旧島津公爵邸は、東五反田のその名も島津山にある。もとは伊達藩の下屋敷、1873年(明治6年)に島津家のものになり、関東大震災後、本邸として使われた。公爵は旧華族約1000家の最高位で、公家、徳川本家、勲功者の伊藤、松方、島津、毛利など20家しかない。1906年、30代当主・島津忠重はジョサイア・コンドルに洋館改装の設計を依頼した。建物は1915年に竣工し、館内設備や調度を整え1917年(大正6年)に落成披露された。つまり来年で落成100年の歴史ある建物である。
コンドルは、鹿鳴館、ニコライ堂、三菱一号館、旧岩崎邸、旧古河邸などを設計した人物だ。亡くなったのは1920年なので晩年の作ということになる。
1階はホール、クローク、バンケットなどパブリックスペース、2階が夫妻と4人の息子、1人の娘、7人家族のプライベートスペースとなっていた。浴室も2階にあった。
もちろん、同じ設計者の岩崎邸と雰囲気が似ていたが、公爵書斎、夫妻の寝室、子ども部屋など用途がはっきりしていたので駒場の前田邸を思い出した。
部屋ごとにタイルの色と飾り模様が異なる
10人のグループに分かれガイドの説明付きで回ったので、暖炉の下のタイルの色が、部屋により黄緑、青、濃い緑、白、黒の大理石などと異なり、暖炉の飾り模様もバラ、貝殻、植物、花など変化があることがわかった。バンケットホールには丸に十の島津の家紋が付いていた。暖炉の上に普通は鏡が付いているが、ホールは居室ではないので付いていないことなど、トリビアといえばトリビアな知識だが、説明を聞きなるほどと思った。
玄関のステンドグラス 一番上に島津の家紋
きれいなステンドグラスがいくつもあった。玄関のものには島津の家紋が入っていた。ステンドグラスがある屋敷としては音羽の鳩山会館を思い出した。
1階から2階への大階段の木の彫刻もみごとだった。これもガイドの説明で気づいたことのひとつだ。
応接から見える庭の風景
1階の応接室は、この家でもっとも眺めのよい部屋で、芝の庭の向こうにツツジなど樹木が見え、その向こうにかつては品川の海が遠望できたそうだ。景色がよく見えるように、ベランダの柱と窓の桟が重なるように設計されているそうだ。
なお邸宅そのものが島津坂という丘の上にあるが、敷地のなかで門は一番低いところにあり、車で坂を上ったところに屋敷が建っている。これは音羽の鳩山邸と同じ構造だ。
この屋敷は、金融恐慌の不況のせいで何度か庭が切り売りされたあと戦争末期の1944年に日本銀行に売却、戦後GHQの将校宿舎となり、その後再び日銀に返却された。
横須賀にあった清泉女子大学が1961年に日銀から買い取ったのだが、なぜ女子大が買ったのか、何か特別なつながりがあったのか聞いてみた。すると吉田茂首相の雪子夫人の尽力のせいだが、詳しいことはわからないとのことだった。
そして1962年に大学として使用され始めた。この建物は隣の1号館と廊下でつながっており、1階の家族の食堂を学長室、待合室を理事長室、バンケットホールを聖堂、2階の公爵の居室、夫人の居室などは教室、会議室などとして利用している。だからこの日も授業中の教室は見学できなかった。このように単なる部屋ではなく、生きている部屋として活用されているのはすばらしい。ガイドも1人は職員だったが、もう一人は大学1年生の女性だった。学校の姿勢が表れているようですばらしい。
大学として使われていることもあり普段は非公開だが、春秋計24日、事前申し込み抽選で見学ツアーが開催される。
成瀬記念館
たまたまこのころもうひとつ別の女子大に行く機会があった。
女子大に足を踏み入れるのは、1970年代後半に如月小春の芝居を観に西荻の東京女子大のキャンパスに行って以来だった。
行ったのは目白の日本女子大の「成瀬記念館」だ。NHKの朝ドラ「あさが来た」で有名になった創立者・成瀬仁蔵を顕彰するもので正門の左手に建っている。展示は予想していたよりずいぶん小規模だった。一室が成瀬、もう一室が「広岡浅子展」。かなりの人で1時間近く並んだ。
成瀬に関しては、長州藩に生まれ、キリスト教徒となり、教育者となった概略はわかったが、会場が浅子展の待合室のようにごった返していたこともあり、深いことはわからなかった。
浅子展は肖像写真や集合写真、短歌、成瀬宛ての書簡、寄付の記録などが並んでいた。
生涯についてはだいたいドラマどおりだったが、大学校開校後も桜楓会という同窓会活動の支援をしたり、夏期勉強会を主催したりし学校に貢献した。夏期勉強会には市川房江や村岡花子も参加したそうだ。村岡は2014年の朝ドラ「花子とアン」の主人公である。59歳のとき乳がんの手術をし、回復後洗礼を受け、1919年に69歳で亡くなった。
収蔵絵画展には「成瀬先生肖像」「森村市左衛門肖像」などゆかりの絵画約20点が並んでいた。
正門右手に一見チャペルのようなかたちの建物がある。「あれはチャペルですか」と聞くと講堂とのことだった。たしかに十字架は付いていない。明治時代にできた木造の建物で、その名も成瀬記念講堂だ。
その脇には都バスの停留所があった。そういうとずいぶん大きな学校のようだが、キャンパスを歩いてみるとこじんまりしていた。募集人員ベースで1学年1200人弱なのでこんなものかもしれない(清泉はさらに小さく、1学年390人でかつての高校程度なので、華族の家のスペースで足りるようだった)。
七十年館1階の食堂・ランチェに行ってみた。チキンチーズカツ174円、菜の花チャンプルー194円、スパイシーポテト108円、揚げ出し豆腐108円、豚汁108円、かぼちゃ煮64円、しょうゆラーメン432円など、ばかに安い!
☆最後に女子大ならではのエピソードをひとつ。女子大なので2校とも男性用トイレがない。「ない」はちょっといいすぎかもしれない。男・女、障がい者だれでも使える多目的トイレがひとつだけあった。冷静にニーズから考えれば合理的だ。「男性が圧倒的に多い組織や社会なら、女性はいつもその逆を体験しているのかもしれない」と、ジェンダーの「壁」体験をした気分になった。
コンドルは、鹿鳴館、ニコライ堂、三菱一号館、旧岩崎邸、旧古河邸などを設計した人物だ。亡くなったのは1920年なので晩年の作ということになる。
1階はホール、クローク、バンケットなどパブリックスペース、2階が夫妻と4人の息子、1人の娘、7人家族のプライベートスペースとなっていた。浴室も2階にあった。
もちろん、同じ設計者の岩崎邸と雰囲気が似ていたが、公爵書斎、夫妻の寝室、子ども部屋など用途がはっきりしていたので駒場の前田邸を思い出した。
部屋ごとにタイルの色と飾り模様が異なる
10人のグループに分かれガイドの説明付きで回ったので、暖炉の下のタイルの色が、部屋により黄緑、青、濃い緑、白、黒の大理石などと異なり、暖炉の飾り模様もバラ、貝殻、植物、花など変化があることがわかった。バンケットホールには丸に十の島津の家紋が付いていた。暖炉の上に普通は鏡が付いているが、ホールは居室ではないので付いていないことなど、トリビアといえばトリビアな知識だが、説明を聞きなるほどと思った。
玄関のステンドグラス 一番上に島津の家紋
きれいなステンドグラスがいくつもあった。玄関のものには島津の家紋が入っていた。ステンドグラスがある屋敷としては音羽の鳩山会館を思い出した。
1階から2階への大階段の木の彫刻もみごとだった。これもガイドの説明で気づいたことのひとつだ。
応接から見える庭の風景
1階の応接室は、この家でもっとも眺めのよい部屋で、芝の庭の向こうにツツジなど樹木が見え、その向こうにかつては品川の海が遠望できたそうだ。景色がよく見えるように、ベランダの柱と窓の桟が重なるように設計されているそうだ。
なお邸宅そのものが島津坂という丘の上にあるが、敷地のなかで門は一番低いところにあり、車で坂を上ったところに屋敷が建っている。これは音羽の鳩山邸と同じ構造だ。
この屋敷は、金融恐慌の不況のせいで何度か庭が切り売りされたあと戦争末期の1944年に日本銀行に売却、戦後GHQの将校宿舎となり、その後再び日銀に返却された。
横須賀にあった清泉女子大学が1961年に日銀から買い取ったのだが、なぜ女子大が買ったのか、何か特別なつながりがあったのか聞いてみた。すると吉田茂首相の雪子夫人の尽力のせいだが、詳しいことはわからないとのことだった。
そして1962年に大学として使用され始めた。この建物は隣の1号館と廊下でつながっており、1階の家族の食堂を学長室、待合室を理事長室、バンケットホールを聖堂、2階の公爵の居室、夫人の居室などは教室、会議室などとして利用している。だからこの日も授業中の教室は見学できなかった。このように単なる部屋ではなく、生きている部屋として活用されているのはすばらしい。ガイドも1人は職員だったが、もう一人は大学1年生の女性だった。学校の姿勢が表れているようですばらしい。
大学として使われていることもあり普段は非公開だが、春秋計24日、事前申し込み抽選で見学ツアーが開催される。
成瀬記念館
たまたまこのころもうひとつ別の女子大に行く機会があった。
女子大に足を踏み入れるのは、1970年代後半に如月小春の芝居を観に西荻の東京女子大のキャンパスに行って以来だった。
行ったのは目白の日本女子大の「成瀬記念館」だ。NHKの朝ドラ「あさが来た」で有名になった創立者・成瀬仁蔵を顕彰するもので正門の左手に建っている。展示は予想していたよりずいぶん小規模だった。一室が成瀬、もう一室が「広岡浅子展」。かなりの人で1時間近く並んだ。
成瀬に関しては、長州藩に生まれ、キリスト教徒となり、教育者となった概略はわかったが、会場が浅子展の待合室のようにごった返していたこともあり、深いことはわからなかった。
浅子展は肖像写真や集合写真、短歌、成瀬宛ての書簡、寄付の記録などが並んでいた。
生涯についてはだいたいドラマどおりだったが、大学校開校後も桜楓会という同窓会活動の支援をしたり、夏期勉強会を主催したりし学校に貢献した。夏期勉強会には市川房江や村岡花子も参加したそうだ。村岡は2014年の朝ドラ「花子とアン」の主人公である。59歳のとき乳がんの手術をし、回復後洗礼を受け、1919年に69歳で亡くなった。
収蔵絵画展には「成瀬先生肖像」「森村市左衛門肖像」などゆかりの絵画約20点が並んでいた。
正門右手に一見チャペルのようなかたちの建物がある。「あれはチャペルですか」と聞くと講堂とのことだった。たしかに十字架は付いていない。明治時代にできた木造の建物で、その名も成瀬記念講堂だ。
その脇には都バスの停留所があった。そういうとずいぶん大きな学校のようだが、キャンパスを歩いてみるとこじんまりしていた。募集人員ベースで1学年1200人弱なのでこんなものかもしれない(清泉はさらに小さく、1学年390人でかつての高校程度なので、華族の家のスペースで足りるようだった)。
七十年館1階の食堂・ランチェに行ってみた。チキンチーズカツ174円、菜の花チャンプルー194円、スパイシーポテト108円、揚げ出し豆腐108円、豚汁108円、かぼちゃ煮64円、しょうゆラーメン432円など、ばかに安い!
☆最後に女子大ならではのエピソードをひとつ。女子大なので2校とも男性用トイレがない。「ない」はちょっといいすぎかもしれない。男・女、障がい者だれでも使える多目的トイレがひとつだけあった。冷静にニーズから考えれば合理的だ。「男性が圧倒的に多い組織や社会なら、女性はいつもその逆を体験しているのかもしれない」と、ジェンダーの「壁」体験をした気分になった。