駒場公園にある前田侯爵邸を訪れた。
日本には旧華族が約1000家あったといわれ、そのうち公爵は公家、徳川本家、勲功者の伊藤、松方、島津、毛利など20家、侯爵が42家に過ぎない。42家のうち武家は、徳川御三家と15万石以上の大名家が相当し、池田、黒田、鍋島、細川、山内など14家が叙爵された。
侯爵・前田利為(としなり)は1885年生まれ、旧加賀藩主前田本家16代当主である。陸士出身で若いころからドイツ、イギリス、フランスなどに留学し、1927年にイギリス大使館付武官となった国際派である。1929年に海外の賓客をもてなす迎賓館を兼ねて駒場にチューダー様式の邸宅を建設した。建築面積1129平方メートル(340坪)、地下1階地上3階、延床面積2930平方メートル(880坪)の大邸宅である。
玄関のポーチには、まだ花は咲いていないがブルグンド81、クイーンエリザベス、ゼントルメードなどのバラがあった。屋敷の周りには、楠、松、ツツジ、棕櫚のほか、わたしが知らないナツツバキ、サンゴシュ、ウバメカシ、エゾユズリハ、ニッケイ、エゴノキ、ヒサカキなど樹木がたくさんあり鳥がさえずる声も聞こえた。建物外部にはガーゴイルが2つ付いていた。まるで中世イギリスの建物のようだ。
1階は応接、サロン、大食堂、小食堂など見学可能な部屋が6室、2階が居室で15室ある。2階の南側2/3くらいが夫妻の書斎や寝室、4人の子ども部屋、ゲストが泊まる部屋である。
どの部屋にも高さ1.5m、幅2mほどの大理石の暖炉がある。大食堂のものは高さ2m、幅3mもある巨大なものだ。
サロン、大食堂などは使用人のいる皇室でもなければ、いまは存在しないと思われる。窓のステンドガラスや階段の彫刻が美しい。吹き抜け部分の下から見上げると、階段の下の部分にも手の込んだレリーフが彫り込まれている。窓枠や照明器具の留め金など金属製品もひとつひとつが美術工芸品である。
書斎には机と応接セット、寝室には三面鏡、姿見、ベッドが置かれていた。貴族の使う家具とはどんなものなのか少しわかった。
建築物の展示の場合、引越し直後の空洞状態の部屋か、簡素なモデルルームのように最低限の家具や店の道具があるだけのことが多い。しかし、この屋敷のいくつかの部屋には、使用していた当時の室内写真が掲示されている。建築そのものに興味のある人と違い、わたしのように当時の雰囲気を味わおうとやってくる人には、当時の写真はとても貴重である。たとえばホールには3m×2mくらいの大きな洋画がかけてあり、菊の鉢植えが3つ、大きな観葉植物が置かれていた。テーブルにも花があり、シャンデリアが引き立っていた。
書斎には洋風の肖像画だけでなく、書を入れた扁額も掲げられていた。寝室にはルノワール風の裸婦の絵がかかっていた。どの部屋にも花瓶にさした花や観葉植物、絵画がたくさん置かれていた。長女の部屋には応接セット、和だんす、衣装だんすがあり、マントルピースに和風の人形をのせ、壁に写真がたくさん飾られていた。長女とは1926年生まれの酒井美意子のことである。三女の部屋には女の子の人形と、枠がついた幼児用と思われるベッドが置かれていた。
大食堂には、写真から推測するとイスが20-24脚セットされていたようだ。イスの背もたれの彫刻もデコレイティブだった。小食堂は6人掛けなので、家族は普段はこちらを使用していたのではなかろうか。屋外の解説板に「上流社会の生活を偲ぶことができる貴重な歴史的建造物」と書かれていた。写真のおかげで、1930年ごろの上流社会を想像できた。
赤いじゅうたんを敷いた広い廊下に、ガラス戸のある作りつけの飾り棚があったが、昔は前田家に伝わる鎧や兜が飾ってあったのかもしれない。
廊下の先にある5段ほどの短い階段を下りると女中たちの空間が広がる。廊下の幅も主人たちの廊下の半分くらいの、われわれの家にあるつつましい廊下に変わる。わたしはかえって落ち着くのだが、きっと生まれの違いなのだろう。10畳の部屋、6畳の和室が2部屋、キッチン、集会室などがある。目がどうかしたのか、10畳の和室がいやに狭くみえる。和室にはどの部屋にも床の間が付いている。
2階の内側の窓から中庭が見下ろせる。大きな石組みの煙突があった。もちろん暖炉の煙も排煙しただろうが、使用人が100人もいたということなので、調理の換気やゴミの焼却にも使われたはずだ。西麻布の三井八郎衛門邸や池之端の岩崎邸と同じようにきっと活気に満ちていたのだろう。
このほか1930年に竣工した和館がある。21畳と17.5畳の2つの広間がメインで、茶室も付いている。居住用ではなく、ひな祭りや端午の節句に使われたそうだ。いま茶室と10畳の和室は有料で貸し出されている。
野外には大きな芝生の庭が広がる。普通の児童公園3つ分くらいの広さだ。周囲の木は桜で、花見の時期には人が大勢くるとのことだった。いまは紅梅と白梅が咲いていた。
昭和になってからとはいえ、どうして前田侯爵が都心から離れたこんな場所で暮らしていたのか不思議に思った。前田家は本郷にあったが、当時隣接する東京帝大の敷地が狭くなり、1926年に駒場の農学部の一部4万坪および演習林1万余坪と本郷前田邸を等価交換するかたちで駒場に移った。
当主は、この屋敷が竣工した13年後、1942年9月ボルネオで戦死した。57歳だった。屋敷は戦争末期の44年には丸の内から疎開した中島飛行機製作所本社となり、敗戦後はホワイトヘッド第五空軍司令官の官邸として接収された。
1964年東京都が買収し、67年東京都近代文学博物館としてオープンした。しかし2002年に廃館になり、前田邸として公開することになった。なお、東京都近代文学博物館はすぐ隣にある日本近代文学館とは別のものである。
☆屋敷の周囲にも高級住宅が並んでいる。南西には柳宗悦が1935年に住み始め、翌年自宅の向かい側に日本民藝館が開館した。ちょうど前田邸が完成したころである。
住所:東京都目黒区駒場4-3-55 駒場公園内
電話:03-5320-6862
開館日:水曜日~日曜日
開館時間:9:00~16:30
入館料:無料
日本には旧華族が約1000家あったといわれ、そのうち公爵は公家、徳川本家、勲功者の伊藤、松方、島津、毛利など20家、侯爵が42家に過ぎない。42家のうち武家は、徳川御三家と15万石以上の大名家が相当し、池田、黒田、鍋島、細川、山内など14家が叙爵された。
侯爵・前田利為(としなり)は1885年生まれ、旧加賀藩主前田本家16代当主である。陸士出身で若いころからドイツ、イギリス、フランスなどに留学し、1927年にイギリス大使館付武官となった国際派である。1929年に海外の賓客をもてなす迎賓館を兼ねて駒場にチューダー様式の邸宅を建設した。建築面積1129平方メートル(340坪)、地下1階地上3階、延床面積2930平方メートル(880坪)の大邸宅である。
玄関のポーチには、まだ花は咲いていないがブルグンド81、クイーンエリザベス、ゼントルメードなどのバラがあった。屋敷の周りには、楠、松、ツツジ、棕櫚のほか、わたしが知らないナツツバキ、サンゴシュ、ウバメカシ、エゾユズリハ、ニッケイ、エゴノキ、ヒサカキなど樹木がたくさんあり鳥がさえずる声も聞こえた。建物外部にはガーゴイルが2つ付いていた。まるで中世イギリスの建物のようだ。
1階は応接、サロン、大食堂、小食堂など見学可能な部屋が6室、2階が居室で15室ある。2階の南側2/3くらいが夫妻の書斎や寝室、4人の子ども部屋、ゲストが泊まる部屋である。
どの部屋にも高さ1.5m、幅2mほどの大理石の暖炉がある。大食堂のものは高さ2m、幅3mもある巨大なものだ。
サロン、大食堂などは使用人のいる皇室でもなければ、いまは存在しないと思われる。窓のステンドガラスや階段の彫刻が美しい。吹き抜け部分の下から見上げると、階段の下の部分にも手の込んだレリーフが彫り込まれている。窓枠や照明器具の留め金など金属製品もひとつひとつが美術工芸品である。
書斎には机と応接セット、寝室には三面鏡、姿見、ベッドが置かれていた。貴族の使う家具とはどんなものなのか少しわかった。
建築物の展示の場合、引越し直後の空洞状態の部屋か、簡素なモデルルームのように最低限の家具や店の道具があるだけのことが多い。しかし、この屋敷のいくつかの部屋には、使用していた当時の室内写真が掲示されている。建築そのものに興味のある人と違い、わたしのように当時の雰囲気を味わおうとやってくる人には、当時の写真はとても貴重である。たとえばホールには3m×2mくらいの大きな洋画がかけてあり、菊の鉢植えが3つ、大きな観葉植物が置かれていた。テーブルにも花があり、シャンデリアが引き立っていた。
書斎には洋風の肖像画だけでなく、書を入れた扁額も掲げられていた。寝室にはルノワール風の裸婦の絵がかかっていた。どの部屋にも花瓶にさした花や観葉植物、絵画がたくさん置かれていた。長女の部屋には応接セット、和だんす、衣装だんすがあり、マントルピースに和風の人形をのせ、壁に写真がたくさん飾られていた。長女とは1926年生まれの酒井美意子のことである。三女の部屋には女の子の人形と、枠がついた幼児用と思われるベッドが置かれていた。
大食堂には、写真から推測するとイスが20-24脚セットされていたようだ。イスの背もたれの彫刻もデコレイティブだった。小食堂は6人掛けなので、家族は普段はこちらを使用していたのではなかろうか。屋外の解説板に「上流社会の生活を偲ぶことができる貴重な歴史的建造物」と書かれていた。写真のおかげで、1930年ごろの上流社会を想像できた。
赤いじゅうたんを敷いた広い廊下に、ガラス戸のある作りつけの飾り棚があったが、昔は前田家に伝わる鎧や兜が飾ってあったのかもしれない。
廊下の先にある5段ほどの短い階段を下りると女中たちの空間が広がる。廊下の幅も主人たちの廊下の半分くらいの、われわれの家にあるつつましい廊下に変わる。わたしはかえって落ち着くのだが、きっと生まれの違いなのだろう。10畳の部屋、6畳の和室が2部屋、キッチン、集会室などがある。目がどうかしたのか、10畳の和室がいやに狭くみえる。和室にはどの部屋にも床の間が付いている。
2階の内側の窓から中庭が見下ろせる。大きな石組みの煙突があった。もちろん暖炉の煙も排煙しただろうが、使用人が100人もいたということなので、調理の換気やゴミの焼却にも使われたはずだ。西麻布の三井八郎衛門邸や池之端の岩崎邸と同じようにきっと活気に満ちていたのだろう。
このほか1930年に竣工した和館がある。21畳と17.5畳の2つの広間がメインで、茶室も付いている。居住用ではなく、ひな祭りや端午の節句に使われたそうだ。いま茶室と10畳の和室は有料で貸し出されている。
野外には大きな芝生の庭が広がる。普通の児童公園3つ分くらいの広さだ。周囲の木は桜で、花見の時期には人が大勢くるとのことだった。いまは紅梅と白梅が咲いていた。
昭和になってからとはいえ、どうして前田侯爵が都心から離れたこんな場所で暮らしていたのか不思議に思った。前田家は本郷にあったが、当時隣接する東京帝大の敷地が狭くなり、1926年に駒場の農学部の一部4万坪および演習林1万余坪と本郷前田邸を等価交換するかたちで駒場に移った。
当主は、この屋敷が竣工した13年後、1942年9月ボルネオで戦死した。57歳だった。屋敷は戦争末期の44年には丸の内から疎開した中島飛行機製作所本社となり、敗戦後はホワイトヘッド第五空軍司令官の官邸として接収された。
1964年東京都が買収し、67年東京都近代文学博物館としてオープンした。しかし2002年に廃館になり、前田邸として公開することになった。なお、東京都近代文学博物館はすぐ隣にある日本近代文学館とは別のものである。
☆屋敷の周囲にも高級住宅が並んでいる。南西には柳宗悦が1935年に住み始め、翌年自宅の向かい側に日本民藝館が開館した。ちょうど前田邸が完成したころである。
住所:東京都目黒区駒場4-3-55 駒場公園内
電話:03-5320-6862
開館日:水曜日~日曜日
開館時間:9:00~16:30
入館料:無料