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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

但馬の特色あるミュージアム

2022年10月09日 | 博物館など

9月半ば、但馬に旅行に行ったことは9月25日の記事に書いたが、トピックスをいくつか紹介する。
但馬は平安時代中期の延喜式によれば、現在の兵庫県豊岡市、養父市、朝来市の一部、美方郡から成る地域で現在の人口18万人(2010年の国勢調査)、うち今回旅した豊岡市が約半分(8.56万人)を占める。

豊岡駅からバスで東に15分行ったところに豊岡市立コウノトリ文化館がある。30分に一度解説員による10分程度のコウノトリの説明がある。
コウノトリという名はよく耳にするものの本物を見た人は少ないのではなかろうか。日本のコウノトリは一度1971年に姿を消したが、85年ハバロフスクから6羽譲ってもらい05年から試験放鳥を始め07年野外での繁殖に成功した。復活してまだ15年、日本生まれのコウノトリは足環をしていて個体識別ができるが、豊岡から飛び立ったコウノトリは全国、いや宮古島や韓国でも発見された。一度に400㎞も飛ぶ能力があり、東京では葛西臨海公園で観察された
もともと渡り鳥で、ロシアのアムール川流域に生息し、中国、日本、韓国などに越冬のため移動する。羽を広げると2mもある大型の鳥で、魚、カエル、バッタ、モグラ、蛇などを食べ完全な肉食動物で、植物は食べない。1mの蛇、40㎝のなまずを丸のみにする。ということで水田が適地で、しかもきれいな自然が残っているところがよい。それで豊岡にコウノトリが多いとのことだ。たしかに豊岡には、コウノトリだけでなく、昆虫でもゲンゴロウ、タガメ、オオウラギンヒョウモン、アオハダトンボ、ムカシトンボなど絶滅危惧種が多く棲息するそうだ。
コウノトリと西洋のコウノトリは種類が異なり、コウノトリの口ばしが黒なのに対し、赤なのがシュバシコウという鳥だそうだ。ということはヨーロッパでは「コウノトリが赤ん坊を運んでくる」というが、それは間違いで「シュバシコウが赤ん坊を運んでくる」ということになる。
また鶴とも種類が違うそうだ。鶴は口ばしが黄色で、地上を助走しないと飛べない。だから江戸時代の絵で松の木の上にツル(タンチョウヅル)が止まっている絵をよく見るが、それでは飛び立てないので、すべてコウノトリの間違いなのだそうだ。そして鶴は鳴くが、コウノトリは鳴かない。口ばしを打ち鳴らすクラッタリングという方法でコミュニケーションを取る。見学中に2度クラッタリングを聴くことができた。
文化館の回りにコウノトリの郷公園があり、身近にコウノトリをみることができた。また人工の巣が高い柱の上に設営されていた。寿命はかなり長く40歳くらいまで生きる個体もある。生態はまだまだわからないことも多く、すぐ隣の県立大学大学院地域資源マネジメント研究科で研究しているそうだ。

豊岡市立美術館(伊藤清永記念館) 写真右手にtupera tuperaのリンゴリラがある
出石に豊岡市立美術館(伊藤清永記念館)という美術館がある。辰鼓楼や家老屋敷がある出石の観光の中心部に位置する。7月下旬NHK「あさイチ」金曜のプレミアムトークtupera tupera(ツペラツペラ)を取り上げていたのを偶然みた。
わたしはtupera tuperaの名前すら知らなかったが、パンダの親子3人が銭湯に行き黒い衣装を1枚ずつ脱ぎシロクマになる、とか果物・野菜に手足、顔をつけた「リンゴリラ」「キュワニ」「スイカメ」を登場させるなど、素材を活かしイマジネーションをかき立てる作品で、子どもだけでなく大人も十分楽しめるレベルの作品だった。
たまたま9月にこの美術館で原画展をやっていることを知り、それならこの機会にみにいこうと思った。
tupera tuperaは2002年に結成した亀山達矢と中川敦子の夫婦2人のユニット、テレビでは、アトリエの横長の大きい窓からみえる京都の賀茂川がとても美しかった
作品は、たとえば亀山がアイディア出しし中川がデッサンする、それを基に亀山がちょうどよい色形の野菜の買い出しに出かけ中川が回りに貼る布地や紙を探し出す、亀山が顔を描き中川がカッティングしノリ貼りする、というような完全協業で進行して完成する。
印刷会社や製本会社の協力も欠かせない。「しかけ絵本ができるまで」という動画を上映していた。製版塗り足し、色調整、抜き型作成、型抜き、むしり作業、手折り作業などしかけ絵本は工程が多く、しかも手作業も多い。動画は出版社のブロンズ新社が制作したものなので作者がどこまで関与しチェックするのかはわからないが、なかなか大変そうだ。動画はこのサイトで見られる。
原画展は、絵本「いろいろバス」が「バスの旅」、「ワニーニのぼうけん」が「船の旅」という具合で、最後は「わくせいキャベジ動物図鑑」の星への旅」で6つの旅(ツアーズ)を巡る形式になっていた。わたしは「リンゴリラ」「キュワニ」などが登場する「星への旅」がとくに好きだった。
なお、美術館の名にある伊藤清永(1911-2001)は出石出身の洋画家で、日展や白日会で活躍した。作品も数点展示されていたが、わたしにはピンとこなかった。

出石でもうひとつ、観光マップには「酒の史料館」のような表示があった。出石藩ゆかりの史料を展示する出石史料館よりは面白そうだったので付近を探したが、みつからない。あるはずの場所に「楽々鶴(ささづる)の看板を掲げた酒造メーカー・出石酒造があった。しかしみたところ普通の店のようだったので、尋ねると「工場以外の見学はできる」とのことだった。広い土間があり、奥が醸造工場とのことだった。相当な高さがある天井に古い商家の帳場のような畳の間が広がっていて、大きな神棚とお年寄り夫妻の写真が掲げられていた。第10代夫妻とのことだった。正座していねいに説明してくださったのは現当主14代の奥方だった。4代も前というと明治時代の写真かもしれない。
創業1708年、この建物も140年前のものというので貴重だ。室内に日本酒や缶ビールが入った冷蔵ショーケースがあった。醸造業なのにこういうものを置けるのかと思ったら、酒販店の免許も取っているので堂々と販売できるとのことだった。
一般の民間博物館ではなく、事業所開放のような施設だったが、お忙しいなか珍しいお話を聞け、貴重なものを見ることができた。

城崎文芸館・館外の志賀直哉文学碑
城崎では、城崎文芸館に行った。この施設は、事業主体は市だが運営主体が城崎温泉観光協会であるだけに、ふつうの近代文学館とは違う。第1室に「城崎温泉の歴史」や「城崎温泉の評価」というコーナーがある。「評価」とは江戸時代の番付で、西の大関・有馬、関脇・城崎、小結・道後、前頭・山中に対し、東は大関・草津、関脇・那須、小結・諏訪、前頭・湯河原となっていて現代でも有名な温泉ばかりだが、城崎は堂々「西の関脇」と評価されているのが興味深い。
城崎といえば、文豪・志賀直哉の小説「城の崎にて」である。館内の「志賀直哉と城崎のかかわり年譜」によると志賀がはじめて城崎に来たのは1913年10月30歳のとき、「城崎にて」の冒頭にあるように8月にJR山手線にはねられ10月18日から翌月7日まで3週間湯治のため訪れた。翌14年に2回来て「城の崎にて」の草稿を執筆(発表は17年5月の雑誌「白樺」)。その後も「暗夜行路」前編発刊後の22年10月、24年に3回、29年、34年と旅行、執筆、校正、療養などで再訪し、最後は36年8月53歳のとき約1週間滞在した。よほど気に入ったようだ。64年には「文学碑」のための署名を依頼され、書き送った。81歳のときだった。
直哉は白樺の創刊メンバーだったが、白樺同人も多く来訪した。たとえば木下利玄、里見弴、有島武郎などで「白樺派の足跡マップ」という城崎マップが掲示されていた。
2階ロビーに机があり岩波書店版「志賀直哉全集」(1973-74)15冊と書簡集が並んでいた。第2巻小説2に「城の崎にて」が収録されていた。175pを開き「山の手線の電車に跳ね飛ばされて怪我をした、其後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。背中の傷が・・・」とこの席に座って読み始めると、感慨ひとしおだった。
館外脇に「『城崎にて』 直哉 彼方の路へ差し出した桑の枝で或る一つの葉だけがヒラヒラヒラヒラ同じリズムで動いてゐる・・・」という金属の碑がある。ただし「直哉」の文字だけが手書きで、他は活字だった。志賀直哉以外にも城崎には、駅前の島崎藤村、一の湯横の与謝野寛・晶子、野口雨情、有島武郎など文学碑が多くある。

前列、たくさん下駄が並んでいるように見えるのが、tuperatupera のジャバラ絵本「城崎ユノマトペ」
1階の企画展コーナーには「『本と温泉』のつくり方。」というタイトルで、tupera tupera の「城崎ユノマトペ」ほか絵本がたくさん展示されていた。
城崎には「本と温泉」というプロジェクトがある。「城崎温泉旅館経営研究会が立ち上げた出版レーベル」だそうだ。2013年志賀の「城の崎にて」を新編集で出したのが第1弾(1000円)、第2弾が2014年万城目学の書下ろし「城崎裁判」(1700円)、第3弾が湊かなえの書下ろし「城崎へかえる」(2016年1200円)、そして第4弾が鼻緒付きの下駄の表紙の「城崎ユノマトペ」(2020年2000円)、長い1冊のジャバラ絵本である。ブックディレクター・幅允孝(BACH)の編集により、きちんと商品化していることに驚く。

いまは平田オリザ青年団の演劇で有名な豊岡になりつつあるが、もともと文学の素地が存在した土地のようだ。

祢布ヶ森遺跡
そのほか、江原に歴史博物館がある。但馬国分寺但馬国府跡祢布ヶ森(にょうがもり)遺跡)があったからだ。暑いなか何度も人に道を聞き1㎞ほどの道を歩いたが、水曜は残念ながら休館日だった。美術館などで月曜休館はよくあるが、水曜が休みとは気づかなかった。
企画展は「大石理玖と豊岡」開催中だった。理玖は、豊岡藩家老・石束毎公(つねよし)の長女で、赤穂浪士の大石内蔵助良雄に嫁いだ。豊岡のカバンストリートの近くに、たしかに大石理玖生家の碑があった。
人でいうと、豊岡では「五軒長屋に東大総長・浜尾新が生まれた」という記述をガイドブックでみた。現地で観光協会や郷土史に詳しい人がいる店で尋ねたがわからず、おそらくこの辺りだろうという豊岡小学校近くの住宅街の路地に行ってみたが、ヒントになるようなものは見当たらなかった。浜尾は東京帝国大学第3代総長である。しかも1893年と1905年に2度務めた。そういえば、2代総長(それ以前の職制・総理を含めると初代)加藤弘之は出石藩士の息子で、城址から500mくらいのところにいまも生家があり、こちらははっきりしている。
昭和20年まで東京帝大総長は、1886年の渡邊洪基から1943年就任の内田祥三まで12人いる。うち2人が豊岡出身とはすごい。その他、1940年に「反軍演説」を議会で行い、除名された斎藤隆夫も出石出身だ(そのうえ斎藤は42年の総選挙で返り咲いた)。
出石の明治館の「歴史を彩った出石の人物展」では、いきなり大塚久雄小林秀雄の肖像画が掲示されていてびっくりした。ただ説明文を読むと、大塚は祖先の親族に姉小路局という大奥の人がいて出石藩の藩政改革を推進したとのこと、小林は祖父が出石藩士だったとのことで、本人が直接出石と関係があったわけではなさそうだ。
そういうレベルなら、日本のあちらこちらの地方都市にもあるだろう。
コウノトリが棲む豊岡ほど美しい自然が残る町はあまりないにせよ、歴史・文化や出身の人で特色のある町はたくさんあると思われる。
旅にはいろんな発見がある

●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。


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