「天皇」「日本」という呼称が生まれたのは天武天皇からという。
だからそれ以前の時代では、「天皇」「日本」という呼び名は適切ではないのだが、それでは、一般常識とも違い、煩雑になってしまうのでカッコ付きで表現したい。
百済系の天智「天皇」の後継「天皇」を倒して壬申の乱で即位した新羅系という天武天皇だったが、その権力はその後皇后を輩出した藤原氏が中心の公家層へと渡ってゆく。
天武天皇以外は伊勢神宮へと参拝していないので、それ以後の天皇家が違う血統になったのか・・明治以降は伊勢神宮へと参拝するようになったので、そのどっちかに血統の断絶があったのかもしれない。
持統天皇の血統も同様のようだ。(記紀で何度も強調されているように古代では自分の先祖霊以外を祭る神社を参拝するのはタブー)
戦前までの千数百年間、西日本の「天皇制」の実態はというと、藤原氏中心の公家層というのが正しい。
ただ、記紀にはほとんど登場しないこの藤原氏の起源に定説はない。
藤原氏と関係が深い神社(春日大社、香取・鹿島神宮)の神の使いが鹿である点から考えると、鹿がトーテムのかなり北方系氏族と推理可能だ。
死後白鳥になって北へと飛んでいったヤマトタケル等の皇族同様に・・
約一万年間の縄文時代同様に、蛇が支配層のトーテム(出雲等)だったものが、いつの間にか鳥等の多彩なトーテムに置き換えられている。
天皇家の紋については、古いの紋が日月紋であり、伊勢神宮の主神が北斗七星だったり、最大の儀式の大嘗祭(新天皇が天皇霊を受け継ぐ)での星の重要さからも・・
その後この紋がそぐわなくなったので、桐や菊に代えられたのではと推測する。
記紀から判るいくつかのポイントはー
(1)もともとのこの列島の大王は、スサノオやその後継の大国主系であり、それからの権力の簒奪は記紀の作者や記紀を編纂させた権力者も容認している点から、つい最近の事件であり、その頃の常識だったらしい。
(2)「神武東征」を歴史的に当てはめると、このスサノオ系の出雲氏族には物部氏が当てはまり、東北へと敗走した物部氏が後の東北の諸王権と繋がるのかもしれない。
(3)「コマ」というのが高句麗系の総称だが、この列島の最終的な覇者になった百済系は、「朱蒙」にもあったように、もともとが高句麗系と同属が建国した国。
(4)高句麗とは、古代朝鮮三国(高句麗・新羅・百済)の中では、最も文化の高い国であり、隋・唐とも互角の国だったし、東北関東へと優秀な馬を持ち込んだも彼らで、そのルートは沿海州・樺太・北海道という対岸が見えるルートだった思われる。(対馬海峡は対岸が見えず馬輸送には危険すぎる)
その滅亡後支配層の半分が「渤海」を建国し、残りが日本列島へと渡ってきた歴史事実があるが、渤海が”同族の国”と日本を呼び、数百年もの間平安時代に朝貢してきた理由だろう。
もともとは同属だった百済系と高句麗系は言葉も文化もほとんど同じで親近感があったろうと思う。
後に百済系が平家新羅系が源氏となるが、関東での武士王権は、以前同盟関係にあった新羅系と高句麗系が主体だったのではと思う。
平清盛をみても、平家は西日本に偏っていて、倭人の伝統を受け継ぐ交易海洋民という性格が強い。
これは、後に百済となる地域にも倭人が住んでいて、海洋交易としての伝統を受け継いだのが後の百済や平家となったという関係からの百済急援軍の派遣や、その敗北後の新羅系天武天皇の反乱即位であり、
後の関西天皇王権は倭人と百済系勢力、関東武士王権は高句麗と新羅勢力という風に本州の二大王権のせめぎ合いが日本史の底流にはあるのではと思う。
そこに、明治までは天皇の参拝がなかった・・という伊勢神宮の秘密もあるのかもしれない。
だからそれ以前の時代では、「天皇」「日本」という呼び名は適切ではないのだが、それでは、一般常識とも違い、煩雑になってしまうのでカッコ付きで表現したい。
百済系の天智「天皇」の後継「天皇」を倒して壬申の乱で即位した新羅系という天武天皇だったが、その権力はその後皇后を輩出した藤原氏が中心の公家層へと渡ってゆく。
天武天皇以外は伊勢神宮へと参拝していないので、それ以後の天皇家が違う血統になったのか・・明治以降は伊勢神宮へと参拝するようになったので、そのどっちかに血統の断絶があったのかもしれない。
持統天皇の血統も同様のようだ。(記紀で何度も強調されているように古代では自分の先祖霊以外を祭る神社を参拝するのはタブー)
戦前までの千数百年間、西日本の「天皇制」の実態はというと、藤原氏中心の公家層というのが正しい。
ただ、記紀にはほとんど登場しないこの藤原氏の起源に定説はない。
藤原氏と関係が深い神社(春日大社、香取・鹿島神宮)の神の使いが鹿である点から考えると、鹿がトーテムのかなり北方系氏族と推理可能だ。
死後白鳥になって北へと飛んでいったヤマトタケル等の皇族同様に・・
約一万年間の縄文時代同様に、蛇が支配層のトーテム(出雲等)だったものが、いつの間にか鳥等の多彩なトーテムに置き換えられている。
天皇家の紋については、古いの紋が日月紋であり、伊勢神宮の主神が北斗七星だったり、最大の儀式の大嘗祭(新天皇が天皇霊を受け継ぐ)での星の重要さからも・・
その後この紋がそぐわなくなったので、桐や菊に代えられたのではと推測する。
記紀から判るいくつかのポイントはー
(1)もともとのこの列島の大王は、スサノオやその後継の大国主系であり、それからの権力の簒奪は記紀の作者や記紀を編纂させた権力者も容認している点から、つい最近の事件であり、その頃の常識だったらしい。
(2)「神武東征」を歴史的に当てはめると、このスサノオ系の出雲氏族には物部氏が当てはまり、東北へと敗走した物部氏が後の東北の諸王権と繋がるのかもしれない。
(3)「コマ」というのが高句麗系の総称だが、この列島の最終的な覇者になった百済系は、「朱蒙」にもあったように、もともとが高句麗系と同属が建国した国。
(4)高句麗とは、古代朝鮮三国(高句麗・新羅・百済)の中では、最も文化の高い国であり、隋・唐とも互角の国だったし、東北関東へと優秀な馬を持ち込んだも彼らで、そのルートは沿海州・樺太・北海道という対岸が見えるルートだった思われる。(対馬海峡は対岸が見えず馬輸送には危険すぎる)
その滅亡後支配層の半分が「渤海」を建国し、残りが日本列島へと渡ってきた歴史事実があるが、渤海が”同族の国”と日本を呼び、数百年もの間平安時代に朝貢してきた理由だろう。
もともとは同属だった百済系と高句麗系は言葉も文化もほとんど同じで親近感があったろうと思う。
後に百済系が平家新羅系が源氏となるが、関東での武士王権は、以前同盟関係にあった新羅系と高句麗系が主体だったのではと思う。
平清盛をみても、平家は西日本に偏っていて、倭人の伝統を受け継ぐ交易海洋民という性格が強い。
これは、後に百済となる地域にも倭人が住んでいて、海洋交易としての伝統を受け継いだのが後の百済や平家となったという関係からの百済急援軍の派遣や、その敗北後の新羅系天武天皇の反乱即位であり、
後の関西天皇王権は倭人と百済系勢力、関東武士王権は高句麗と新羅勢力という風に本州の二大王権のせめぎ合いが日本史の底流にはあるのではと思う。
そこに、明治までは天皇の参拝がなかった・・という伊勢神宮の秘密もあるのかもしれない。