師走の土曜の午後、上北沢にある賀川豊彦記念・松沢資料館を訪れた。神戸のセツルメント活動や労働運動で活躍した賀川豊彦は、1923年9月の関東大震災を機に東京で活動を開始し、24年4月上北沢に転居した。このときは1年ほどで関西に戻ったが、29年7月東京市社会局の嘱託となり、11月兵庫県武庫郡瓦木村高木東(現在の西宮北口の北東部)から家族とともに、ふたたび松沢に転居した。
そして31年4月25日松沢教会を開設し、松沢幼稚園を開園した。いまも、教会、幼稚園、資料館の3つが隣り合って建っている。
神戸の記念館と同じくこの資料館にも、賀川の生涯の写真パネルや著書、手書き原稿が展示されている。そのほか賀川の自宅2階4畳半の書斎にあった机と椅子や、当初の教会の様子が復元されている。正面のステンドグラスや説教台は賀川自身のスケッチをもとにデザインされたものだそうだ。
資料館の一室として復元された当時の松沢教会
松沢幼稚園の幼稚園規則が展示されていた。3条保育課程は「自然観察、遊戯、唱歌、談話、手技、製作等」とある。4条保育時間は「春秋9時から13時半、暑い時8時半から11時半、寒い時9時半から14時」とある。人間のリズムに合っておりなかなか合理的だ。保育料は月2円50銭、当時の物価はよくわからないので高いか安いかはわからない。
さて目を引くのは、保育課程のトップにある「自然観察」である。幼稚園児なのに顕微鏡をのぞいている子どもや、ソラマメの花の分解模型をもつ子どもの写真があった。とても幼稚園児とは思えない賢そうな顔にみえた。
それどころか読み札に「羊座 アリエス Aries」「しし座 レーオ Leo」などと書かれ、取り札に星座の図がある「星座カルタ」(37年考案)や化学将棋(40年度特許申請)というものも展示されていた。
化学将棋は1940年反戦運動の容疑で賀川が拘束されたとき、独房で考案したものである。賀川は8月25日、ここ松沢教会の日曜礼拝で「エレミヤ哀歌に学ぶ」という説教を行った直後、渋谷憲兵隊に拘束され巣鴨刑務所に移された。このときは3週間で釈放されたが、その後も43年5月神戸相生橋署、11月東京憲兵隊本部に拘束された。
化学将棋の駒そのものは、普通の木の将棋の駒と同じだが、H(水素)、He(ヘリウム)、N(窒素)など元素名が書かれ、裏には1,4,14など原子量が元素記号とともに書かれている。1価の原子の駒は前のみ、2価の原子は前後、4価は前後左右、8価はすべての方向に動くことができる。陽性の元素は陰性の元素を取ることができる。そして水素を取られるとゲームオーバーになる。その他、使用駒数のルールや成金のように敵陣まで行くと陰陽が逆になる元素もある。いろいろよく考えられている。
どうして賀川はこんなに熱心に自然教育を行ったのだろうか。資料館のスタッフの方に尋ねると、賀川豊彦全集6巻の「幼児自然教案」が参考になると教えていただいた。
賀川は「雲の光」1933年11月号から34年2月号に「幼児自然教案」を3回に分けて掲載した。
「単なる博物を教えるだけであれば理学博士、工学博士を頼んできたらいい。私があえて自然教育をやかましくいうのは自然を通じて、子供たちに神を教えたいからである」「フレーベルのキンダーガーデンの『ガーデン』の部分を取り返したい」と、なぜ自然観察を重点に置くのか力説する。
そして「普通児の観察力は青年期少年期より鋭い」ので「個性の能力が発達する時に注入すればその効果は絶大」「興味、注意力、観察力を基礎にして幼児に自然の姿をぶち込んでいく」。「一番しやすいのは木の葉、結晶体、動物等でそれらは非常に美しい形をもっている」「子供にはさわらせるのが一番いい。鉱物の標本などはいちいちさわって触覚から来る感じを与えるようにしたい」と続く。
岩と土の教え方を例にとり、幼稚園3年間のカリキュラム案が示されている。まず小石拾いに子どもを川原へ連れて行く。そして岩の基本である硅石、長石、石英、輝石、角閃石の5種類を教える、2年目には酸素と一番多く結合している珪素、次にアルミニウムを教える。3年目には合計20に増やす。また火成岩、水成岩、変成岩の区別を教える、と説明されていた。「5つになる私の子どもはよくそれをおぼえていて『川原に行って水成岩をとっていらっしゃい」というと間違えないで持ってくる」と具体的に書かれていた。次に「6系32体を必ず教えてもらいたい」と書き、結晶体の教え方へと話は進む。
また33年5月の「自然と性格」では「児童の教育には、自然、芸術、瞑想と祈り、歴史、労作、博愛、人格的接触、この7つを完全に教えなければならぬ」と主張している。これは、「児童」とあるので、幼児よりもう少し大きい小中学生対象かと思われるが、やはり「自然」がトップに置かれている。
ソラマメの分解模型と手作りの結晶模型
内容がかなり高度なので、いったいどのように教えていたのかぜひ知りたいところだ。賀川は手作りの模型で、植物の仕組みを子どもたちにどう教えていたのか、興味津々である。ただ賀川の文章は明快なので、きっと理解しやすい話し方で教えていたと思われる。またいろんな工夫をしていたことが推測される。たとえば星座については鉄道唱歌のメロディで下記の歌を教えた。
黄道十二星座の歌
羊牛をひきつれて
双子の仲よし蟹をつる
そこへライオン飛び出して
びっくり仰天腰ぬかす
(以下、続く)
いま歌ってみても、とくに「びっくり仰天腰ぬかす」という節が愉快な歌だ。村山知義の妻・籌子(1903-46)は大人になっても、実家の薬売りが歌った千金丹のテーマソングの「売り子の真っ黒クロスケエーエー」という節が気に入っていたと長男の村山亜土が「母と歩く時」(2001)に書いている。戦前は現代以上に子どもに歌が重要だったことがうかがえる。
また賀川は週刊子供新聞という新聞を教文館から発行していた。「少年世界」の元編集長・大崎治部を招聘して発行した本格的なもので、サイズは菊倍判、8ページ建てで定価2銭だった。「少年世界」は巌谷小波を主筆として1895年(明治28年)1月に創刊し、33年ごろまで博文館が出版した少年向け雑誌である。大崎は「レ・ミゼラブル物語」「パレアナ物語」の訳者でもある(パレアナはポリアンナとも呼ぶ)。
松沢幼稚園のクラスの名前は、いまも3歳児太陽組、4歳児 水星組、金星組、5歳児火星組、木星組と太陽系の惑星の名前だそうだ。園庭には大きな樹木が何本かあった。梅・みかんなど実のなる木が多く、ジャムをつくるそうだ。
住所:156-0057 東京都世田谷区上北沢3-8-19
電話:03-3302-2855
開館日:火曜~土曜日
開館時間 10:00~16:30(入館は4時まで)
入館料:一般・大学生 300円、小、中、高校生 200円
そして31年4月25日松沢教会を開設し、松沢幼稚園を開園した。いまも、教会、幼稚園、資料館の3つが隣り合って建っている。
神戸の記念館と同じくこの資料館にも、賀川の生涯の写真パネルや著書、手書き原稿が展示されている。そのほか賀川の自宅2階4畳半の書斎にあった机と椅子や、当初の教会の様子が復元されている。正面のステンドグラスや説教台は賀川自身のスケッチをもとにデザインされたものだそうだ。
資料館の一室として復元された当時の松沢教会
松沢幼稚園の幼稚園規則が展示されていた。3条保育課程は「自然観察、遊戯、唱歌、談話、手技、製作等」とある。4条保育時間は「春秋9時から13時半、暑い時8時半から11時半、寒い時9時半から14時」とある。人間のリズムに合っておりなかなか合理的だ。保育料は月2円50銭、当時の物価はよくわからないので高いか安いかはわからない。
さて目を引くのは、保育課程のトップにある「自然観察」である。幼稚園児なのに顕微鏡をのぞいている子どもや、ソラマメの花の分解模型をもつ子どもの写真があった。とても幼稚園児とは思えない賢そうな顔にみえた。
それどころか読み札に「羊座 アリエス Aries」「しし座 レーオ Leo」などと書かれ、取り札に星座の図がある「星座カルタ」(37年考案)や化学将棋(40年度特許申請)というものも展示されていた。
化学将棋は1940年反戦運動の容疑で賀川が拘束されたとき、独房で考案したものである。賀川は8月25日、ここ松沢教会の日曜礼拝で「エレミヤ哀歌に学ぶ」という説教を行った直後、渋谷憲兵隊に拘束され巣鴨刑務所に移された。このときは3週間で釈放されたが、その後も43年5月神戸相生橋署、11月東京憲兵隊本部に拘束された。
化学将棋の駒そのものは、普通の木の将棋の駒と同じだが、H(水素)、He(ヘリウム)、N(窒素)など元素名が書かれ、裏には1,4,14など原子量が元素記号とともに書かれている。1価の原子の駒は前のみ、2価の原子は前後、4価は前後左右、8価はすべての方向に動くことができる。陽性の元素は陰性の元素を取ることができる。そして水素を取られるとゲームオーバーになる。その他、使用駒数のルールや成金のように敵陣まで行くと陰陽が逆になる元素もある。いろいろよく考えられている。
どうして賀川はこんなに熱心に自然教育を行ったのだろうか。資料館のスタッフの方に尋ねると、賀川豊彦全集6巻の「幼児自然教案」が参考になると教えていただいた。
賀川は「雲の光」1933年11月号から34年2月号に「幼児自然教案」を3回に分けて掲載した。
「単なる博物を教えるだけであれば理学博士、工学博士を頼んできたらいい。私があえて自然教育をやかましくいうのは自然を通じて、子供たちに神を教えたいからである」「フレーベルのキンダーガーデンの『ガーデン』の部分を取り返したい」と、なぜ自然観察を重点に置くのか力説する。
そして「普通児の観察力は青年期少年期より鋭い」ので「個性の能力が発達する時に注入すればその効果は絶大」「興味、注意力、観察力を基礎にして幼児に自然の姿をぶち込んでいく」。「一番しやすいのは木の葉、結晶体、動物等でそれらは非常に美しい形をもっている」「子供にはさわらせるのが一番いい。鉱物の標本などはいちいちさわって触覚から来る感じを与えるようにしたい」と続く。
岩と土の教え方を例にとり、幼稚園3年間のカリキュラム案が示されている。まず小石拾いに子どもを川原へ連れて行く。そして岩の基本である硅石、長石、石英、輝石、角閃石の5種類を教える、2年目には酸素と一番多く結合している珪素、次にアルミニウムを教える。3年目には合計20に増やす。また火成岩、水成岩、変成岩の区別を教える、と説明されていた。「5つになる私の子どもはよくそれをおぼえていて『川原に行って水成岩をとっていらっしゃい」というと間違えないで持ってくる」と具体的に書かれていた。次に「6系32体を必ず教えてもらいたい」と書き、結晶体の教え方へと話は進む。
また33年5月の「自然と性格」では「児童の教育には、自然、芸術、瞑想と祈り、歴史、労作、博愛、人格的接触、この7つを完全に教えなければならぬ」と主張している。これは、「児童」とあるので、幼児よりもう少し大きい小中学生対象かと思われるが、やはり「自然」がトップに置かれている。
ソラマメの分解模型と手作りの結晶模型
内容がかなり高度なので、いったいどのように教えていたのかぜひ知りたいところだ。賀川は手作りの模型で、植物の仕組みを子どもたちにどう教えていたのか、興味津々である。ただ賀川の文章は明快なので、きっと理解しやすい話し方で教えていたと思われる。またいろんな工夫をしていたことが推測される。たとえば星座については鉄道唱歌のメロディで下記の歌を教えた。
黄道十二星座の歌
羊牛をひきつれて
双子の仲よし蟹をつる
そこへライオン飛び出して
びっくり仰天腰ぬかす
(以下、続く)
いま歌ってみても、とくに「びっくり仰天腰ぬかす」という節が愉快な歌だ。村山知義の妻・籌子(1903-46)は大人になっても、実家の薬売りが歌った千金丹のテーマソングの「売り子の真っ黒クロスケエーエー」という節が気に入っていたと長男の村山亜土が「母と歩く時」(2001)に書いている。戦前は現代以上に子どもに歌が重要だったことがうかがえる。
また賀川は週刊子供新聞という新聞を教文館から発行していた。「少年世界」の元編集長・大崎治部を招聘して発行した本格的なもので、サイズは菊倍判、8ページ建てで定価2銭だった。「少年世界」は巌谷小波を主筆として1895年(明治28年)1月に創刊し、33年ごろまで博文館が出版した少年向け雑誌である。大崎は「レ・ミゼラブル物語」「パレアナ物語」の訳者でもある(パレアナはポリアンナとも呼ぶ)。
松沢幼稚園のクラスの名前は、いまも3歳児太陽組、4歳児 水星組、金星組、5歳児火星組、木星組と太陽系の惑星の名前だそうだ。園庭には大きな樹木が何本かあった。梅・みかんなど実のなる木が多く、ジャムをつくるそうだ。
住所:156-0057 東京都世田谷区上北沢3-8-19
電話:03-3302-2855
開館日:火曜~土曜日
開館時間 10:00~16:30(入館は4時まで)
入館料:一般・大学生 300円、小、中、高校生 200円