35度を超える炎暑のなか、62回目の敗戦記念日に千駄ヶ谷区民会館で開催された
「美しい国」の「美しい死者」はいらない
国家による「慰霊・追悼」に反対する8.15集会
に参加し2つの講演を聞いた。
彦坂 諦さん(作家)の講演
1984年11月~12月に旧海軍軍人の南太平洋慰霊の旅に参加した。わたしの作品「ある無能兵士の軌跡」で取材した赤松・元一等兵が、もう一度ガダルカナルのジャングルにいってみたいというので同行したものである。
船上で一木支隊の映画をみた。一木支隊の歩兵(900人)は中国戦線での白兵戦では強かったが、ガダルカナルの2万人の米軍砲兵隊の前では精鋭ぶりを発揮する前にあっけなく全滅した。映画で、砂浜に横たわる童顔の兵のあどけない死に顔が映り、観客の涙を誘った。平敦盛のようだった。
そのときわたしは「ここが問題だ」と思った。ここで美しい死に顔に感動してよいのか、という疑問を抱いたのである。
まったく同じ場面を五味川純平は、トレガスキスの「ガダルカナル日記」をもとに「早くも強烈な腐臭を放った。汀に倒れている死体はつやつやしたソーセージのように膨張して、ぬるぬる光って見えた」と描いた。
一般に死体は、腐る、ウジがわく、膨れ上がる、溶ける、白骨化するという過程をたどる。死はそれぞれ個別である。まして戦場で美しい死などあろうはずがない。重油がベットリ付着し、溺死した黒い死体、手足がもげた死体、首のない死体・・・。
ロマンチックな映像は人を不快にさせない、人の命の重さをしみじみ感じさせ。現実を美化するが、人間的真実を隠蔽する。そして、見ている自分は少しも傷つかない。
死の不条理への憤りを感じることもなく「尊い死」などといってよいのだろうか。
近代国家が必要とするのは「美しい戦死者」であり、「愛国の勇士」「国家の誇り」といった抽象的な「物語」である。本当は美しくない具体的な存在は物語の秩序をこわすので、のっぺらぼうの存在にしてしまう。「公刊 戦史叢書」でも都合の悪いところは、美文調で美しく書かれる傾向がある。
理不尽な死に追いやったのは国家なのに、その張本人の国家が民衆の死に意味を与え、新たな死を生もうとする。本当は責任を負わせないといけないのに、責任をあいまいにしてしまう。だから国家が死者をたたえることを許してはいけない。どの国にも戦没者への慰霊や無名兵士の墓があるが、国家による慰霊・追悼を許容してはいけない。
わたしは、追悼そのものは自然な感情だと思う。いまここにいるはずの人がいない。いまここにいない人のためにその気持ちをわかちあうのが、追悼の原点である。それは否定しない。
しかしセレモニーになるとその原点を離れていく。わたしはあらゆるセレモニーに違和感や危険を感じる。セレモニーでは、死者を悪くいう人がいなくなる。ある意味で麻薬だ。ましてや、国家によるセレモニー=民衆の死に意味を与える儀式は拒否する。だれよりも何よりも大切な具体的な人間を、国家にくすね取られることになるから。
他人(とりわけ国家)にくすねとられないようにするには、大切なかけがえのないこの人の死は私が悼むのだという決意、誰にも委ねない、私自身が決めるという決意がないといけない。
☆彦坂さんは7月末に亡くなった小田実と同年生まれという。中学以降、卒入学式にも出席せず、連れ合いの死に際しても(故人の遺志を尊重し)葬儀も行わず、一片の骨のみ手元に置いているのみとのことでした。
会場からの「なぜ戦争体験者が自分の体験を語らないのか」という質問に対し「しゃべれない」「しゃべりたくない」という理由のほか「戦友会の縛りがあり、特定の人との関係で角が立つのでしゃべれないという事情もある」と答えられました。たしかに戦後60年も立って、ポツリポツリ話す人が現れた背景にそういう事情もあるのかと、納得させられました。
東 琢磨さん(音楽評論家)の講演
今日は8月15日だが、東京の8.15は広島では8.6である。しかしわたしは平和記念式典に参列したことはない。参列している「善良な市民」をみると、まるで戦前の記録映画をみているような気になる。
広島は世界初の被爆地だが、同時に第五師団の本拠地である軍都であった。師団司令部は平和記念公園の北方1キロ足らずの広島城近くにあった。1894年の日清戦争のときには広島城に大本営が置かれた。師団跡地は戦後バラック街となり、1976年に基町・長寿園高層アパートとして再開発された。
また、廃線になった宇品線には軍港宇品があった。宇品港を一緒に出港したのに戻らなかった人を悼みタチアオイを植える、市の追悼行為追悼と異なる追悼を20年前に始め、現在104歳の老人がいる。
広島、長崎に、ビキニ、チェルノブイリ、劣化ウラン兵器まで含めるグローバルヒバクシャ研究会という活動をしている人もいる。
今年の8月6日には中央公園で韓国の「マダンの光」が死者とともに「いまここにいないという感覚を呼び覚ます」行為(パフォーマンス)を行った。
いずれもゴテゴテに塗り固められた平和公園や半永久的に固定された原爆ドームとは違う風景といえる。
わたしも、国家による「慰霊・追悼」はいらない。
広島市の南には呉市があり、呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)や潜水艦「あきしお」を展示する海上自衛隊呉史料館「てつのくじら館」がある。
また麻生太郎外相が提唱し、PKOを容認し9条を否定する平和構築「寺子屋」が、この9月から広島で始まる。ODAに国際NGOをからませるものだが、土建行政の発想で、良心的なボランティアを国家政策に巻き込もうという運動だ。広島の良心的な大学生が国家と一体化した平和構築のコマにされ、元締めにはカネが入り、ボランティアはただ働きさせられる可能性がある。
またIHIでは、契約社員が自衛官の監視のもとで働いている実態もある。
こういう事態が広島で進んでいることも知ってほしい。
「美しい国」の「美しい死者」はいらない
国家による「慰霊・追悼」に反対する8.15集会
に参加し2つの講演を聞いた。
彦坂 諦さん(作家)の講演
1984年11月~12月に旧海軍軍人の南太平洋慰霊の旅に参加した。わたしの作品「ある無能兵士の軌跡」で取材した赤松・元一等兵が、もう一度ガダルカナルのジャングルにいってみたいというので同行したものである。
船上で一木支隊の映画をみた。一木支隊の歩兵(900人)は中国戦線での白兵戦では強かったが、ガダルカナルの2万人の米軍砲兵隊の前では精鋭ぶりを発揮する前にあっけなく全滅した。映画で、砂浜に横たわる童顔の兵のあどけない死に顔が映り、観客の涙を誘った。平敦盛のようだった。
そのときわたしは「ここが問題だ」と思った。ここで美しい死に顔に感動してよいのか、という疑問を抱いたのである。
まったく同じ場面を五味川純平は、トレガスキスの「ガダルカナル日記」をもとに「早くも強烈な腐臭を放った。汀に倒れている死体はつやつやしたソーセージのように膨張して、ぬるぬる光って見えた」と描いた。
一般に死体は、腐る、ウジがわく、膨れ上がる、溶ける、白骨化するという過程をたどる。死はそれぞれ個別である。まして戦場で美しい死などあろうはずがない。重油がベットリ付着し、溺死した黒い死体、手足がもげた死体、首のない死体・・・。
ロマンチックな映像は人を不快にさせない、人の命の重さをしみじみ感じさせ。現実を美化するが、人間的真実を隠蔽する。そして、見ている自分は少しも傷つかない。
死の不条理への憤りを感じることもなく「尊い死」などといってよいのだろうか。
近代国家が必要とするのは「美しい戦死者」であり、「愛国の勇士」「国家の誇り」といった抽象的な「物語」である。本当は美しくない具体的な存在は物語の秩序をこわすので、のっぺらぼうの存在にしてしまう。「公刊 戦史叢書」でも都合の悪いところは、美文調で美しく書かれる傾向がある。
理不尽な死に追いやったのは国家なのに、その張本人の国家が民衆の死に意味を与え、新たな死を生もうとする。本当は責任を負わせないといけないのに、責任をあいまいにしてしまう。だから国家が死者をたたえることを許してはいけない。どの国にも戦没者への慰霊や無名兵士の墓があるが、国家による慰霊・追悼を許容してはいけない。
わたしは、追悼そのものは自然な感情だと思う。いまここにいるはずの人がいない。いまここにいない人のためにその気持ちをわかちあうのが、追悼の原点である。それは否定しない。
しかしセレモニーになるとその原点を離れていく。わたしはあらゆるセレモニーに違和感や危険を感じる。セレモニーでは、死者を悪くいう人がいなくなる。ある意味で麻薬だ。ましてや、国家によるセレモニー=民衆の死に意味を与える儀式は拒否する。だれよりも何よりも大切な具体的な人間を、国家にくすね取られることになるから。
他人(とりわけ国家)にくすねとられないようにするには、大切なかけがえのないこの人の死は私が悼むのだという決意、誰にも委ねない、私自身が決めるという決意がないといけない。
☆彦坂さんは7月末に亡くなった小田実と同年生まれという。中学以降、卒入学式にも出席せず、連れ合いの死に際しても(故人の遺志を尊重し)葬儀も行わず、一片の骨のみ手元に置いているのみとのことでした。
会場からの「なぜ戦争体験者が自分の体験を語らないのか」という質問に対し「しゃべれない」「しゃべりたくない」という理由のほか「戦友会の縛りがあり、特定の人との関係で角が立つのでしゃべれないという事情もある」と答えられました。たしかに戦後60年も立って、ポツリポツリ話す人が現れた背景にそういう事情もあるのかと、納得させられました。
東 琢磨さん(音楽評論家)の講演
今日は8月15日だが、東京の8.15は広島では8.6である。しかしわたしは平和記念式典に参列したことはない。参列している「善良な市民」をみると、まるで戦前の記録映画をみているような気になる。
広島は世界初の被爆地だが、同時に第五師団の本拠地である軍都であった。師団司令部は平和記念公園の北方1キロ足らずの広島城近くにあった。1894年の日清戦争のときには広島城に大本営が置かれた。師団跡地は戦後バラック街となり、1976年に基町・長寿園高層アパートとして再開発された。
また、廃線になった宇品線には軍港宇品があった。宇品港を一緒に出港したのに戻らなかった人を悼みタチアオイを植える、市の追悼行為追悼と異なる追悼を20年前に始め、現在104歳の老人がいる。
広島、長崎に、ビキニ、チェルノブイリ、劣化ウラン兵器まで含めるグローバルヒバクシャ研究会という活動をしている人もいる。
今年の8月6日には中央公園で韓国の「マダンの光」が死者とともに「いまここにいないという感覚を呼び覚ます」行為(パフォーマンス)を行った。
いずれもゴテゴテに塗り固められた平和公園や半永久的に固定された原爆ドームとは違う風景といえる。
わたしも、国家による「慰霊・追悼」はいらない。
広島市の南には呉市があり、呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)や潜水艦「あきしお」を展示する海上自衛隊呉史料館「てつのくじら館」がある。
また麻生太郎外相が提唱し、PKOを容認し9条を否定する平和構築「寺子屋」が、この9月から広島で始まる。ODAに国際NGOをからませるものだが、土建行政の発想で、良心的なボランティアを国家政策に巻き込もうという運動だ。広島の良心的な大学生が国家と一体化した平和構築のコマにされ、元締めにはカネが入り、ボランティアはただ働きさせられる可能性がある。
またIHIでは、契約社員が自衛官の監視のもとで働いている実態もある。
こういう事態が広島で進んでいることも知ってほしい。