4月開始の朝ドラ「なつぞら」のヒロインなつは、1945年3月10日の大空襲で母、戦地で父を失い、東京・日本橋から焼け出された孤児という設定になっている。
両国駅北の横網町公園には、慰霊堂と復興記念館がある。もとは陸軍被服廠があった場所で関東大震災のとき跡地に4万人が避難したが、うち3万8000人もの人が火の壁に囲まれ焼死したり窒息死し、白骨が3mの山になった悲劇の場所だ。
そこで復興記念館は、関東大震災被災者の慰霊展示をメインにするが、3割程度は東京大空襲の展示である。建物は2階建て、1階には地震の科学的記録、象牙の彫刻や洋菓子など焼焦品の展示や瓦礫、避難民の写真の展示がある。陸軍被服廠跡の悲劇は有名だが、4万人を上回る規模の避難場所はいくつもあった。たとえば上野公園50万人、二重橋前広場30万人、浅草公園7万人、靖国神社、芝公園、洲崎埋立地各5万人などだ。報知新聞社が撮影した二重橋前広場の避難民のパノラマ写真が展示されていたが、立錐の余地もないほどギッシリだった。
2階は大空襲の展示かと思うと、それだけではなく、一番広い部屋には関東大震災の大きな絵画がいくつも展示されていた。
また屋外ギャラリーに鉄柱、釘、魚雷、鉄管、丸の内・内外ビルのコンクリート、明治屋のトラックのシャシー、大日本麦酒吾妻橋工場の電動機、神田・三秀舎印刷工場の印刷機などの焼け残りが展示されていた。いかに破壊力が大きく、高熱になったかがわかる。
地震そのものは自然災害だが、大震災の展示で足が止まったトピックスが二つあった。ひとつは自警団だ。2階のロビーに数枚の油絵が展示されており、1枚が「自警団」というタイトルで「焼き尽くされた跡には残り火が真暗闇を照らすだけで、流言飛語は何処からと無く飛び不穏な情勢であったので、市民は各自に自警団を組織し焼跡を警して、永年住み馴れた居住地を護った」と解説が付いていた。
「流言飛語」「不穏な情勢」と「永年住み馴れた居住地を護った」が、在日朝鮮人の虐殺を引き起こしたことは歴史の事実である。虐殺された朝鮮人や中国人は、日本の司法省と戒厳業務詳報だけでも600人弱に上る。明白な人災、いや殺人だ。
朝鮮人・中国人だけでなく、社会主義者、労働運動家も官憲に殺された。亀戸事件と大杉栄一家の虐殺だ。
当時渋谷の宇田川町に住んでいた竹久夢二は被災直後、東京各地を歩き9月14日から10月4日まで「東京災難畫信」という絵とエッセイを都新聞(現在の東京新聞)に連載した。 シリーズの一作に「自警団遊び」(9月19日付掲載)がある。
豆腐屋の萬ちゃんをつかまえて「君の顔はどうも日本人ぢやあないよ」といって自警団遊びを始める。「萬ちゃんを敵にしやうよ」。
いやがる萬ちゃんに餓鬼大将が出てきて「萬公!敵にならないと打殺すぞ」とむりやり敵にして追いかけまわし萬ちゃんを泣くまで殴りつけてしまった。
竹久は「子供は戦争が好きなものだが、当節は、大人までが巡査の真似や軍人の真似をして好い気になって棒切れを振りまはして、通行人の萬ちゃんを困らしてゐるのを見る」と批判している。これは大震災のときの朝鮮人虐殺や官憲による左翼虐殺を言っているのだが、在特会のヘイトが広がる96年後の東京でも、本質的には変わっていない。
竹久は「子供達よ。棒切を持って自警團ごっこをするのは、もう止めませう」とこの随筆を締めくくっている。
もうひとつは戒厳令だ。9月7日から11月15日まで東京と近隣3県に戒厳令が布かれ軍隊が出動した。その時期のビラが展示されていた。上に関東戒厳司令部、下に宮内省と警視庁、内容は「(戒厳司令部の車は)食糧や飲用水を運ぶ仕事をしているので邪魔しないように」とか「業平橋の残骸を破壊するため(早朝)2時から4時に爆破するので大音響に驚かぬよう」とか大したことはないのだが、この3組織がいつも一体となって行動することが改めてよくわかり、示唆的だった。
わたくしが関心をもち、このブログにも何度か記載した村山知義は、大震災の年の1月ベルリンから帰国し、上落合の自宅に有名な「三角の家」を建てた。この家で被災したが壁が少し落ちた程度ですんだ。11月にマヴォ第2回展を開催、震災復旧に伴いショーウィンドウの装飾や看板、店舗の設計をしている。
また賀川豊彦は震災発生翌日に船で横浜に向かい9月5日に品川に到着し、いったん神戸に戻り75回の講演を行って義捐金を集め、記念館から1キロほど北の本所区松倉町で10月下旬にテントを張り子どもや婦人を収容する救援活動を行った。
2階の東端には、戦災展示コーナーがあった。本土空襲は1944年11月ごろから激しくなった。全国200以上の都市が被災し、民間の犠牲者は50万人を超えた。
「南瓜をつくりませう」という横断幕を掲げて二重橋前を行進する女子学生や銃剣をもち「軍事訓練する女子学生、軍需工場で働く女子学生の写真など学生の写真、空襲で焼け野原になった東京の航空写真、腕時計の遺品などが展示されていた。腕時計は、焼死時刻と推定される2時35分、2時50分、8時45分などで止まっていた。
3月10日の大空襲はB29、300機超による爆撃で、本所、深川、浅草、城東の4区が焼失、8万3000人が犠牲となった。これが最も有名だが、4月13日の城北地区空襲で2400人、5月25日の山手地区空襲で3200人、8月1日の八王子空襲で220人などの犠牲が生まれ、東京都区部だけで死者9万4000人に上った。
空襲は東京や大阪などの大都市だけではなかった。2階西側で「全国被災都市 空襲の記憶」という特別出張展をやっていた。函館、伊勢崎、平塚、福井、姫路、徳山(現・周南)などの被災都市の写真と被害の概要、戦時中の生活のパネルが展示されていた。
もともとこの記念館を訪れたのは3月16日の「東京大空襲74周年朝鮮人犠牲者追悼会」のときだった。慰霊堂で追悼式があることは知っていたが、隣にこんな立派な記念館があるとは知らず、そのときは時間の関係で早足に通り過ぎただけだった。もう少しじっくり見てみたいというのが再訪のきっかけだった。
読経が流れる追悼会
追悼会では黙祷、読経のほか8人の方から追悼の言葉やお話があった。そのなかに次のような声があった。
慰霊堂東側の平和記念碑には名簿収納室があり、8万1058人の東京空襲犠牲者名簿が納められている(2018年3月時点)。しかし都は「目的はあくまで追悼で、公開ではない」という理由で公開しないので、朝鮮人犠牲者は創氏名(日本名)のままや身元不明が多い。死者は1万人を超えると推定されるが、何らかのかたちで記録されているのは1割に満たない。異郷の地に動員され、非業の死を強いられ、その名前も記録されず、家族にも知らされないままに放置される、これでは犠牲者の霊は浮かばれない。「恨」は解けない。
都は名前を公表すべきである。
この公園の慰霊堂北側には関東大震災の朝鮮人犠牲者追悼碑(1973年設置)があるのに、小池百合子都知事は、あの石原慎太郎都知事ですら送っていた追悼文を2年続きで寄せなかった。
なおこの記念館の建物そのものは、1931年竣工で、大空襲にも被災せずそのままのかたちで残っている、すでに築90年に近いがしっかりした建物だった。建物や展示品、収蔵品だけでなく、わたしたちの頭や心の中にある、歴史の記憶遺産もしっかり記憶、保存、継承していく必要がある。
東京大空襲については、江東区北砂に東京大空襲・戦災資料センターがあることを申し添える。わたくしは10年以上前になるが、一度訪問したことがある。
☆歴史の継承といえば、同じ江東区内に第五福竜丸展示館がある。長さ30m、総トン数140トンの漁船がそのまま保存されているので、相当巨大な展示館だ。
1954年3月1日朝6時45分ビキニ環礁で「水爆ブラボー」という世界初の水爆実験が実施された。広島原爆の1000倍の威力で、160キロ東で操業していた第五福竜丸にも死の灰が降り注いだ。その結果23人の乗組員のうち久保山愛吉無船長が半年後40歳で死亡した。
先ほどの天災・人災という区分でいうと、もちろん人災だ。久保山を含め、ガンや肝硬変で亡くなった人は15人、60歳までに亡くなった人が7人に上る。
この展示館では、驚いたこと、初めて知ること、考えさせられたことがたくさんあったので、別の機会に改めて記事を書きたい。
映画「第五福竜丸」をつくった新藤兼人監督の書「第五福竜丸は生きている」
●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。
両国駅北の横網町公園には、慰霊堂と復興記念館がある。もとは陸軍被服廠があった場所で関東大震災のとき跡地に4万人が避難したが、うち3万8000人もの人が火の壁に囲まれ焼死したり窒息死し、白骨が3mの山になった悲劇の場所だ。
そこで復興記念館は、関東大震災被災者の慰霊展示をメインにするが、3割程度は東京大空襲の展示である。建物は2階建て、1階には地震の科学的記録、象牙の彫刻や洋菓子など焼焦品の展示や瓦礫、避難民の写真の展示がある。陸軍被服廠跡の悲劇は有名だが、4万人を上回る規模の避難場所はいくつもあった。たとえば上野公園50万人、二重橋前広場30万人、浅草公園7万人、靖国神社、芝公園、洲崎埋立地各5万人などだ。報知新聞社が撮影した二重橋前広場の避難民のパノラマ写真が展示されていたが、立錐の余地もないほどギッシリだった。
2階は大空襲の展示かと思うと、それだけではなく、一番広い部屋には関東大震災の大きな絵画がいくつも展示されていた。
また屋外ギャラリーに鉄柱、釘、魚雷、鉄管、丸の内・内外ビルのコンクリート、明治屋のトラックのシャシー、大日本麦酒吾妻橋工場の電動機、神田・三秀舎印刷工場の印刷機などの焼け残りが展示されていた。いかに破壊力が大きく、高熱になったかがわかる。
地震そのものは自然災害だが、大震災の展示で足が止まったトピックスが二つあった。ひとつは自警団だ。2階のロビーに数枚の油絵が展示されており、1枚が「自警団」というタイトルで「焼き尽くされた跡には残り火が真暗闇を照らすだけで、流言飛語は何処からと無く飛び不穏な情勢であったので、市民は各自に自警団を組織し焼跡を警して、永年住み馴れた居住地を護った」と解説が付いていた。
「流言飛語」「不穏な情勢」と「永年住み馴れた居住地を護った」が、在日朝鮮人の虐殺を引き起こしたことは歴史の事実である。虐殺された朝鮮人や中国人は、日本の司法省と戒厳業務詳報だけでも600人弱に上る。明白な人災、いや殺人だ。
朝鮮人・中国人だけでなく、社会主義者、労働運動家も官憲に殺された。亀戸事件と大杉栄一家の虐殺だ。
当時渋谷の宇田川町に住んでいた竹久夢二は被災直後、東京各地を歩き9月14日から10月4日まで「東京災難畫信」という絵とエッセイを都新聞(現在の東京新聞)に連載した。 シリーズの一作に「自警団遊び」(9月19日付掲載)がある。
豆腐屋の萬ちゃんをつかまえて「君の顔はどうも日本人ぢやあないよ」といって自警団遊びを始める。「萬ちゃんを敵にしやうよ」。
いやがる萬ちゃんに餓鬼大将が出てきて「萬公!敵にならないと打殺すぞ」とむりやり敵にして追いかけまわし萬ちゃんを泣くまで殴りつけてしまった。
竹久は「子供は戦争が好きなものだが、当節は、大人までが巡査の真似や軍人の真似をして好い気になって棒切れを振りまはして、通行人の萬ちゃんを困らしてゐるのを見る」と批判している。これは大震災のときの朝鮮人虐殺や官憲による左翼虐殺を言っているのだが、在特会のヘイトが広がる96年後の東京でも、本質的には変わっていない。
竹久は「子供達よ。棒切を持って自警團ごっこをするのは、もう止めませう」とこの随筆を締めくくっている。
もうひとつは戒厳令だ。9月7日から11月15日まで東京と近隣3県に戒厳令が布かれ軍隊が出動した。その時期のビラが展示されていた。上に関東戒厳司令部、下に宮内省と警視庁、内容は「(戒厳司令部の車は)食糧や飲用水を運ぶ仕事をしているので邪魔しないように」とか「業平橋の残骸を破壊するため(早朝)2時から4時に爆破するので大音響に驚かぬよう」とか大したことはないのだが、この3組織がいつも一体となって行動することが改めてよくわかり、示唆的だった。
わたくしが関心をもち、このブログにも何度か記載した村山知義は、大震災の年の1月ベルリンから帰国し、上落合の自宅に有名な「三角の家」を建てた。この家で被災したが壁が少し落ちた程度ですんだ。11月にマヴォ第2回展を開催、震災復旧に伴いショーウィンドウの装飾や看板、店舗の設計をしている。
また賀川豊彦は震災発生翌日に船で横浜に向かい9月5日に品川に到着し、いったん神戸に戻り75回の講演を行って義捐金を集め、記念館から1キロほど北の本所区松倉町で10月下旬にテントを張り子どもや婦人を収容する救援活動を行った。
2階の東端には、戦災展示コーナーがあった。本土空襲は1944年11月ごろから激しくなった。全国200以上の都市が被災し、民間の犠牲者は50万人を超えた。
「南瓜をつくりませう」という横断幕を掲げて二重橋前を行進する女子学生や銃剣をもち「軍事訓練する女子学生、軍需工場で働く女子学生の写真など学生の写真、空襲で焼け野原になった東京の航空写真、腕時計の遺品などが展示されていた。腕時計は、焼死時刻と推定される2時35分、2時50分、8時45分などで止まっていた。
3月10日の大空襲はB29、300機超による爆撃で、本所、深川、浅草、城東の4区が焼失、8万3000人が犠牲となった。これが最も有名だが、4月13日の城北地区空襲で2400人、5月25日の山手地区空襲で3200人、8月1日の八王子空襲で220人などの犠牲が生まれ、東京都区部だけで死者9万4000人に上った。
空襲は東京や大阪などの大都市だけではなかった。2階西側で「全国被災都市 空襲の記憶」という特別出張展をやっていた。函館、伊勢崎、平塚、福井、姫路、徳山(現・周南)などの被災都市の写真と被害の概要、戦時中の生活のパネルが展示されていた。
もともとこの記念館を訪れたのは3月16日の「東京大空襲74周年朝鮮人犠牲者追悼会」のときだった。慰霊堂で追悼式があることは知っていたが、隣にこんな立派な記念館があるとは知らず、そのときは時間の関係で早足に通り過ぎただけだった。もう少しじっくり見てみたいというのが再訪のきっかけだった。
読経が流れる追悼会
追悼会では黙祷、読経のほか8人の方から追悼の言葉やお話があった。そのなかに次のような声があった。
慰霊堂東側の平和記念碑には名簿収納室があり、8万1058人の東京空襲犠牲者名簿が納められている(2018年3月時点)。しかし都は「目的はあくまで追悼で、公開ではない」という理由で公開しないので、朝鮮人犠牲者は創氏名(日本名)のままや身元不明が多い。死者は1万人を超えると推定されるが、何らかのかたちで記録されているのは1割に満たない。異郷の地に動員され、非業の死を強いられ、その名前も記録されず、家族にも知らされないままに放置される、これでは犠牲者の霊は浮かばれない。「恨」は解けない。
都は名前を公表すべきである。
この公園の慰霊堂北側には関東大震災の朝鮮人犠牲者追悼碑(1973年設置)があるのに、小池百合子都知事は、あの石原慎太郎都知事ですら送っていた追悼文を2年続きで寄せなかった。
なおこの記念館の建物そのものは、1931年竣工で、大空襲にも被災せずそのままのかたちで残っている、すでに築90年に近いがしっかりした建物だった。建物や展示品、収蔵品だけでなく、わたしたちの頭や心の中にある、歴史の記憶遺産もしっかり記憶、保存、継承していく必要がある。
東京大空襲については、江東区北砂に東京大空襲・戦災資料センターがあることを申し添える。わたくしは10年以上前になるが、一度訪問したことがある。
☆歴史の継承といえば、同じ江東区内に第五福竜丸展示館がある。長さ30m、総トン数140トンの漁船がそのまま保存されているので、相当巨大な展示館だ。
1954年3月1日朝6時45分ビキニ環礁で「水爆ブラボー」という世界初の水爆実験が実施された。広島原爆の1000倍の威力で、160キロ東で操業していた第五福竜丸にも死の灰が降り注いだ。その結果23人の乗組員のうち久保山愛吉無船長が半年後40歳で死亡した。
先ほどの天災・人災という区分でいうと、もちろん人災だ。久保山を含め、ガンや肝硬変で亡くなった人は15人、60歳までに亡くなった人が7人に上る。
この展示館では、驚いたこと、初めて知ること、考えさせられたことがたくさんあったので、別の機会に改めて記事を書きたい。
映画「第五福竜丸」をつくった新藤兼人監督の書「第五福竜丸は生きている」
●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。