠点にしてしまってはいけない。核戦争は人類を滅亡に導くものであり、それは誰もが分かっていることだ。沖縄を再び戦場にする道だ。米軍との戦後の関係を見ても、日本との地位協定だけ他のヨーロッパ諸国と比べてもまったく主権がない。日本政府はアメリカのいいなりになってしまっている。辺野古新基地も含め、米軍基地は沖縄にも日本にも必要ない。

食料の9割輸入に頼る危険な道 GM・ゲノム食品の投棄場と化す日本列島 長周新聞

2019年10月13日 | 犯罪
 環太平洋経済連携協定(TPP)11が昨年12月発効し、日欧経済連携協定(EPA)が今年2月発効したのに続いて今月7日、日本政府は日米FTAの一部としての日米貿易交渉協定に正式署名した。いずれも自動車やITなど独占企業の市場拡大のために農業分野を犠牲にして決着をはかったものだ。政府は今回の日米貿易協定署名で国内の農業分野にどれほどの影響が出るかの試算を出していない。トランプが要求する来年1月1日の発効に向けて国会承認を強行しようと必死だ。TPPが問題になった時点で当時の農水省はTPP発効によって日本の食料自給率は14%まで低下するとの試算を出している。特産物以外の農業生産がほぼ壊滅するという水準であり、国民への食料供給は危機的になり、飢餓や餓死の蔓延も懸念される。輸入依存の食料の安全性も問題になってくる。さらに食料の90%近くを輸入に依存する国が独立国といえるのかという食料安保の問題も大きい。農産物の関税撤廃や削減による市場開放によって日本の食料はどうなっていくのか、座談会をもって論議した。


 司会 TPP11や日欧EPA、日米FTAで農業はどうなっていくのか。
 A 日本の農産物市場は戦後、1960年代から輸入自由化が推進されてきた。政府は自動車やテレビなど工業製品のアメリカへの輸出拡大のために農業生産を犠牲にし、米国産農産物の輸入を拡大してきた。米国産レモンを皮切りに70年代のグレープフルーツ、90年代の牛肉、オレンジなどの輸入自由化で国内の酪農・畜産、ミカン農家などは離農や倒産など悲惨な事態を経験した。

 B 食料自給率は1960年に79%だったが、70年に60%、80年に53%になり、90年には40%に、97年には戦後最低の37%に落ちた。この年はコメの不作で緊急輸入をした年だ。その後2000年に40%、15年に39%、17年に38%、18年にはふたたび戦後最低の37%に落ちている。これは先進国のなかで最低で、韓国(39%)よりも低い。ちなみにアメリカは130%、フランス127%、ドイツ95%、スペイン93%、イギリス63%、イタリア60%だ。

 C 日本の農業分野はすでに十分に市場開放されており、これ以上の市場開放は国内の農業生産の壊滅、すなわち国民への食料供給の危機であることを、TPP参加をめぐって生産者は強く訴えていた。

 A TPPは「例外なき関税撤廃」を原則とするものだ。日本は最低限の食料供給を守るために、コメ、麦、牛肉・豚肉、乳製品、甘味資源作物などに最後の砦として高関税をかけてきた。ところがTPPではこの主要品目も関税削減の対象とし、大幅な関税削減や無関税枠をもうけた。TPPが18年12月に発効するとその後5日間で半月分の牛肉輸入が増え、さらに2月にTPP水準を上回って日欧EPAが発効すると豚肉は輸入が5割増、チーズなど乳製品は輸入が3割増えた。これに加えて日米FTAで農業分野のさらなる市場開放を約束した。国内の農家への打撃は重大だ。

 農水省はTPP発効で食料自給率は14%まで下がると試算した。18年の食料自給率37%の半分以下で、約90%の食料を輸入に頼るということになる。

 D ほとんどの食料を輸入に頼るということはさまざまな危険がともなう。農水省は不測の事態に備える食料の安全保障というマニュアルをつくっている。想定される事態として、国内の大不作やおもな輸出国での大不作。おもな輸出国での事件、事故による貿易の混乱。おもな輸出国による輸出規制などをあげている。

 最悪のケースとして穀物、大豆やその関連製品の輸入の大幅な減少をあげ、日本国内の生産だけでどんな食生活ができるか具体的なメニューも示している。
 〈朝食〉御飯一杯、蒸かし芋二個、ぬか漬け一皿 〈昼食〉焼き芋二本、蒸かし芋一個、果物五〇㌘ 〈夕食〉御飯一杯、焼き芋一本、焼き魚一切れ

 これは2010年に出したもので、食料自給率は約40%だ。食料自給率が14%になれば、不測の事態が起こった場合これほどの食事もできなくなる。というよりほとんど国内に食べ物はないという事態だ。

侵される食品の安全性 GM作物消費は世界一
 A 食料を輸入に頼る危険性はほかにもある。食品の安全性だ。アメリカは牛肉の輸入増大を狙っているが、米国産の牛肉には成長ホルモン(エストロゲンなど)が使用されている。発がん性リスクがあるとして日本では使用が認可されていない。アメリカの牛肉には国産牛に比べて600倍のエストロゲンが入っていたとの医師の報告もある。日本での使用は認められていないが、アメリカの圧力で成長ホルモンを使用した牛肉の輸入は認めている。EUは国内での使用も禁止し、成長ホルモンが入っているアメリカ産牛肉の輸入も拒否している。

 B EUはオーストラリア産牛肉の輸入は拒否しない。それはオーストラリアがEU向けには成長ホルモンを使用していないことを証明しているからだ。EU向け以外は、日本に輸入されるオーストラリア産牛肉にも成長ホルモンを使っている。

 A EUでは、1989年に成長ホルモンを使用しているアメリカ産牛肉の輸入を禁止したが、その後2006年までに乳がん死亡率がアイルランドで44・5%、イギリスで34・9%、スペインで26・8%減少したとの調査結果もある。

 牛や豚など家畜の成長促進剤ラクトパミンも人体に悪影響があるとして、EU・中国・ロシアなどでは使用を禁止し、輸入も厳しく規制している。とくに心臓病や高血圧の患者に影響が大きい。長期に接種すると染色体の変異や悪性腫瘍を誘発するとされている。

 日本でも国内の使用は認めていない。輸入肉については残留基準値を設定しているが、その検査はおこなわれておらず、実質的にはフリーパスだ。牛肉・豚肉の自給率はすでに40~50%であり、今後10~20%になってから安全な国産をといっても手に入らなくなる。

 B アメリカでは乳牛の乳量増加効果がある遺伝子組み換え成長ホルモンも乳牛に注射している。この成長ホルモンを注射された牛から搾った牛乳・乳製品を大量摂取することで、前立腺がんや乳がんの発症率が高まるという論文も発表されている。この成長ホルモンは日本、EU、カナダ、オーストラリアなどでは認可されていない。日本ではこの成長ホルモンの使用を認可していないが、アメリカからの輸入は認めている。

 C BSEの問題もある。2003年にアメリカでBSEが発生し、日本は米国産牛肉の輸入を禁止した。その後小泉政府のもとで20カ月齢以下の輸入を認め、TPP参加を前に20カ月齢以下を30カ月齢以下に緩和した。そして今回日米貿易協定の交渉に入る前に規制を全面撤廃した。24カ月齢の牛からもBSEの発症例はある。アメリカでのBSE検査率は1%未満で、検査にひっかからないだけともいえる。

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食料の9割輸入に頼る危険な道 GM・ゲノム食品の投棄場と化す日本列島
社会2019年10月12日

 環太平洋経済連携協定(TPP)11が昨年12月発効し、日欧経済連携協定(EPA)が今年2月発効したのに続いて今月7日、日本政府は日米FTAの一部としての日米貿易交渉協定に正式署名した。いずれも自動車やITなど独占企業の市場拡大のために農業分野を犠牲にして決着をはかったものだ。政府は今回の日米貿易協定署名で国内の農業分野にどれほどの影響が出るかの試算を出していない。トランプが要求する来年1月1日の発効に向けて国会承認を強行しようと必死だ。TPPが問題になった時点で当時の農水省はTPP発効によって日本の食料自給率は14%まで低下するとの試算を出している。特産物以外の農業生産がほぼ壊滅するという水準であり、国民への食料供給は危機的になり、飢餓や餓死の蔓延も懸念される。輸入依存の食料の安全性も問題になってくる。さらに食料の90%近くを輸入に依存する国が独立国といえるのかという食料安保の問題も大きい。農産物の関税撤廃や削減による市場開放によって日本の食料はどうなっていくのか、座談会をもって論議した。



稲刈りをする農家(北海道)

 司会 TPP11や日欧EPA、日米FTAで農業はどうなっていくのか。



 A 日本の農産物市場は戦後、1960年代から輸入自由化が推進されてきた。政府は自動車やテレビなど工業製品のアメリカへの輸出拡大のために農業生産を犠牲にし、米国産農産物の輸入を拡大してきた。米国産レモンを皮切りに70年代のグレープフルーツ、90年代の牛肉、オレンジなどの輸入自由化で国内の酪農・畜産、ミカン農家などは離農や倒産など悲惨な事態を経験した。



 B 食料自給率は1960年に79%だったが、70年に60%、80年に53%になり、90年には40%に、97年には戦後最低の37%に落ちた。この年はコメの不作で緊急輸入をした年だ。その後2000年に40%、15年に39%、17年に38%、18年にはふたたび戦後最低の37%に落ちている。これは先進国のなかで最低で、韓国(39%)よりも低い。ちなみにアメリカは130%、フランス127%、ドイツ95%、スペイン93%、イギリス63%、イタリア60%だ。



 C 日本の農業分野はすでに十分に市場開放されており、これ以上の市場開放は国内の農業生産の壊滅、すなわち国民への食料供給の危機であることを、TPP参加をめぐって生産者は強く訴えていた。



 A TPPは「例外なき関税撤廃」を原則とするものだ。日本は最低限の食料供給を守るために、コメ、麦、牛肉・豚肉、乳製品、甘味資源作物などに最後の砦として高関税をかけてきた。ところがTPPではこの主要品目も関税削減の対象とし、大幅な関税削減や無関税枠をもうけた。TPPが18年12月に発効するとその後5日間で半月分の牛肉輸入が増え、さらに2月にTPP水準を上回って日欧EPAが発効すると豚肉は輸入が5割増、チーズなど乳製品は輸入が3割増えた。これに加えて日米FTAで農業分野のさらなる市場開放を約束した。国内の農家への打撃は重大だ。



 農水省はTPP発効で食料自給率は14%まで下がると試算した。18年の食料自給率37%の半分以下で、約90%の食料を輸入に頼るということになる。



 D ほとんどの食料を輸入に頼るということはさまざまな危険がともなう。農水省は不測の事態に備える食料の安全保障というマニュアルをつくっている。想定される事態として、国内の大不作やおもな輸出国での大不作。おもな輸出国での事件、事故による貿易の混乱。おもな輸出国による輸出規制などをあげている。



 最悪のケースとして穀物、大豆やその関連製品の輸入の大幅な減少をあげ、日本国内の生産だけでどんな食生活ができるか具体的なメニューも示している。



 〈朝食〉御飯一杯、蒸かし芋二個、ぬか漬け一皿 〈昼食〉焼き芋二本、蒸かし芋一個、果物五〇㌘ 〈夕食〉御飯一杯、焼き芋一本、焼き魚一切れ



 これは2010年に出したもので、食料自給率は約40%だ。食料自給率が14%になれば、不測の事態が起こった場合これほどの食事もできなくなる。というよりほとんど国内に食べ物はないという事態だ。



侵される食品の安全性 GM作物消費は世界一



 A 食料を輸入に頼る危険性はほかにもある。食品の安全性だ。アメリカは牛肉の輸入増大を狙っているが、米国産の牛肉には成長ホルモン(エストロゲンなど)が使用されている。発がん性リスクがあるとして日本では使用が認可されていない。アメリカの牛肉には国産牛に比べて600倍のエストロゲンが入っていたとの医師の報告もある。日本での使用は認められていないが、アメリカの圧力で成長ホルモンを使用した牛肉の輸入は認めている。EUは国内での使用も禁止し、成長ホルモンが入っているアメリカ産牛肉の輸入も拒否している。



 B EUはオーストラリア産牛肉の輸入は拒否しない。それはオーストラリアがEU向けには成長ホルモンを使用していないことを証明しているからだ。EU向け以外は、日本に輸入されるオーストラリア産牛肉にも成長ホルモンを使っている。



 A EUでは、1989年に成長ホルモンを使用しているアメリカ産牛肉の輸入を禁止したが、その後2006年までに乳がん死亡率がアイルランドで44・5%、イギリスで34・9%、スペインで26・8%減少したとの調査結果もある。



 牛や豚など家畜の成長促進剤ラクトパミンも人体に悪影響があるとして、EU・中国・ロシアなどでは使用を禁止し、輸入も厳しく規制している。とくに心臓病や高血圧の患者に影響が大きい。長期に接種すると染色体の変異や悪性腫瘍を誘発するとされている。



 日本でも国内の使用は認めていない。輸入肉については残留基準値を設定しているが、その検査はおこなわれておらず、実質的にはフリーパスだ。牛肉・豚肉の自給率はすでに40~50%であり、今後10~20%になってから安全な国産をといっても手に入らなくなる。



 B アメリカでは乳牛の乳量増加効果がある遺伝子組み換え成長ホルモンも乳牛に注射している。この成長ホルモンを注射された牛から搾った牛乳・乳製品を大量摂取することで、前立腺がんや乳がんの発症率が高まるという論文も発表されている。この成長ホルモンは日本、EU、カナダ、オーストラリアなどでは認可されていない。日本ではこの成長ホルモンの使用を認可していないが、アメリカからの輸入は認めている。

 C BSEの問題もある。2003年にアメリカでBSEが発生し、日本は米国産牛肉の輸入を禁止した。その後小泉政府のもとで20カ月齢以下の輸入を認め、TPP参加を前に20カ月齢以下を30カ月齢以下に緩和した。そして今回日米貿易協定の交渉に入る前に規制を全面撤廃した。24カ月齢の牛からもBSEの発症例はある。アメリカでのBSE検査率は1%未満で、検査にひっかからないだけともいえる。

 D 遺伝子組み換え(GM)食品も大きな問題だ。モンサントが除草剤・ラウンドアップに耐性を持つGM大豆をつくり出し、ラウンドアップとセットで販売を開始したのは1996年だ。アメリカは世界最大のGM作物栽培国だが、販売段階での表示義務はない。日本にはGM食品に表示義務があるが、EUなどに比べると格段に基準がゆるい。

 C EUではGM作物の表示には厳しい。スペインではスーパーで販売している食品だけでなく、レストランで提供するメニューにも義務づけている。国内で流通・販売していくことが難しいということで、ドイツ、スウェーデン、ポーランドは2011年にGM作物の栽培を中止した。14年にはEU最大の穀物生産国フランスがGMトウモロコシの栽培を全面中止。さらに15年にはルーマニアが、16年にはスロバキアもGM作物の栽培から撤退した。

 D ロシアでは16年に上院でGM作物の生産および輸入を全面的に禁止する法案が可決・成立した。ロシアは12年に世界貿易機関(WTO)に加盟したさいに、アメリカに押し切られてGM作物の栽培や輸入を解禁・容認した。だが、国民の圧倒的多数がGM食品を拒否したため、ロシア国会は生産・輸入禁止に動いた。

 A 日本はGM作物を年間数千㌧輸入する、世界で有数のGM作物消費国だ。食品用大豆の国内自給率はわずか7%だ。残りは輸入に頼っている。輸入先はアメリカ、ブラジル、カナダなどだ。16年度のGM大豆の作付け面積は順に94%、97%、94%だ。

 日本への輸入が許可され、販売・流通が認められているGM作物は八種類ある。大豆、トウモロコシ、ナタネ、綿、ジャガイモ、甜菜、アルファルファ、パパイヤだ。このうち大豆、トウモロコシ、ナタネ、綿がおもに流通している。これら8種類のGM作物を主な原材料とする加工食品のなかで、食品衛生法の安全審査をクリアしたのは19年5月に320種類にのぼる。15年の214種類から急増している。

 だが、320種類のうち表示を義務付けられているのは33種類しかない。大豆では豆腐や納豆、豆乳類、味噌などは表示義務があるが、醤油、コーン油、大豆油、菜種油、液糖、GM飼料で飼育された肉など、タンパク質が分解されているとされる食品には表示義務はない。たとえば醤油になにも表示がない場合は、通常はGM大豆が原料であることを意味する。豆腐には表示義務があり、表示がない場合はGM大豆不使用ということになる。

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食料の9割輸入に頼る危険な道 GM・ゲノム食品の投棄場と化す日本列島
社会2019年10月12日

 環太平洋経済連携協定(TPP)11が昨年12月発効し、日欧経済連携協定(EPA)が今年2月発効したのに続いて今月7日、日本政府は日米FTAの一部としての日米貿易交渉協定に正式署名した。いずれも自動車やITなど独占企業の市場拡大のために農業分野を犠牲にして決着をはかったものだ。政府は今回の日米貿易協定署名で国内の農業分野にどれほどの影響が出るかの試算を出していない。トランプが要求する来年1月1日の発効に向けて国会承認を強行しようと必死だ。TPPが問題になった時点で当時の農水省はTPP発効によって日本の食料自給率は14%まで低下するとの試算を出している。特産物以外の農業生産がほぼ壊滅するという水準であり、国民への食料供給は危機的になり、飢餓や餓死の蔓延も懸念される。輸入依存の食料の安全性も問題になってくる。さらに食料の90%近くを輸入に依存する国が独立国といえるのかという食料安保の問題も大きい。農産物の関税撤廃や削減による市場開放によって日本の食料はどうなっていくのか、座談会をもって論議した。



稲刈りをする農家(北海道)

 司会 TPP11や日欧EPA、日米FTAで農業はどうなっていくのか。



 A 日本の農産物市場は戦後、1960年代から輸入自由化が推進されてきた。政府は自動車やテレビなど工業製品のアメリカへの輸出拡大のために農業生産を犠牲にし、米国産農産物の輸入を拡大してきた。米国産レモンを皮切りに70年代のグレープフルーツ、90年代の牛肉、オレンジなどの輸入自由化で国内の酪農・畜産、ミカン農家などは離農や倒産など悲惨な事態を経験した。



 B 食料自給率は1960年に79%だったが、70年に60%、80年に53%になり、90年には40%に、97年には戦後最低の37%に落ちた。この年はコメの不作で緊急輸入をした年だ。その後2000年に40%、15年に39%、17年に38%、18年にはふたたび戦後最低の37%に落ちている。これは先進国のなかで最低で、韓国(39%)よりも低い。ちなみにアメリカは130%、フランス127%、ドイツ95%、スペイン93%、イギリス63%、イタリア60%だ。



 C 日本の農業分野はすでに十分に市場開放されており、これ以上の市場開放は国内の農業生産の壊滅、すなわち国民への食料供給の危機であることを、TPP参加をめぐって生産者は強く訴えていた。



 A TPPは「例外なき関税撤廃」を原則とするものだ。日本は最低限の食料供給を守るために、コメ、麦、牛肉・豚肉、乳製品、甘味資源作物などに最後の砦として高関税をかけてきた。ところがTPPではこの主要品目も関税削減の対象とし、大幅な関税削減や無関税枠をもうけた。TPPが18年12月に発効するとその後5日間で半月分の牛肉輸入が増え、さらに2月にTPP水準を上回って日欧EPAが発効すると豚肉は輸入が5割増、チーズなど乳製品は輸入が3割増えた。これに加えて日米FTAで農業分野のさらなる市場開放を約束した。国内の農家への打撃は重大だ。



 農水省はTPP発効で食料自給率は14%まで下がると試算した。18年の食料自給率37%の半分以下で、約90%の食料を輸入に頼るということになる。



 D ほとんどの食料を輸入に頼るということはさまざまな危険がともなう。農水省は不測の事態に備える食料の安全保障というマニュアルをつくっている。想定される事態として、国内の大不作やおもな輸出国での大不作。おもな輸出国での事件、事故による貿易の混乱。おもな輸出国による輸出規制などをあげている。



 最悪のケースとして穀物、大豆やその関連製品の輸入の大幅な減少をあげ、日本国内の生産だけでどんな食生活ができるか具体的なメニューも示している。



 〈朝食〉御飯一杯、蒸かし芋二個、ぬか漬け一皿 〈昼食〉焼き芋二本、蒸かし芋一個、果物五〇㌘ 〈夕食〉御飯一杯、焼き芋一本、焼き魚一切れ



 これは2010年に出したもので、食料自給率は約40%だ。食料自給率が14%になれば、不測の事態が起こった場合これほどの食事もできなくなる。というよりほとんど国内に食べ物はないという事態だ。



侵される食品の安全性 GM作物消費は世界一



 A 食料を輸入に頼る危険性はほかにもある。食品の安全性だ。アメリカは牛肉の輸入増大を狙っているが、米国産の牛肉には成長ホルモン(エストロゲンなど)が使用されている。発がん性リスクがあるとして日本では使用が認可されていない。アメリカの牛肉には国産牛に比べて600倍のエストロゲンが入っていたとの医師の報告もある。日本での使用は認められていないが、アメリカの圧力で成長ホルモンを使用した牛肉の輸入は認めている。EUは国内での使用も禁止し、成長ホルモンが入っているアメリカ産牛肉の輸入も拒否している。



 B EUはオーストラリア産牛肉の輸入は拒否しない。それはオーストラリアがEU向けには成長ホルモンを使用していないことを証明しているからだ。EU向け以外は、日本に輸入されるオーストラリア産牛肉にも成長ホルモンを使っている。



 A EUでは、1989年に成長ホルモンを使用しているアメリカ産牛肉の輸入を禁止したが、その後2006年までに乳がん死亡率がアイルランドで44・5%、イギリスで34・9%、スペインで26・8%減少したとの調査結果もある。



 牛や豚など家畜の成長促進剤ラクトパミンも人体に悪影響があるとして、EU・中国・ロシアなどでは使用を禁止し、輸入も厳しく規制している。とくに心臓病や高血圧の患者に影響が大きい。長期に接種すると染色体の変異や悪性腫瘍を誘発するとされている。



 日本でも国内の使用は認めていない。輸入肉については残留基準値を設定しているが、その検査はおこなわれておらず、実質的にはフリーパスだ。牛肉・豚肉の自給率はすでに40~50%であり、今後10~20%になってから安全な国産をといっても手に入らなくなる。



 B アメリカでは乳牛の乳量増加効果がある遺伝子組み換え成長ホルモンも乳牛に注射している。この成長ホルモンを注射された牛から搾った牛乳・乳製品を大量摂取することで、前立腺がんや乳がんの発症率が高まるという論文も発表されている。この成長ホルモンは日本、EU、カナダ、オーストラリアなどでは認可されていない。日本ではこの成長ホルモンの使用を認可していないが、アメリカからの輸入は認めている。



 C BSEの問題もある。2003年にアメリカでBSEが発生し、日本は米国産牛肉の輸入を禁止した。その後小泉政府のもとで20カ月齢以下の輸入を認め、TPP参加を前に20カ月齢以下を30カ月齢以下に緩和した。そして今回日米貿易協定の交渉に入る前に規制を全面撤廃した。24カ月齢の牛からもBSEの発症例はある。アメリカでのBSE検査率は1%未満で、検査にひっかからないだけともいえる。



牛舎でエサを食べる乳牛(北海道)

 D 遺伝子組み換え(GM)食品も大きな問題だ。モンサントが除草剤・ラウンドアップに耐性を持つGM大豆をつくり出し、ラウンドアップとセットで販売を開始したのは1996年だ。アメリカは世界最大のGM作物栽培国だが、販売段階での表示義務はない。日本にはGM食品に表示義務があるが、EUなどに比べると格段に基準がゆるい。



 C EUではGM作物の表示には厳しい。スペインではスーパーで販売している食品だけでなく、レストランで提供するメニューにも義務づけている。国内で流通・販売していくことが難しいということで、ドイツ、スウェーデン、ポーランドは2011年にGM作物の栽培を中止した。14年にはEU最大の穀物生産国フランスがGMトウモロコシの栽培を全面中止。さらに15年にはルーマニアが、16年にはスロバキアもGM作物の栽培から撤退した。



 D ロシアでは16年に上院でGM作物の生産および輸入を全面的に禁止する法案が可決・成立した。ロシアは12年に世界貿易機関(WTO)に加盟したさいに、アメリカに押し切られてGM作物の栽培や輸入を解禁・容認した。だが、国民の圧倒的多数がGM食品を拒否したため、ロシア国会は生産・輸入禁止に動いた。



 A 日本はGM作物を年間数千㌧輸入する、世界で有数のGM作物消費国だ。食品用大豆の国内自給率はわずか7%だ。残りは輸入に頼っている。輸入先はアメリカ、ブラジル、カナダなどだ。16年度のGM大豆の作付け面積は順に94%、97%、94%だ。

 日本への輸入が許可され、販売・流通が認められているGM作物は八種類ある。大豆、トウモロコシ、ナタネ、綿、ジャガイモ、甜菜、アルファルファ、パパイヤだ。このうち大豆、トウモロコシ、ナタネ、綿がおもに流通している。これら8種類のGM作物を主な原材料とする加工食品のなかで、食品衛生法の安全審査をクリアしたのは19年5月に320種類にのぼる。15年の214種類から急増している。

 だが、320種類のうち表示を義務付けられているのは33種類しかない。大豆では豆腐や納豆、豆乳類、味噌などは表示義務があるが、醤油、コーン油、大豆油、菜種油、液糖、GM飼料で飼育された肉など、タンパク質が分解されているとされる食品には表示義務はない。たとえば醤油になにも表示がない場合は、通常はGM大豆が原料であることを意味する。豆腐には表示義務があり、表示がない場合はGM大豆不使用ということになる。

 C 消費者はGM食品とは知らずに口にしている場合が多いということだ。アメリカの政府関係者が「日本人は一人当り世界でもっとも多くのGM作物を消費している」と発言している。日本はトウモロコシの100%、大豆の93%を輸入に依存しているが、アメリカなど輸入先国のGM比率はトウモロコシも大豆も90%前後だ。日本で消費されるトウモロコシ、大豆の80%前後がすでにGM作物ということになる。

 B アメリカやEUなどではGM作物の栽培や流通・販売を消費者が拒否する運動が広がっており、GM食品は行き場を失っている。そうしたなかで内閣府の消費者委員会は今年四月、GM食品ではないと表示できる条件を厳格化する表示基準の改定案を政府に答申した。この狙いは「遺伝子組み換えでない」という表示を事実上不可能にすることだ。山田正彦氏は「市場をオーガニック食品に奪われたモンサント(現バイエル)は、またとないチャンスを日本で得る」とし、行き場を失った世界中の遺伝子組み換え作物が大量に日本に流入し、「多国籍アグリ企業が扱いに困った作物の最終的な廃棄場」になると指摘している。

 D 鈴木宣弘氏はアメリカはまるで「GMトウモロコシや小麦は牛・豚・日本人に食わせておけ」といった対応だと話している。


世界の動きと逆行 ゲノム食品も規制緩和
 A GM作物の健康破壊と同時に除草剤ラウンドアップの主成分であるグリホサートに発がん性が確認され、世界各国で販売が禁止されているが、日本政府は逆に残留規制を緩和して世界中で売れ残ったラウンドアップを流入させている。

 C グリホサートは収穫直前の小麦を早く乾燥させる効果があり、直前にラウンドアップを噴霧するプレハーベストという方法が導入されている。収穫時の手間が省け、グリホサートが芯にまで浸透して余分な水が抜かれるので、輸送するさいにカビや細菌が発生するリスクが抑えられる。アメリカやカナダ、オーストラリアでもラウンドアップを使ったプレハーベストをおこなっている。

 日本の消費者団体などが輸入小麦やそれを原料にしたパンを検査したところ、グリホサートが検出された。国産小麦を使ったパンからは検出されなかった。政府は「基準値以下だから問題ない」との態度をとっているが、その基準値が大幅に緩和されたものだから問題だ。そのうえ小麦はパンや麺類など毎日口にする主食であり、積み重なっていけば健康を害する危険性は高い。

 輸入農産物に使用される防腐剤や防カビ剤など、ポストハーベスト(収穫後)農薬についてもアメリカは日本の残留基準を緩めるよう要求してきている。

 B GM食品と同様にゲノム編集食品に対しても規制を強化する諸外国の動きと逆行して日本はフリーパスの姿勢だ。EUの司法裁判所は18年7月に「ゲノム編集は遺伝子組み換えと変わらない」との判断を出した。アメリカの農務省は18年3月に「ゲノム編集は遺伝子組み換えに該当しない」との声明を出したが、改変の仕方によっては遺伝子組み換えであるとした。日本の環境省は18年8月、アメリカに追随して「ゲノム編集は遺伝子組み換えではない」との見解を発表し、同9月に厚労省は「従来の品種改良と同じ、安全だ」とする報告書をまとめ、厚労省への届出だけで市場への流通を認める方針だ。表示も必要ない。

 D 種子大手の米コルテバ・アグリサイエンス(元ダウ・デュポン)は年内にもゲノム編集トウモロコシ販売を厚労省に届け出る動きを見せている。ゲノム編集技術はモンサント・バイエル連合とダウ・デュポンの二強が独占する状態だ。日本が先頭に立ってゲノム編集食品の本格的な流通を開始することは、米バイオメジャーの実験場となる危険性が高い。GM種子の販売もモンサント社など数社で世界中のシェアを独占している。


モンサント法の日本版 種子法廃止・種苗法改定
 A 農産物市場の開放と同時進行で進んでいるのは、種子法(正式名称=主要農産物種子法)の廃止や種苗法の改定だ。種子法が誕生したのは敗戦間もない1952年で、「二度と日本の国民を飢えさせてはならない」という精神にもとづくものだった。日本人の主食である「コメ・麦・大豆」の安定供給のために、それらの種子の生産と普及を国の責任として位置づけ、「種子の開発予算」は都道府県の負担とした。種子は「日本人の公共財産」として扱われ、一般農家は安定した価格で種子を買うことができた。

 ところが2017年2月、安倍政府は種子法を廃止し、かわって「農業競争力強化支援法」を制定することを閣議決定し、4月14日衆議院と参議院でわずかな審議で採択された。種子法が民間の参入を阻害しているとし、これまで税金で開発・改良してきた種子の知見を民間業者に渡すことを目的としていた。これを山田正彦氏は「モンサント法案の日本版」と見ている。

 B 1994年に北米自由貿易協定(NAFTA)が発効すると、モンサントやデュポンなどの多国籍アグリ企業は、メキシコで栽培されていたあらゆるトウモロコシを輸入し、種子をゲノム解析したうえで育種登録や応用特許を次次と申請した。メキシコの農家がトウモロコシを栽培するには、モンサントやデュポンに使用料を払わなければならな

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食料の9割輸入に頼る危険な道 GM・ゲノム食品の投棄場と化す日本列島
社会2019年10月12日

 環太平洋経済連携協定(TPP)11が昨年12月発効し、日欧経済連携協定(EPA)が今年2月発効したのに続いて今月7日、日本政府は日米FTAの一部としての日米貿易交渉協定に正式署名した。いずれも自動車やITなど独占企業の市場拡大のために農業分野を犠牲にして決着をはかったものだ。政府は今回の日米貿易協定署名で国内の農業分野にどれほどの影響が出るかの試算を出していない。トランプが要求する来年1月1日の発効に向けて国会承認を強行しようと必死だ。TPPが問題になった時点で当時の農水省はTPP発効によって日本の食料自給率は14%まで低下するとの試算を出している。特産物以外の農業生産がほぼ壊滅するという水準であり、国民への食料供給は危機的になり、飢餓や餓死の蔓延も懸念される。輸入依存の食料の安全性も問題になってくる。さらに食料の90%近くを輸入に依存する国が独立国といえるのかという食料安保の問題も大きい。農産物の関税撤廃や削減による市場開放によって日本の食料はどうなっていくのか、座談会をもって論議した。



稲刈りをする農家(北海道)

 司会 TPP11や日欧EPA、日米FTAで農業はどうなっていくのか。



 A 日本の農産物市場は戦後、1960年代から輸入自由化が推進されてきた。政府は自動車やテレビなど工業製品のアメリカへの輸出拡大のために農業生産を犠牲にし、米国産農産物の輸入を拡大してきた。米国産レモンを皮切りに70年代のグレープフルーツ、90年代の牛肉、オレンジなどの輸入自由化で国内の酪農・畜産、ミカン農家などは離農や倒産など悲惨な事態を経験した。



 B 食料自給率は1960年に79%だったが、70年に60%、80年に53%になり、90年には40%に、97年には戦後最低の37%に落ちた。この年はコメの不作で緊急輸入をした年だ。その後2000年に40%、15年に39%、17年に38%、18年にはふたたび戦後最低の37%に落ちている。これは先進国のなかで最低で、韓国(39%)よりも低い。ちなみにアメリカは130%、フランス127%、ドイツ95%、スペイン93%、イギリス63%、イタリア60%だ。



 C 日本の農業分野はすでに十分に市場開放されており、これ以上の市場開放は国内の農業生産の壊滅、すなわち国民への食料供給の危機であることを、TPP参加をめぐって生産者は強く訴えていた。



 A TPPは「例外なき関税撤廃」を原則とするものだ。日本は最低限の食料供給を守るために、コメ、麦、牛肉・豚肉、乳製品、甘味資源作物などに最後の砦として高関税をかけてきた。ところがTPPではこの主要品目も関税削減の対象とし、大幅な関税削減や無関税枠をもうけた。TPPが18年12月に発効するとその後5日間で半月分の牛肉輸入が増え、さらに2月にTPP水準を上回って日欧EPAが発効すると豚肉は輸入が5割増、チーズなど乳製品は輸入が3割増えた。これに加えて日米FTAで農業分野のさらなる市場開放を約束した。国内の農家への打撃は重大だ。



 農水省はTPP発効で食料自給率は14%まで下がると試算した。18年の食料自給率37%の半分以下で、約90%の食料を輸入に頼るということになる。



 D ほとんどの食料を輸入に頼るということはさまざまな危険がともなう。農水省は不測の事態に備える食料の安全保障というマニュアルをつくっている。想定される事態として、国内の大不作やおもな輸出国での大不作。おもな輸出国での事件、事故による貿易の混乱。おもな輸出国による輸出規制などをあげている。



 最悪のケースとして穀物、大豆やその関連製品の輸入の大幅な減少をあげ、日本国内の生産だけでどんな食生活ができるか具体的なメニューも示している。



 〈朝食〉御飯一杯、蒸かし芋二個、ぬか漬け一皿 〈昼食〉焼き芋二本、蒸かし芋一個、果物五〇㌘ 〈夕食〉御飯一杯、焼き芋一本、焼き魚一切れ



 これは2010年に出したもので、食料自給率は約40%だ。食料自給率が14%になれば、不測の事態が起こった場合これほどの食事もできなくなる。というよりほとんど国内に食べ物はないという事態だ。



侵される食品の安全性 GM作物消費は世界一



 A 食料を輸入に頼る危険性はほかにもある。食品の安全性だ。アメリカは牛肉の輸入増大を狙っているが、米国産の牛肉には成長ホルモン(エストロゲンなど)が使用されている。発がん性リスクがあるとして日本では使用が認可されていない。アメリカの牛肉には国産牛に比べて600倍のエストロゲンが入っていたとの医師の報告もある。日本での使用は認められていないが、アメリカの圧力で成長ホルモンを使用した牛肉の輸入は認めている。EUは国内での使用も禁止し、成長ホルモンが入っているアメリカ産牛肉の輸入も拒否している。



 B EUはオーストラリア産牛肉の輸入は拒否しない。それはオーストラリアがEU向けには成長ホルモンを使用していないことを証明しているからだ。EU向け以外は、日本に輸入されるオーストラリア産牛肉にも成長ホルモンを使っている。



 A EUでは、1989年に成長ホルモンを使用しているアメリカ産牛肉の輸入を禁止したが、その後2006年までに乳がん死亡率がアイルランドで44・5%、イギリスで34・9%、スペインで26・8%減少したとの調査結果もある。



 牛や豚など家畜の成長促進剤ラクトパミンも人体に悪影響があるとして、EU・中国・ロシアなどでは使用を禁止し、輸入も厳しく規制している。とくに心臓病や高血圧の患者に影響が大きい。長期に接種すると染色体の変異や悪性腫瘍を誘発するとされている。



 日本でも国内の使用は認めていない。輸入肉については残留基準値を設定しているが、その検査はおこなわれておらず、実質的にはフリーパスだ。牛肉・豚肉の自給率はすでに40~50%であり、今後10~20%になってから安全な国産をといっても手に入らなくなる。



 B アメリカでは乳牛の乳量増加効果がある遺伝子組み換え成長ホルモンも乳牛に注射している。この成長ホルモンを注射された牛から搾った牛乳・乳製品を大量摂取することで、前立腺がんや乳がんの発症率が高まるという論文も発表されている。この成長ホルモンは日本、EU、カナダ、オーストラリアなどでは認可されていない。日本ではこの成長ホルモンの使用を認可していないが、アメリカからの輸入は認めている。



 C BSEの問題もある。2003年にアメリカでBSEが発生し、日本は米国産牛肉の輸入を禁止した。その後小泉政府のもとで20カ月齢以下の輸入を認め、TPP参加を前に20カ月齢以下を30カ月齢以下に緩和した。そして今回日米貿易協定の交渉に入る前に規制を全面撤廃した。24カ月齢の牛からもBSEの発症例はある。アメリカでのBSE検査率は1%未満で、検査にひっかからないだけともいえる。

 D 遺伝子組み換え(GM)食品も大きな問題だ。モンサントが除草剤・ラウンドアップに耐性を持つGM大豆をつくり出し、ラウンドアップとセットで販売を開始したのは1996年だ。アメリカは世界最大のGM作物栽培国だが、販売段階での表示義務はない。日本にはGM食品に表示義務があるが、EUなどに比べると格段に基準がゆるい。

 C EUではGM作物の表示には厳しい。スペインではスーパーで販売している食品だけでなく、レストランで提供するメニューにも義務づけている。国内で流通・販売していくことが難しいということで、ドイツ、スウェーデン、ポーランドは2011年にGM作物の栽培を中止した。14年にはEU最大の穀物生産国フランスがGMトウモロコシの栽培を全面中止。さらに15年にはルーマニアが、16年にはスロバキアもGM作物の栽培から撤退した。

 D ロシアでは16年に上院でGM作物の生産および輸入を全面的に禁止する法案が可決・成立した。ロシアは12年に世界貿易機関(WTO)に加盟したさいに、アメリカに押し切られてGM作物の栽培や輸入を解禁・容認した。だが、国民の圧倒的多数がGM食品を拒否したため、ロシア国会は生産・輸入禁止に動いた。

 A 日本はGM作物を年間数千㌧輸入する、世界で有数のGM作物消費国だ。食品用大豆の国内自給率はわずか7%だ。残りは輸入に頼っている。輸入先はアメリカ、ブラジル、カナダなどだ。16年度のGM大豆の作付け面積は順に94%、97%、94%だ。

 日本への輸入が許可され、販売・流通が認められているGM作物は八種類ある。大豆、トウモロコシ、ナタネ、綿、ジャガイモ、甜菜、アルファルファ、パパイヤだ。このうち大豆、トウモロコシ、ナタネ、綿がおもに流通している。これら8種類のGM作物を主な原材料とする加工食品のなかで、食品衛生法の安全審査をクリアしたのは19年5月に320種類にのぼる。15年の214種類から急増している。

 だが、320種類のうち表示を義務付けられているのは33種類しかない。大豆では豆腐や納豆、豆乳類、味噌などは表示義務があるが、醤油、コーン油、大豆油、菜種油、液糖、GM飼料で飼育された肉など、タンパク質が分解されているとされる食品には表示義務はない。たとえば醤油になにも表示がない場合は、通常はGM大豆が原料であることを意味する。豆腐には表示義務があり、表示がない場合はGM大豆不使用ということになる。

 C 消費者はGM食品とは知らずに口にしている場合が多いということだ。アメリカの政府関係者が「日本人は一人当り世界でもっとも多くのGM作物を消費している」と発言している。日本はトウモロコシの100%、大豆の93%を輸入に依存しているが、アメリカなど輸入先国のGM比率はトウモロコシも大豆も90%前後だ。日本で消費されるトウモロコシ、大豆の80%前後がすでにGM作物ということになる。

 B アメリカやEUなどではGM作物の栽培や流通・販売を消費者が拒否する運動が広がっており、GM食品は行き場を失っている。そうしたなかで内閣府の消費者委員会は今年四月、GM食品ではないと表示できる条件を厳格化する表示基準の改定案を政府に答申した。この狙いは「遺伝子組み換えでない」という表示を事実上不可能にすることだ。山田正彦氏は「市場をオーガニック食品に奪われたモンサント(現バイエル)は、またとないチャンスを日本で得る」とし、行き場を失った世界中の遺伝子組み換え作物が大量に日本に流入し、「多国籍アグリ企業が扱いに困った作物の最終的な廃棄場」になると指摘している。

 D 鈴木宣弘氏はアメリカはまるで「GMトウモロコシや小麦は牛・豚・日本人に食わせておけ」といった対応だと話している。

世界の動きと逆行 ゲノム食品も規制緩和
 A GM作物の健康破壊と同時に除草剤ラウンドアップの主成分であるグリホサートに発がん性が確認され、世界各国で販売が禁止されているが、日本政府は逆に残留規制を緩和して世界中で売れ残ったラウンドアップを流入させている。

 C グリホサートは収穫直前の小麦を早く乾燥させる効果があり、直前にラウンドアップを噴霧するプレハーベストという方法が導入されている。収穫時の手間が省け、グリホサートが芯にまで浸透して余分な水が抜かれるので、輸送するさいにカビや細菌が発生するリスクが抑えられる。アメリカやカナダ、オーストラリアでもラウンドアップを使ったプレハーベストをおこなっている。

 日本の消費者団体などが輸入小麦やそれを原料にしたパンを検査したところ、グリホサートが検出された。国産小麦を使ったパンからは検出されなかった。政府は「基準値以下だから問題ない」との態度をとっているが、その基準値が大幅に緩和されたものだから問題だ。そのうえ小麦はパンや麺類など毎日口にする主食であり、積み重なっていけば健康を害する危険性は高い。

 輸入農産物に使用される防腐剤や防カビ剤など、ポストハーベスト(収穫後)農薬についてもアメリカは日本の残留基準を緩めるよう要求してきている。

 B GM食品と同様にゲノム編集食品に対しても規制を強化する諸外国の動きと逆行して日本はフリーパスの姿勢だ。EUの司法裁判所は18年7月に「ゲノム編集は遺伝子組み換えと変わらない」との判断を出した。アメリカの農務省は18年3月に「ゲノム編集は遺伝子組み換えに該当しない」との声明を出したが、改変の仕方によっては遺伝子組み換えであるとした。日本の環境省は18年8月、アメリカに追随して「ゲノム編集は遺伝子組み換えではない」との見解を発表し、同9月に厚労省は「従来の品種改良と同じ、安全だ」とする報告書をまとめ、厚労省への届出だけで市場への流通を認める方針だ。表示も必要ない。

 D 種子大手の米コルテバ・アグリサイエンス(元ダウ・デュポン)は年内にもゲノム編集トウモロコシ販売を厚労省に届け出る動きを見せている。ゲノム編集技術はモンサント・バイエル連合とダウ・デュポンの二強が独占する状態だ。日本が先頭に立ってゲノム編集食品の本格的な流通を開始することは、米バイオメジャーの実験場となる危険性が高い。GM種子の販売もモンサント社など数社で世界中のシェアを独占している。

モンサント法の日本版 種子法廃止・種苗法改定
 A 農産物市場の開放と同時進行で進んでいるのは、種子法(正式名称=主要農産物種子法)の廃止や種苗法の改定だ。種子法が誕生したのは敗戦間もない1952年で、「二度と日本の国民を飢えさせてはならない」という精神にもとづくものだった。日本人の主食である「コメ・麦・大豆」の安定供給のために、それらの種子の生産と普及を国の責任として位置づけ、「種子の開発予算」は都道府県の負担とした。種子は「日本人の公共財産」として扱われ、一般農家は安定した価格で種子を買うことができた。

 ところが2017年2月、安倍政府は種子法を廃止し、かわって「農業競争力強化支援法」を制定することを閣議決定し、4月14日衆議院と参議院でわずかな審議で採択された。種子法が民間の参入を阻害しているとし、これまで税金で開発・改良してきた種子の知見を民間業者に渡すことを目的としていた。これを山田正彦氏は「モンサント法案の日本版」と見ている。

B 1994年に北米自由貿易協定(NAFTA)が発効すると、モンサントやデュポンなどの多国籍アグリ企業は、メキシコで栽培されていたあらゆるトウモロコシを輸入し、種子をゲノム解析したうえで育種登録や応用特許を次次と申請した。メキシコの農家がトウモロコシを栽培するには、モンサントやデュポンに使用料を払わなければならなくなった。

 さらに2012年にはメキシコ政府は、種子の一部を保存して次の年の栽培に備える自家採種を犯罪行為として原則禁止にした。そのうえで政府に登録された種子を毎年購入することを義務づける法案制定へと動いた。こうした一連の農家の自主性を奪う法案は「モンサント法案」と呼ばれ、農民を中心とする国民の猛反発を受けて廃案となった。

 D モンサント法案はユポフ条約=「植物の新品種に関する国際条約」をよりどころとしている。91年に改定し、新しい種子を開発した民間企業の知的財産権を守り、同時に農家から自家採種の権利を奪うなど、新品種を開発した育種者の権限が大幅に拡大された。主導したのは国際種子連盟で、モンサントをはじめ多国籍アグリ企業がメンバーに名を連ねている。しかも91年の条約を批准した国は新品種を育てた者の権利を守る国内法を整備する義務を負う。さらにTPPの合意文書には91年ユポフ条約の批准を義務づけている。

 日本はユポフ条約を82年にアジアで初めて批准し、98年に91年条約を批准しており、国内法の整備が義務づけられる。これに従って日本では種苗法改定に着手した。日本では種苗法によって、種苗の自家採種が容認されてきた。ところが2018年5月、農水省は自家採種を原則禁止する方向での種苗法改定の検討に入った。

 山田氏は「種子法廃止で公的な予算措置を廃止し、農業競争力強化支援法でコメの300近い品種数を民間の数種類に集約させ、外資を含めた民間企業へ長く蓄積されてきた種子の育種知見を提供させる。そして種苗法改正で自家採種を全面禁止することで農家は多国籍アグリ企業から高価格の種子を買わざるをえない状況をつくりだしていく」と指摘し、これが「日本版のモンサント法」であり、その総仕上げが種苗法の改正だとしている。

 A 90年代なかばアルゼンチン政府は、農地規制を緩和して外資の土地所有を認めた。外資が土地を買い占め、巨大な遺伝子組み換え大豆畑がつくられ、その大豆だけに耐性を持つ除草剤の空中散布によって周辺農家の作物は枯れた。国内の畑が遺伝子組み換え大豆一色になり、経済不況時に餓死する国民が続出した。イラクでも多国籍アグリ企業が在来種の種子を品種登録し、農民は主食の種子まで企業から高い値段で買うしかなくなり、食の主権を失った。

 B 種子を外資に支配され食料を輸入に依存する国は主権国家、独立国家とはいえない。アメリカは食料を戦略物資と位置づけている。ブッシュ大統領はかつて「食料自給はナショナル・セキュリティの問題だ。それにひきかえ、(どこの国のことかわかると思
けれども)食料自給できない国を想像できるか。それは国際的圧力と危険にさらされている国だ」と語った。アメリカは戦後一貫して日本国民の胃袋を牛耳るために画策してきた。安倍政府は米国産農産物の輸入を増大させるだけでなく、主食であるコメや麦、大豆の種子も含めてアメリカの多国籍アグリ企業に差し出す構えだ。TPP、日欧EPA、日米FTAまできて日本の食料をめぐる事態の激変に専門家は警鐘を鳴らしている。生産者と消費者をはじめ広範な国民が連帯して根本的な問題の解決に向けて進む必要がある。




生々しい関電衝撃情報<本澤二郎の「日本の風景」(3463)

2019年10月13日 | 犯罪
生々しい関電衝撃情報<本澤二郎の「日本の風景」(3463)
<「検察捜査は100%ない」の日本の特捜部事情>
 まもなく19号台風の影響で、木更津も停電になるため、明日のための記事を書くことにする。今日は電話での情報交換ができなくなるため、こちらから友人に電話した。相手は谷川という国税OBの参院議員の面倒を見てきた御仁である。

 彼は、関電疑獄に検察特捜部の手入れはない、と意外な判断を示した。事情を聴くと、なんと今の日本で最大の悪党で知られるの森山の孫が「東京地検特捜部の検事」というのだ。

 森友事件を思い出した。大阪地検特捜部はそっぽを向いた。その結果、女性部長は栄転した。正義に反した悪党検事が、出世するアベ自公内閣なのだ。韓国とは180度異なる。極右政権に正義は不要なのだ。

 いずれ国民の怒りが爆発するに違いない。

<森山悪党の孫が東京地検特捜部検事!>
 悪党は犯罪を隠すため、関係者の口封じを徹底する。森山の手口によって、関電疑獄は長い間、封じ込められてきた。

 しかし、金沢国税局が始動、森山にも査察が入った。間もなく、悪党は亡くなってしまった。ということは、悪党ほど神経が小さいのだ。
 それでも、彼の布石は念入りだった。孫を弁護士ではなく、検事に仕上げていた、というのである。見事な口封じの決め手だ。国税が動いても、検察は捜査しない、させないというのだ。

<金沢国税局の前局長は正義の人だった>
 だが、国税は動いた。前の金沢国税局長は正義の士だった。「検察が動かなくても、国税は見逃さない」というのだ。

 森友事件の隠ぺいに手を貸した佐川という悪人は、それ故に国税庁長官に出世したが、金沢国税局長は世紀の疑獄事件の扉を開けた。彼の勇断に繰り返し、敬意を表したい。

 関電疑獄の真相を暴くことができれば、原発超巨大利権構造が判明、結果として54基の原発は止まる。再稼働も不可能だ。法務検察は、国民を裏切っても、関電疑獄に蓋をかけることは不可能だ。
 金沢国税局は、森山の極秘メモを全て押収している。これを国政調査権で公開させればいい。民主党が逃げても、共産党や山本太郎が沈黙することはないはずだ。

<内通防止の特別査察の極秘の三人体制>
 国税出身の参院議員の選挙の面倒を見てきた友人は、国税の査察について詳しい。
 特別査察をご存知か。初めて聞いた。「OOに査察が入る」という場面では、まずは国税局長・査察部長・査察課長の三人が秘密を共有、これが局内に漏れることはない。いわんや外部にも漏れることはない。

 査察当日でも、査察官は場所も特定されない。直前に知らされ、内部通報は不可能だ。これに成功したからこその、吉田開発・森山査察での証拠の押収となったものだ。

 覚悟の査察だった。局長はまもなく更迭され、国税庁を去った。しかし、原子力ムラにメスをいれる突破口となった。彼のような人物が国税庁長官になれば、政治屋など富裕層からの脱税で、消費税はいらなくなるだろう。

 友人は、谷川から30年ほど前の事例を教えられた。それは神田青果市場の巨額脱税事件。査察官が飛び込んだ時は、市場はもぬけの殻で、証拠品は持ち去られていて、失敗した。
 これは直前に市場に査察情報が入ったためだ。「夜中に京橋税務署に修正申告していた。犯人は大金をせしめた」という。
 次も30年ほど前の事件である。八王子の資産家相続税を脱税した事件で、税理士が逮捕され、実刑を受けた。この事件には、国税局長も関与していたが、彼が逮捕されることはなかった。なぜか、それは検察と国税は一体で行動している。国税の協力を得られないと、検察は立証できないためだ。検察と国税は味方同士なのだ。

<検察は見て見ぬふりをしていた?>
 国税は必ず検察にも情報を流している。だが、検察は動かなかった。ということは、検察もまた関電疑獄を事前に知っていたことになろう。
 日本の腐敗は、正義を貫く世界で起きているということなのだ。日本も韓国並みにならないと、悪党は官邸だけでないことがわかるだろう。
2019年10月13日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)