温暖だが少し風があり残った木の葉が舞い散る12月11日(土曜)午後、お茶の水の総評会館で第22回多田謡子反権力人権賞受賞発表会が開催された。多田謡子さんは、1986年に29歳の若さで亡くなった弁護士である。弁護士になってまだ2年目だった。毎年、命日の12月18日前後に発表会が開かれる。
最初に事務局から、この賞について説明があった。
「わたしたちには、財力も権威もない。一般市民として、わたしたちが反権力の運動として連帯したい団体・個人に賞を出している。ふつうは賞を授ける「授賞式」という名称だが、今日の会も、「賞をもらってほしい人」なので受賞発表会という名前にしている。今年は14候補のなかから3団体を選んだ」。
受賞した3団体はいずれも20年以上の長い歴史を持つ。「継続は力なり」という言葉がある。3人の報告を聞いてこの言葉を実感した。一方、社会の変化にフレキシブルに対応し、理念にあった新たなチャレンジを行っていることもよくわかった。
●人権と報道・連絡会
山際永三さん
人権と報道・連絡会は、報道と司法の関係を重視し、多く扱っているのは冤罪報道だ。連絡会を始めた85年は、三浦和義さんへの前年からの「疑惑の銃弾」報道の真っ最中の時代だった。週刊文春は、テレビ朝日の「トゥナイト」とタッグを組み、ウワサの段階なのに犯人視報道を繰り広げ、やがて新聞も巻き込まれていった。この時期、週刊誌は新聞が書かないことを書いて右肩上がりの成長を続けた。テレビも70年代後半に総広告費が新聞を抜き、力を付けた。われわれは「情報化時代の冤罪」という見方をし、何とかしないと日本のメディアはおかしくなる、報道が司法をダメにするという危機感から、浅野健一さん(当時共同通信、現在同志社大学)や弘中惇一郎弁護士と相談し、市民運動として会を発足させた。
わたしたちは、原則匿名報道主義やプレスオンブズマン、報道評議会を提唱したが、マスコミからものすごい抵抗を受けた。その後呼び捨てはやめるとか、手錠腰縄写真をやめるなどの小さな変革はあったが、本質的な部分は変わっていない。
マスコミのひどい報道の影には、名誉棄損に関する刑法230条の2「前項の規定の適用については、公訴が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する事実は、公共の利害に関する事実とみなす」という条文の存在がある。つまり起訴される前の人物に対して名誉毀損は成立しない、マスコミが名誉毀損してもかまわないということだ。刑法がマスコミを保護している。こういうことも問題にしてきた。
左翼の人はややもすると「権力対民衆」という発想をとりがちだ。しかし、そのあいだにマスコミが介在することを認識すべきだ。マスコミのバリアを、どちらからこじ開けるかが問題だ。
冤罪は検事や警察がつくるといわれてきた。しかし近年インターネットなどメディアの多様化が進み、市民運動が冤罪をつくる事態が発生している。
2003年浦安市の養護学級で、教諭が2人の女生徒に「わいせつ事件」を起こした。しかしこのクラスは10人の生徒に5人の教諭が付き、そういう事件が発生するのは不合理である。刑事裁判では地裁、高裁とも無罪になった。ところが市議がリードする市民運動が「わいせつ教師をクビにしろ」と市教委に圧力をかけ、民事訴訟で1審60万円、高裁で300万円の損害賠償を命じる判決が出た。市は300万円支払った後、求償を求め本人が300万円支払った。メディア多様化時代には市民運動が冤罪をつくることもありうる。こういうことにも留意すべきだ。
今後も、草の根の人権運動を目指し頑張りたい。
●山谷労働者福祉会館活動委員会
藤田五郎さん
山谷労働者福祉会館の建設は、86年ごろ日本基督教団の小田原紀雄さんらが中心となり、山谷のなかに日雇いの仲間が集える自立と解放の拠点を自分たちの力でつくろうという活動から始まった。山谷では84年12月佐藤満夫の刺殺、86年1月の山岡強一の射殺を乗り越え、映画「山谷─やられたらやりかえせ」を完成し全国上映キャラバンという方式で上映を成功させた。映画の上映に集う全国の人びと、キリスト者や労働組合の支援を得て、90年10月山谷労働者福祉会館が竣工した。タイル工、鉄筋工、コンクリ打ち、塗装工の人たちは手弁当で手伝った。
初代館長・戸村政博は開館のあいさつで「内と外が出会い、言い合うために会館ができた。内は外を必要とし、外は内を必要とする。お互いの独りよがりを脱け出るには、自分と同じでない相手が必要だ」と述べた。この会館は、形だけでない、寄せ場に開かれた空間を目指している。
開館から20年たち、山谷ではピンハネや暴力飯場に対する闘いから野宿者の生存権を奪い返す闘いへと、主軸となる活動が変わった。
日頃の活動をいくつか紹介する(会場でビデオ映像が上映された)。毎年玉姫公園で夏祭りを開催している。故郷をもたない人が、山谷を故郷としてカラオケ大会、ゲーム、盆踊りなどを行う。調理というと、活動家やボランティアがつくり、支援される人は行列をつくって並ぶイメージがある。わたしたちは、包丁を100丁ほど用意し、自分たちで料理をつくりいっしょに楽しく食べる共同炊事を実施している。
野宿者が行政に追い立てられることが頻発し、隅田川の対岸にある墨田区役所に抗議するため、2007年桜橋で集団野営(キャンプアウト行動)を行った。生活保護の集団申請を受理するよう、毛布や段ボールを準備し、役所前で約100人で泊まり込みでがんばった。その結果2日後には、区は手のひらを返したように20人全員の申請を受理した。以降集団申請で受理された人は300人に及ぶ。
最近の動きとして、今年10月墨田区が罰金罰則付きのアルミ缶・古紙回収禁止条例を制定した。野宿者にとって空き缶回収は貴重な収入源だ。抗議のため10月と11月にデモを行ったが、はじめて人出の多い吾妻橋をコースとしスカイツリーの下で解散した。区はスカイツリー完成に向け浄化運動を行い、住民は署名を行いむきだしの排斥運動を展開している。また野宿者への代執行は、自治労や都職労の組合員が先頭に立って排除している。今年は石原暴言から10年の年だ。行政トップがむき出しの排外主義を発言し、行政を担う人が排除の先頭に立ち、巷では排外主義的言辞があふれる状況にある。そうした状況のなか、会館の原点をもう一度踏まえ、差別や排除に対抗するさまざまな活動や団体と連携し、がんばってやっていきたい。
●柏崎刈羽原発反対地元三団体(原発反対守る会連合・柏崎原発反対同盟・柏崎地区労)
武本和幸さん
東京電力柏崎刈羽原発の出力は7基合計で821.2万kwの能力を持つ。日本には全部で54基の原発があるが柏崎は日本だけでなく、世界最大の原発集中立地地点である。しかし1号機は25年、一番新しい7号機でも13年と、老朽化問題が深刻化している。当初東電は寿命は30年と言っていたのに、いまは60年動かしたいと言っている。
いまから3年半前の2007年7月16日、原発は新潟県中越沖地震に直撃された。世界で初めて地震の被害を受けた原発でもある。
地震発生直後、7基とも運転を中止したが、7号機は09年5月、6号機が今年1月、1号機が今年8月営業運転を開始し、5号機も試運転に入った。しかし7号機は11月初めに制御棒がひび割れし、17日には逆止弁が水漏れを起こし、12月には5号機と7号機の出力が突然20万kw急降下した。地震の影響ではないかと懸念される。
この原発は1969年に東電が計画発表し、住民が反対運動を起こした。それからすでに41年になる。当時は田中角栄がこれから総理になるという全盛期だった。新潟県は、出雲崎をはじめ古くから日本の油田地帯なので、断層調査をしていた。住民は74年に劣悪地盤問題を提起したが、東電は「地震など起きない強固な地盤だ」と断言した。当時の地価は1反(300坪)2-5万円だったが、100万円で買収を進めた。
79年にスリーマイル島事故が発生し、設置許可取消訴訟を起こした。09年4月に最高裁で棄却され敗訴が確定したが、はじめのころはなかなか原発の議論ができなかったので、「裁判は公開の討論の場」と位置づけた。
95年ごろ原発に対する世論が大きく変わった。96年の巻町の住民投票で反対が61%となり、原発建設計画は撤回された。刈羽村では、2001年のプルサーマル住民投票で反対1900対賛成1500で勝った。
そして04年には新潟県中越地震、07年に新潟県中越沖地震が発生した。06年に国は原発の耐震設計審査指針を引き上げた。各原発の旧基準と新基準を比較すると、他は1.5倍くらいだが、柏崎南は5倍、北は3倍となり、これは柏崎が原発立地不適であることを示す。半年に1度測量をしているが、信じられないことに地震で建屋が傾いた。観測するたびに隆起の大きさが大きくなっている。地震列島の原発は危険だ。
また電力需要も大きく変化した。原発をつくらないと停電になるとか、電気が足りなくなるといわれていた。しかし東電のピーク電力は2001年をピークに下がっているし、総需要も07年をピークに下がっている。日本の人口のピークは2004年だといわれる。それなのに国は電力需要はまだまだ増えると予測している。
時代は確実に変わった。電気の需要は増えない。省資源省エネの時代だ。またカネを節約する風潮にある。地元では目の前にある原発と対峙しながら運動を続けていく決意だ。
☆山際さんの「市民運動が冤罪をつくることもある」というお話で、わたくしは第20回多田謡子反権力人権賞を受賞した増田都子さんの足立十六中学の「事件」を思い浮かべた。冤罪とは少し種類が違うが、97年6月増田さんが米軍普天間基地の問題点を地理の授業で取り上げたところ、1人の保護者が「偏向授業だ」と学校に訴え、土屋たかゆき、田代ひろし、古賀俊昭の3人の都議が先頭に立ち、北千住駅前で街頭宣伝を行い、さらに産経新聞も加わりキャンペーン活動を展開した。その後も三都議は議会などで9年間、執拗な攻撃を続け、都教委とともに2006年増田教諭を分限免職に追い込んだ。分限免職取消訴訟に対する高裁判決は来年2月10日(木)午後言い渡される予定だ。
最初に事務局から、この賞について説明があった。
「わたしたちには、財力も権威もない。一般市民として、わたしたちが反権力の運動として連帯したい団体・個人に賞を出している。ふつうは賞を授ける「授賞式」という名称だが、今日の会も、「賞をもらってほしい人」なので受賞発表会という名前にしている。今年は14候補のなかから3団体を選んだ」。
受賞した3団体はいずれも20年以上の長い歴史を持つ。「継続は力なり」という言葉がある。3人の報告を聞いてこの言葉を実感した。一方、社会の変化にフレキシブルに対応し、理念にあった新たなチャレンジを行っていることもよくわかった。
●人権と報道・連絡会
山際永三さん
人権と報道・連絡会は、報道と司法の関係を重視し、多く扱っているのは冤罪報道だ。連絡会を始めた85年は、三浦和義さんへの前年からの「疑惑の銃弾」報道の真っ最中の時代だった。週刊文春は、テレビ朝日の「トゥナイト」とタッグを組み、ウワサの段階なのに犯人視報道を繰り広げ、やがて新聞も巻き込まれていった。この時期、週刊誌は新聞が書かないことを書いて右肩上がりの成長を続けた。テレビも70年代後半に総広告費が新聞を抜き、力を付けた。われわれは「情報化時代の冤罪」という見方をし、何とかしないと日本のメディアはおかしくなる、報道が司法をダメにするという危機感から、浅野健一さん(当時共同通信、現在同志社大学)や弘中惇一郎弁護士と相談し、市民運動として会を発足させた。
わたしたちは、原則匿名報道主義やプレスオンブズマン、報道評議会を提唱したが、マスコミからものすごい抵抗を受けた。その後呼び捨てはやめるとか、手錠腰縄写真をやめるなどの小さな変革はあったが、本質的な部分は変わっていない。
マスコミのひどい報道の影には、名誉棄損に関する刑法230条の2「前項の規定の適用については、公訴が提起されるに至っていない人の犯罪行為に関する事実は、公共の利害に関する事実とみなす」という条文の存在がある。つまり起訴される前の人物に対して名誉毀損は成立しない、マスコミが名誉毀損してもかまわないということだ。刑法がマスコミを保護している。こういうことも問題にしてきた。
左翼の人はややもすると「権力対民衆」という発想をとりがちだ。しかし、そのあいだにマスコミが介在することを認識すべきだ。マスコミのバリアを、どちらからこじ開けるかが問題だ。
冤罪は検事や警察がつくるといわれてきた。しかし近年インターネットなどメディアの多様化が進み、市民運動が冤罪をつくる事態が発生している。
2003年浦安市の養護学級で、教諭が2人の女生徒に「わいせつ事件」を起こした。しかしこのクラスは10人の生徒に5人の教諭が付き、そういう事件が発生するのは不合理である。刑事裁判では地裁、高裁とも無罪になった。ところが市議がリードする市民運動が「わいせつ教師をクビにしろ」と市教委に圧力をかけ、民事訴訟で1審60万円、高裁で300万円の損害賠償を命じる判決が出た。市は300万円支払った後、求償を求め本人が300万円支払った。メディア多様化時代には市民運動が冤罪をつくることもありうる。こういうことにも留意すべきだ。
今後も、草の根の人権運動を目指し頑張りたい。
●山谷労働者福祉会館活動委員会
藤田五郎さん
山谷労働者福祉会館の建設は、86年ごろ日本基督教団の小田原紀雄さんらが中心となり、山谷のなかに日雇いの仲間が集える自立と解放の拠点を自分たちの力でつくろうという活動から始まった。山谷では84年12月佐藤満夫の刺殺、86年1月の山岡強一の射殺を乗り越え、映画「山谷─やられたらやりかえせ」を完成し全国上映キャラバンという方式で上映を成功させた。映画の上映に集う全国の人びと、キリスト者や労働組合の支援を得て、90年10月山谷労働者福祉会館が竣工した。タイル工、鉄筋工、コンクリ打ち、塗装工の人たちは手弁当で手伝った。
初代館長・戸村政博は開館のあいさつで「内と外が出会い、言い合うために会館ができた。内は外を必要とし、外は内を必要とする。お互いの独りよがりを脱け出るには、自分と同じでない相手が必要だ」と述べた。この会館は、形だけでない、寄せ場に開かれた空間を目指している。
開館から20年たち、山谷ではピンハネや暴力飯場に対する闘いから野宿者の生存権を奪い返す闘いへと、主軸となる活動が変わった。
日頃の活動をいくつか紹介する(会場でビデオ映像が上映された)。毎年玉姫公園で夏祭りを開催している。故郷をもたない人が、山谷を故郷としてカラオケ大会、ゲーム、盆踊りなどを行う。調理というと、活動家やボランティアがつくり、支援される人は行列をつくって並ぶイメージがある。わたしたちは、包丁を100丁ほど用意し、自分たちで料理をつくりいっしょに楽しく食べる共同炊事を実施している。
野宿者が行政に追い立てられることが頻発し、隅田川の対岸にある墨田区役所に抗議するため、2007年桜橋で集団野営(キャンプアウト行動)を行った。生活保護の集団申請を受理するよう、毛布や段ボールを準備し、役所前で約100人で泊まり込みでがんばった。その結果2日後には、区は手のひらを返したように20人全員の申請を受理した。以降集団申請で受理された人は300人に及ぶ。
最近の動きとして、今年10月墨田区が罰金罰則付きのアルミ缶・古紙回収禁止条例を制定した。野宿者にとって空き缶回収は貴重な収入源だ。抗議のため10月と11月にデモを行ったが、はじめて人出の多い吾妻橋をコースとしスカイツリーの下で解散した。区はスカイツリー完成に向け浄化運動を行い、住民は署名を行いむきだしの排斥運動を展開している。また野宿者への代執行は、自治労や都職労の組合員が先頭に立って排除している。今年は石原暴言から10年の年だ。行政トップがむき出しの排外主義を発言し、行政を担う人が排除の先頭に立ち、巷では排外主義的言辞があふれる状況にある。そうした状況のなか、会館の原点をもう一度踏まえ、差別や排除に対抗するさまざまな活動や団体と連携し、がんばってやっていきたい。
●柏崎刈羽原発反対地元三団体(原発反対守る会連合・柏崎原発反対同盟・柏崎地区労)
武本和幸さん
東京電力柏崎刈羽原発の出力は7基合計で821.2万kwの能力を持つ。日本には全部で54基の原発があるが柏崎は日本だけでなく、世界最大の原発集中立地地点である。しかし1号機は25年、一番新しい7号機でも13年と、老朽化問題が深刻化している。当初東電は寿命は30年と言っていたのに、いまは60年動かしたいと言っている。
いまから3年半前の2007年7月16日、原発は新潟県中越沖地震に直撃された。世界で初めて地震の被害を受けた原発でもある。
地震発生直後、7基とも運転を中止したが、7号機は09年5月、6号機が今年1月、1号機が今年8月営業運転を開始し、5号機も試運転に入った。しかし7号機は11月初めに制御棒がひび割れし、17日には逆止弁が水漏れを起こし、12月には5号機と7号機の出力が突然20万kw急降下した。地震の影響ではないかと懸念される。
この原発は1969年に東電が計画発表し、住民が反対運動を起こした。それからすでに41年になる。当時は田中角栄がこれから総理になるという全盛期だった。新潟県は、出雲崎をはじめ古くから日本の油田地帯なので、断層調査をしていた。住民は74年に劣悪地盤問題を提起したが、東電は「地震など起きない強固な地盤だ」と断言した。当時の地価は1反(300坪)2-5万円だったが、100万円で買収を進めた。
79年にスリーマイル島事故が発生し、設置許可取消訴訟を起こした。09年4月に最高裁で棄却され敗訴が確定したが、はじめのころはなかなか原発の議論ができなかったので、「裁判は公開の討論の場」と位置づけた。
95年ごろ原発に対する世論が大きく変わった。96年の巻町の住民投票で反対が61%となり、原発建設計画は撤回された。刈羽村では、2001年のプルサーマル住民投票で反対1900対賛成1500で勝った。
そして04年には新潟県中越地震、07年に新潟県中越沖地震が発生した。06年に国は原発の耐震設計審査指針を引き上げた。各原発の旧基準と新基準を比較すると、他は1.5倍くらいだが、柏崎南は5倍、北は3倍となり、これは柏崎が原発立地不適であることを示す。半年に1度測量をしているが、信じられないことに地震で建屋が傾いた。観測するたびに隆起の大きさが大きくなっている。地震列島の原発は危険だ。
また電力需要も大きく変化した。原発をつくらないと停電になるとか、電気が足りなくなるといわれていた。しかし東電のピーク電力は2001年をピークに下がっているし、総需要も07年をピークに下がっている。日本の人口のピークは2004年だといわれる。それなのに国は電力需要はまだまだ増えると予測している。
時代は確実に変わった。電気の需要は増えない。省資源省エネの時代だ。またカネを節約する風潮にある。地元では目の前にある原発と対峙しながら運動を続けていく決意だ。
☆山際さんの「市民運動が冤罪をつくることもある」というお話で、わたくしは第20回多田謡子反権力人権賞を受賞した増田都子さんの足立十六中学の「事件」を思い浮かべた。冤罪とは少し種類が違うが、97年6月増田さんが米軍普天間基地の問題点を地理の授業で取り上げたところ、1人の保護者が「偏向授業だ」と学校に訴え、土屋たかゆき、田代ひろし、古賀俊昭の3人の都議が先頭に立ち、北千住駅前で街頭宣伝を行い、さらに産経新聞も加わりキャンペーン活動を展開した。その後も三都議は議会などで9年間、執拗な攻撃を続け、都教委とともに2006年増田教諭を分限免職に追い込んだ。分限免職取消訴訟に対する高裁判決は来年2月10日(木)午後言い渡される予定だ。