多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

マラソンの秋、「いだてん」の文京区

2019年10月20日 | 都内散策
食欲の秋、スポーツの秋だが、今年も中央区の「区民スポーツの日 マラソン大会」の壮年の部に出場した(といってもわずか5キロの短距離ジョギングだが)。タイムは昨年と10秒ほどの違いしかなく、いつもと同じように走れたので「まあよし」としておく。ワールドカップラグビーの日本チームへのインタビューでよく「観客の応援が励ましになった」という話がでる。それは確かにそうだと思った。地元中高生もスタッフに動員されているようだが、中高年の人の応援が圧倒的に多い。声援してくれるのは女性が多かったが、たしかに元気が出た。
ゲストランナーは、昨年はピンチヒッターの土佐礼子さんだったが、今年は例年どおり 有森裕子さんだった。今年で10回目のゲスト参加とのこと。ご存知のように1992年バルセロナオリンピックで銀、96年アトランタオリンピックで銅を取り「自分で自分をほめたい」というセリフで有名になったアスリートだ。高地トレーニングを導入し、今年4月80歳で亡くなった小出義雄監督の愛弟子でもあった。

小雨のなかハイタッチしながらゴールに向かう有森裕子さん
開会式のスピーチだけでなく、ファミリーマラソン(2キロ)の最終選手たちといっしょに走り、ゴール地点では観客にハイタッチをするサービスぶりだった。もちろん軽佻浮薄なわたしもタッチしてもらった。

さて、日本のオリンピック・マラソンの始まりはNHK大河ドラマ「いだてん」でおなじみの金栗四三(かなくりしそう 1891-1983)である。テレビでは中村勘九郎(6代目)が演じていたが、「スースー、ハーハー」の呼吸法はわたくしももちろん実践している。
金栗が熊本県玉名から上京したのは1910(明治43)年、お茶の水駅北側の寮に住み、学校があった茗荷谷まで走った。この春「大河ドラマ「いだてん」主人公金栗四三青春の地・文京区企画展」を文京区役所が開催していたのを思い出し、「金栗四三青春の地マップ」で紹介されているいくつかのポイントを訪ねた。
まず東京高師寄宿舎跡・女高師跡である。マップ上の住所は湯島1丁目5-45となっているのでその場所に向かうと、そこは東京医科歯科大学の敷地内だった。医科歯科の前身・東京高等歯科医学校がこの地に移転したのは1930年なので、金栗はたしかにここで生活したのだろう。
この場所は、江戸時代には昌平坂学問所があり、維新後は文部省が設置され、1872年師範学校が開校し86年高等師範学校になったところだ。1903年に大塚に移転したが、寮と女高師のみいばらくここに残った。それで医科歯科の校門左脇に「近代教育発祥の地」の碑が建っている。
金栗が走ったコースはわからないが、もし壱岐坂を下り富坂を駆け上がったとすると、15m下り15m上がることになり、片道4キロのコースとはいえ、かなりきつい。
次に茗荷谷と新大塚の間にある「播磨屋」足袋店跡に行ってみた。いだてんでマラソン足袋を開発した職人・黒坂辛作(TVドラマの俳優は三宅弘城)の店だ。いまは1階が「あったか弁当店」になっている5階建てビルで、脇の路地を入ったビルの側壁の下のほうに「金栗足袋発祥之地」と小さく目立たない碑がたしかにあった。上に1982年10月セキスイハウス、下に黒坂辛作と書かれていたので、ビルに改築したときに子孫であるオーナーが個人でつくった碑のようだ。こちらとしては奇特な方だと感謝するだけだ。

このビルの左・側壁に小さな碑があった
どうも敷地は昔と同じ間口約4mで隣は呉服店、その隣は銭湯という庶民的な界隈だった。ところが春日通りの向かい側200m手前・南にはお茶の水女子大学と付属中・高、女子大などの同窓会の桜蔭会舘、その200m手前の通り東側には金栗が通学した東京高師の後身・筑波大学東京キャンパスと附属小学校、春日通りをはさみ跡見学園や貞静学園、拓殖大学、音羽中学、筑波大学附属中学・高校、東京教育大学などの同窓会の茗渓会館がある。さらに800m南には東京学芸大学附属小・中学校と都立竹早高校、竹早教員保育士養成所が並んで建っている。金栗は1921年から8年間竹早高校の前身・府立第二高女の教員を勤めた。TVでは金栗がテニス部の生徒・村田(女優は黒島結菜)らを教えていた。教員保育士養成所には「幼稚園教諭・保育士養成130年 伝統と就職の良さを誇る」との看板があった。さらに手前の後楽園には中央大学理工学部や高校があるし、スタートの寄宿舎近くには順天堂大学もある。「文京」区の名前どおりの歴史ある学園通りである。かつて「お受験」殺人があったことが思い起こされる地域だった。

春日通り沿いに学大附属竹早小・中、都立竹早、教員保育士養成所が並んでいる
一方、東京高師があった場所は、江戸時代には徳川光圀の弟・松平頼元とその長子・頼貞が1万2000坪の大邸宅を構えていた。いまも占春園として庭園の一部が残っている。都心にもかかわらずうっそうとした深い森がある緑が多く環境のよい場所だった。わたくしが行ったときは台風の影響で大木が倒れたため残念ながら一時閉鎖されていた。中に嘉納治五郎(TVドラマの俳優は役所広司)の銅像もあるそうだ。
寄宿舎と学校の間の後楽園に講道館がある。高師校長・嘉納治五郎は「柔道の父」として有名で、講道館設立者だ。
マップによれば1893年から40年間、講道館は小石川1-3にあったとある。行ってみると三菱UFJ銀行春日町支店近くの場所で、再開発の真っただ中だった。わたくしは講道館はてっきり丸ノ内線高架の北側の現在の場所にずっとあったのだと思いこんでいた。春日通りをはさみ200mくらいの近隣の場所なので、移転しても不思議なことはない。

柔道の総本山・講道館
近くに和菓子の岡埜栄泉があり、なぜかほっとした。サッカー協会の(故)岡野俊一郎は上野の岡埜栄泉総本舗5代目だった。日本サッカーミュージアムは寄宿舎のあった場所から400-500mのところにある。日本のサッカーの始まりは、1878年に体操伝習所(のちの東京高師)が教科に導入したことらしい。

少し脱線するが、金栗の故郷・玉名について。わたしは玉名に行ったことはないが、40年ほど前から地名は知っていた。会社の先輩で玉名中学、玉名高校出身の人がいたからだ。鹿児島本線で大牟田から20キロくらいなので熊本県の北西に位置し、いまは新幹線の駅もあるほどなので、それなりに大きい町なのだろう。ただ「いだてん」でやっていたように米の集積地で大きな港があったことは知らなかった。温泉まであるらしい。その方は早大雄弁会に所属していた。雄弁会というといかにも自民党代議士の子弟が多く所属している印象があるが、学生運動の時代ということもあり、左派と右派がいて、左派のなかには大菩薩峠で逮捕されたメンバーもいたそうだ。わたくしとは飲み仲間のような関係だったが、旧制玉名中学出身の有名人として金栗四三と笠智衆(1904-1993)がいることを聞いていた。わたしたちは映画ファンで笠の話はしても、金栗の話はしたことがなかった。
マップによれば「有斐学舎」跡も茗荷谷の近くだ。金栗は1914年結婚したがスヤを故郷に残し、この県人寮に約1年住み、高師研究科に籍を置きベルリンオリンピックに向けマラソンの練習に励んだとある。この先輩も、一時有斐学舎に入っていた。ただこの場所ではなく、目白の細川邸に近いところだったと聞いた覚えがある。

再び文京区とスポーツの話に戻す。後楽園には、東京ドームや野球殿堂博物館もあるし、文京区は学問だけでなく、マラソン、柔道、野球などスポーツの世界でも中心的な場所のひとつだった。そして意外に緑の多い地域だった。
考えてみると東京教育大学には体育学部があった。体育学部は、前身の国立体育研究所の時代から大塚でなく渋谷区西原にあったが、64東京オリンピック柔道・金の猪熊功、体操男子団体・金の小野喬ら、個人・金の遠藤幸雄、女子団体・銅の小野清子、中村多仁子、68メキシコ体操個人・金の加藤沢男など数々のアスリートを輩出していた。

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