今年も、中央区まるごとミュージアムをみに行った。運よく、「京橋図書館 昭和レトロな閉架書庫見学と本探し体験のガイドツアー」に参加することができた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/2d/ea615910c9363fd6225bfb1ba028f364.jpg)
京橋図書館は蔵書数34万5000冊で、開架は11万3000冊(32%)、閉架10万2000冊(29%)、別置書庫11万3800冊(700mほど離れた区の別の建物で保管 33%)とほぼ1/3ずつに分かれる。逆にいうと開架でみられるのは3割程度のみということだ。
購入図書は刊行後5-10年で原則保存と原則廃棄に分別され、刊行後10年前後で大半の書籍は閉架書庫に移される。別置図書のうち6割は刊行後50年たった古い本だ。
京橋図書館は1911(明治44)年2月開館、東京市立図書館では千代田、深川、日本橋に次ぐ4番目の図書館で108年の歴史を誇る(日本橋は1909年開館と似たような歴史である)。
しかも、関東大震災では焼失したものの、太平洋戦争の戦火は免れたため戦前の本が2万6000冊もある。このなかにのちに触れる内務省委託本2300冊が含まれている。当初の建物は現在地から300mほど北にあった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/28/72684af8aad0cd59c10508488c7f9840.jpg)
当初の図書館跡地は公園になっている
敗戦間近の1944年5月に日比谷図書館が焼失し、京橋図書館に仮移転したという歴史的事実もあった。なお1911年の開館以降、移転や新築が4回あり、現在の建物は1970年新築したもので延べ面積2553平方メートルの広さだ。
別室で「明治から令和へ 京橋図書館の歴史」という展示を開催していた。関東大震災後1929(昭和11)年に現在地に移転し新築建物の各閲覧室などの写真があった。1階に新聞雑誌閲覧室や児童閲覧室、2階に実業資料室(区内に中小企業がたくさん存在したため)や男子閲覧室があった。「男子」のみの読書室とはすごい制度だと思ったら3階にちゃんと婦人閲覧室があった。「官」はそこまで男女を分離していたのかと思ったが、2階は男子トイレ、3階に女性トイレが配置されていたので、それでフロアまで分けたのかもしれない。その他目録室があり、いまと違いパソコンがないので、たしかに昔は蔵書カードだけ五十音で並べたカードボックスのみ整然と並ぶコーナーがあったことを思い出した。
この図書館の特色のひとつは戦前の本のなかに内務省委託本が2300冊あることだ。2017年に千代田図書館で検閲官の展示をみたことがあり、委託本という名については少し記憶があった。戦前は図書の検閲制度があり、発行日の3日前までに内務省に2部納本することになっていた。副本は帝国図書館(現在の国会図書館)に交付され、原本で検閲される。検閲して問題があれば発売禁止、問題がなければ発売が許可された。その原本が10冊ほど展示されていた。(図書館という性格からか館内写真は残念なことに1点も撮れなかった)。納本された日を表示する「内務省 10.8.24 普通出版」という丸のゴム印、その右に図書課長と事務官のゴム印と捺印があり、下に手書きのコメントが付いている原本もある。たとえば青柳善吾「音楽教育概論」には「技術教育としての音楽教育を論じ併せてその方法、教材等のことを論ず。支障を認めず」とあった。
わたしがたまたま知っている著者は元北海道大学の心理学者・城戸幡太郎だけだった。それも社会学者・城戸浩太郎の父ということで知っていたにすぎない。
検閲済みの原本は内務省の倉庫に保管されていたが1937年に一杯になり、東京市立日比谷図書館に寄贈委託されることになった。日比谷図書館から何割かが駿河台(現千代田)、深川、京橋の3館に引き渡された。日比谷の保管分はほとんど空襲で焼失したので、京橋などに残った原本は貴重である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/e8/37229f98bd05154beed0339a68e85e2d.jpg)
書庫見学ツアー参加記念の錦絵 淫斎英泉「おさな遊 日本橋行列之図」(左)と二代目歌川国輝「第一大区従京橋新橋迄煉瓦石造商家蕃昌貴賤薮沢盛景」
肝心の「昭和レトロな閉架書庫見学と本探し体験」について。公共図書館には高校生のころからよく通ったが、さすがにバックヤードや書庫に立ち入ったことはないので興味津々だった。
書庫は2層に分かれていて、閲覧室とは短い階段とダムウェーターという書籍専用の小型エレベーターでつながっている。見た目は新築前(2010年)の渋谷区立中央図書館の書架のような感じでそれほど珍しいものではなく、レトロとは感じなかった。つまり天井が低く、8,9段の高いスチール棚が並び、書籍は原則として日本十進分類法の順に収納されている。詳細は10桁の図書バーコードの番号順に並んでいる。
ハウツー本などは早く処分され、一番量が多い小説(分類番号9136)は物故作家の場合、全集があれば単行本を処分するようになっているとか、Rの参考図書や地図、地域資料は長期保管するという方針があるそうだ。たしかに地域資料は開架も合わせて6万1700冊もあり全蔵書の18%を占めるので、すごいコレクションである。書籍・雑誌に限らず、錦絵、絵葉書、写真、古地図なども含む(一部はウェブで公開されている)。
地域の新聞切り抜きを保管していることを初めて知った。たしかに地域資料室に最近のものが展示されていたのを確認した。地域の企業記事や企業広告まで含み、ちゃんと1年分の目次まで付いていた。銀座、京橋など地域別にまとめ、月日順に並べ2か月ごとに1冊に製本されていた。ただ、いまとなってはデジタルデータで保存したほうが、見たり探したりする側にとっては有用だと思った。また社史も1500冊保管されている。児童書、絵本ではサイズの大きい紙芝居も保管されていた。
本探し体験は、レシート(資料詳細票)のバーコードナンバーと資料室の地図(配置図)をみて本を探し出す、一種の宝探しだった。本は整然と並んでいるのであまり難しくはない。強いていえば、「詳細」の部分の並べ方のルールをこちらは知らないので、少し時間がかかるという程度だった。
児童書や雑誌は本当は少しゆっくり眺めたかったが、最初の解説や本探しイベントも入れてわずか1時間のツアーだったのでサッとみただけで終わったのが少し残念だった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/04/f75dc322b4ac2ce23d7ee60e2dbd0b0a.jpg)
晴海で建設中の選手村
月島図書館では小部屋で「あの頃の晴海」という小展覧会を開催していた。晴海の南側は現在2020オリパラの選手村建設中だが、外観はほぼ完成したようにみえる。
大河ドラマ「いだてん」でもやっていたが、1940年の東京オリンピックが幻に終わったという話は有名だ。しかし同じ紀元2600年記念に晴海で日本万国博覧会をすることになっていたが「辞退」して中止になった話はあまり知られていない。
晴海(月島4号地)は1931年に埋立が完了し、広大な土地だったので博覧会会場に利用することが32年に決定した。38年3月に抽選券付回数入場券を発売し、公募した行進曲の発表やラジオ全国放送も行われた。しかし日中戦争開戦に伴い、38年7月15日正式に中止を閣議決定し、東京オリンピックとともに辞退した。事務局棟だけ9月に完成し、陸軍傷病兵収容所に転用された。そのときのメインゲイトが勝鬨橋だったので、(33年6月に着工し、予定通り)1940年6月に完成した。なお売り出した入場券は70年の大阪万博で使用することができ、実際に3000枚も使用された。
晴海は、戦後の1958年北側に公団の高層アパート、翌59年南側に国際見本市の会場がつくられ第3回日本国際見本市の会場となり、59年10月から全日本自動車ショー(64年から名称は東京モーターショー)が開催された。しかしモーターショーは89年に幕張メッセに移り、見本市会場も96年に東京ビッグサイトに移った。
また57年12月から臨港鉄道晴海線が運行され晴海埠頭から越中島まで、セメント、小麦粉、砂糖、木材などの貨物を運搬した。しかし89年2月に廃線になった。公団住宅も2001年にトリトンスクエアに建て替えられた。
要するに、戦後新しく建てられたものがすべて入れ替わったということだ。そしていま2020東京オリパラ選手村建設中、オリパラ終了後2023年には5600戸、1万2000人規模のHARUMI FLAGが生まれる予定だ。月島地区の人口は現在7万6000人なので、いまでも手狭な月島図書館はさらに混雑し、利用しにくくなりそうだ。。
外観はほとんど完成しており、新たなフェーズに入りつつある。なお60年前の晴海の公団アパートは、北八王子のUR都市機構「集合住宅歴史館」に移築展示されているそうだ。機会があれば見に行きたい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/e6/279dced4bf29bbafbe916c9f3451f1ac.jpg)
クラウンじーにょの大道芸
その他、武田ライフシアターにいった。腸内細菌についての解説動画だった。もちろんためにはなるが、イベントとしてはちょっと物足りなかった。驚いたのは立地である。第一三共本社と交差点をはさみ20mほど、アステラス製薬本社(旧・山之内製薬、藤沢薬品)からも50mほどの目と鼻の先だった。武田というと大阪の薬品問屋街・道修町の代表のように思っていたが、東京の製薬業中核地域のど真ん中にグローバル本社を構えるとは、と思った。
また創業200年の老舗呉服問屋、田源の「オシャレきもの展」を見た。申し訳ないがここはスタンプラリーのスタンプを押すだけで立ち寄ったのたが、2階の広い座敷に加賀友禅をはじめ美しい着物がたくさん展示されていた。いわゆる「目の保養」になった。
また大道芸でクラウンじーにょのジャグリング、バルーンアート、マジックなどもながめることができた。子どもたちが大喜びしていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/f9/0128c220d507d1595429aee0ce915530.jpg)
この建物の2階に十思湯がある
さて、タオルをただでもらえる「手ぶらで銭湯へ」。2016年は勝どき湯、17年は銀座の金春湯、昨年は月島温泉に行き区内銭湯めぐりが定番となったので、今年は小伝馬町の十思湯に行った。2014年7月オープンなのでまだ新しい。十思湯の規模は下駄箱96、ロッカー36、カラン12でまあ普通だが、カランの数が少ない、というかスペースがゆったりしていた。カランを5-6個増やせそうなスペースに手すり付きの浴槽への通路があった(このサイトで写真が見られる)。
カランには、温泉のように隣の人との仕切りが付いていた。
浴槽は熱い湯、ぬるめの湯、水風呂の3つ、ジャジーがぬるめの湯に2つか3つある。サウナもある(追加400円)が、男性側はドライサウナ、女性側はスチームサウナになっている。わたくしはサウナを使わないこともあり、なぜなのかはわからない。と思ったら「突撃!カネオくん」でドライはよくみる普通のサウナ、スチームはいわゆるフィンランド式で客が熱い石に水をかけスチームを発生させるタイプと解説していた。
銭湯絵もあるが、絵ではなくタイルで、富士山は普通だが前景が日本橋になっている。歌川広重の浮世絵とのこと。
スペースがゆったりしているのには秘密がある。この場所はもとは小学校で、いまはケアサポートセンター十思、保育園、訪問看護ステーション、区内ボランティア団体の支援組織などが入る区の複合施設だ。近隣から銭湯がなくなり住民からの要望を受け区が開設した、いわゆる公設民営なのだ。
男性用脱衣室にもおむつ交換台があり、冷水機があったのがうれしい。
今回は忙しそうだったので店の方に話を聞くことはできなかったが、前にいったときにたしか台東だったか、他の区から通勤しておられるとのことだった。
この場所は江戸からの由緒がある地で、江戸時代初期に伝馬町牢屋敷が設置され、幕末に吉田松陰が処刑された。明治になり牢屋敷は市ヶ谷に移転し1878(明治11)年に十思小学校が開校した 十思は北宋の資治通鑑の中に出てくる「十思之疏」にちなむ名だそうだ。90年3月閉校し統合のうえ日本橋小学校になった。
☆アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。
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京橋図書館は蔵書数34万5000冊で、開架は11万3000冊(32%)、閉架10万2000冊(29%)、別置書庫11万3800冊(700mほど離れた区の別の建物で保管 33%)とほぼ1/3ずつに分かれる。逆にいうと開架でみられるのは3割程度のみということだ。
購入図書は刊行後5-10年で原則保存と原則廃棄に分別され、刊行後10年前後で大半の書籍は閉架書庫に移される。別置図書のうち6割は刊行後50年たった古い本だ。
京橋図書館は1911(明治44)年2月開館、東京市立図書館では千代田、深川、日本橋に次ぐ4番目の図書館で108年の歴史を誇る(日本橋は1909年開館と似たような歴史である)。
しかも、関東大震災では焼失したものの、太平洋戦争の戦火は免れたため戦前の本が2万6000冊もある。このなかにのちに触れる内務省委託本2300冊が含まれている。当初の建物は現在地から300mほど北にあった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/28/72684af8aad0cd59c10508488c7f9840.jpg)
当初の図書館跡地は公園になっている
敗戦間近の1944年5月に日比谷図書館が焼失し、京橋図書館に仮移転したという歴史的事実もあった。なお1911年の開館以降、移転や新築が4回あり、現在の建物は1970年新築したもので延べ面積2553平方メートルの広さだ。
別室で「明治から令和へ 京橋図書館の歴史」という展示を開催していた。関東大震災後1929(昭和11)年に現在地に移転し新築建物の各閲覧室などの写真があった。1階に新聞雑誌閲覧室や児童閲覧室、2階に実業資料室(区内に中小企業がたくさん存在したため)や男子閲覧室があった。「男子」のみの読書室とはすごい制度だと思ったら3階にちゃんと婦人閲覧室があった。「官」はそこまで男女を分離していたのかと思ったが、2階は男子トイレ、3階に女性トイレが配置されていたので、それでフロアまで分けたのかもしれない。その他目録室があり、いまと違いパソコンがないので、たしかに昔は蔵書カードだけ五十音で並べたカードボックスのみ整然と並ぶコーナーがあったことを思い出した。
この図書館の特色のひとつは戦前の本のなかに内務省委託本が2300冊あることだ。2017年に千代田図書館で検閲官の展示をみたことがあり、委託本という名については少し記憶があった。戦前は図書の検閲制度があり、発行日の3日前までに内務省に2部納本することになっていた。副本は帝国図書館(現在の国会図書館)に交付され、原本で検閲される。検閲して問題があれば発売禁止、問題がなければ発売が許可された。その原本が10冊ほど展示されていた。(図書館という性格からか館内写真は残念なことに1点も撮れなかった)。納本された日を表示する「内務省 10.8.24 普通出版」という丸のゴム印、その右に図書課長と事務官のゴム印と捺印があり、下に手書きのコメントが付いている原本もある。たとえば青柳善吾「音楽教育概論」には「技術教育としての音楽教育を論じ併せてその方法、教材等のことを論ず。支障を認めず」とあった。
わたしがたまたま知っている著者は元北海道大学の心理学者・城戸幡太郎だけだった。それも社会学者・城戸浩太郎の父ということで知っていたにすぎない。
検閲済みの原本は内務省の倉庫に保管されていたが1937年に一杯になり、東京市立日比谷図書館に寄贈委託されることになった。日比谷図書館から何割かが駿河台(現千代田)、深川、京橋の3館に引き渡された。日比谷の保管分はほとんど空襲で焼失したので、京橋などに残った原本は貴重である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/e8/37229f98bd05154beed0339a68e85e2d.jpg)
書庫見学ツアー参加記念の錦絵 淫斎英泉「おさな遊 日本橋行列之図」(左)と二代目歌川国輝「第一大区従京橋新橋迄煉瓦石造商家蕃昌貴賤薮沢盛景」
肝心の「昭和レトロな閉架書庫見学と本探し体験」について。公共図書館には高校生のころからよく通ったが、さすがにバックヤードや書庫に立ち入ったことはないので興味津々だった。
書庫は2層に分かれていて、閲覧室とは短い階段とダムウェーターという書籍専用の小型エレベーターでつながっている。見た目は新築前(2010年)の渋谷区立中央図書館の書架のような感じでそれほど珍しいものではなく、レトロとは感じなかった。つまり天井が低く、8,9段の高いスチール棚が並び、書籍は原則として日本十進分類法の順に収納されている。詳細は10桁の図書バーコードの番号順に並んでいる。
ハウツー本などは早く処分され、一番量が多い小説(分類番号9136)は物故作家の場合、全集があれば単行本を処分するようになっているとか、Rの参考図書や地図、地域資料は長期保管するという方針があるそうだ。たしかに地域資料は開架も合わせて6万1700冊もあり全蔵書の18%を占めるので、すごいコレクションである。書籍・雑誌に限らず、錦絵、絵葉書、写真、古地図なども含む(一部はウェブで公開されている)。
地域の新聞切り抜きを保管していることを初めて知った。たしかに地域資料室に最近のものが展示されていたのを確認した。地域の企業記事や企業広告まで含み、ちゃんと1年分の目次まで付いていた。銀座、京橋など地域別にまとめ、月日順に並べ2か月ごとに1冊に製本されていた。ただ、いまとなってはデジタルデータで保存したほうが、見たり探したりする側にとっては有用だと思った。また社史も1500冊保管されている。児童書、絵本ではサイズの大きい紙芝居も保管されていた。
本探し体験は、レシート(資料詳細票)のバーコードナンバーと資料室の地図(配置図)をみて本を探し出す、一種の宝探しだった。本は整然と並んでいるのであまり難しくはない。強いていえば、「詳細」の部分の並べ方のルールをこちらは知らないので、少し時間がかかるという程度だった。
児童書や雑誌は本当は少しゆっくり眺めたかったが、最初の解説や本探しイベントも入れてわずか1時間のツアーだったのでサッとみただけで終わったのが少し残念だった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/04/f75dc322b4ac2ce23d7ee60e2dbd0b0a.jpg)
晴海で建設中の選手村
月島図書館では小部屋で「あの頃の晴海」という小展覧会を開催していた。晴海の南側は現在2020オリパラの選手村建設中だが、外観はほぼ完成したようにみえる。
大河ドラマ「いだてん」でもやっていたが、1940年の東京オリンピックが幻に終わったという話は有名だ。しかし同じ紀元2600年記念に晴海で日本万国博覧会をすることになっていたが「辞退」して中止になった話はあまり知られていない。
晴海(月島4号地)は1931年に埋立が完了し、広大な土地だったので博覧会会場に利用することが32年に決定した。38年3月に抽選券付回数入場券を発売し、公募した行進曲の発表やラジオ全国放送も行われた。しかし日中戦争開戦に伴い、38年7月15日正式に中止を閣議決定し、東京オリンピックとともに辞退した。事務局棟だけ9月に完成し、陸軍傷病兵収容所に転用された。そのときのメインゲイトが勝鬨橋だったので、(33年6月に着工し、予定通り)1940年6月に完成した。なお売り出した入場券は70年の大阪万博で使用することができ、実際に3000枚も使用された。
晴海は、戦後の1958年北側に公団の高層アパート、翌59年南側に国際見本市の会場がつくられ第3回日本国際見本市の会場となり、59年10月から全日本自動車ショー(64年から名称は東京モーターショー)が開催された。しかしモーターショーは89年に幕張メッセに移り、見本市会場も96年に東京ビッグサイトに移った。
また57年12月から臨港鉄道晴海線が運行され晴海埠頭から越中島まで、セメント、小麦粉、砂糖、木材などの貨物を運搬した。しかし89年2月に廃線になった。公団住宅も2001年にトリトンスクエアに建て替えられた。
要するに、戦後新しく建てられたものがすべて入れ替わったということだ。そしていま2020東京オリパラ選手村建設中、オリパラ終了後2023年には5600戸、1万2000人規模のHARUMI FLAGが生まれる予定だ。月島地区の人口は現在7万6000人なので、いまでも手狭な月島図書館はさらに混雑し、利用しにくくなりそうだ。。
外観はほとんど完成しており、新たなフェーズに入りつつある。なお60年前の晴海の公団アパートは、北八王子のUR都市機構「集合住宅歴史館」に移築展示されているそうだ。機会があれば見に行きたい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/e6/279dced4bf29bbafbe916c9f3451f1ac.jpg)
クラウンじーにょの大道芸
その他、武田ライフシアターにいった。腸内細菌についての解説動画だった。もちろんためにはなるが、イベントとしてはちょっと物足りなかった。驚いたのは立地である。第一三共本社と交差点をはさみ20mほど、アステラス製薬本社(旧・山之内製薬、藤沢薬品)からも50mほどの目と鼻の先だった。武田というと大阪の薬品問屋街・道修町の代表のように思っていたが、東京の製薬業中核地域のど真ん中にグローバル本社を構えるとは、と思った。
また創業200年の老舗呉服問屋、田源の「オシャレきもの展」を見た。申し訳ないがここはスタンプラリーのスタンプを押すだけで立ち寄ったのたが、2階の広い座敷に加賀友禅をはじめ美しい着物がたくさん展示されていた。いわゆる「目の保養」になった。
また大道芸でクラウンじーにょのジャグリング、バルーンアート、マジックなどもながめることができた。子どもたちが大喜びしていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/f9/0128c220d507d1595429aee0ce915530.jpg)
この建物の2階に十思湯がある
さて、タオルをただでもらえる「手ぶらで銭湯へ」。2016年は勝どき湯、17年は銀座の金春湯、昨年は月島温泉に行き区内銭湯めぐりが定番となったので、今年は小伝馬町の十思湯に行った。2014年7月オープンなのでまだ新しい。十思湯の規模は下駄箱96、ロッカー36、カラン12でまあ普通だが、カランの数が少ない、というかスペースがゆったりしていた。カランを5-6個増やせそうなスペースに手すり付きの浴槽への通路があった(このサイトで写真が見られる)。
カランには、温泉のように隣の人との仕切りが付いていた。
浴槽は熱い湯、ぬるめの湯、水風呂の3つ、ジャジーがぬるめの湯に2つか3つある。サウナもある(追加400円)が、男性側はドライサウナ、女性側はスチームサウナになっている。わたくしはサウナを使わないこともあり、なぜなのかはわからない。と思ったら「突撃!カネオくん」でドライはよくみる普通のサウナ、スチームはいわゆるフィンランド式で客が熱い石に水をかけスチームを発生させるタイプと解説していた。
銭湯絵もあるが、絵ではなくタイルで、富士山は普通だが前景が日本橋になっている。歌川広重の浮世絵とのこと。
スペースがゆったりしているのには秘密がある。この場所はもとは小学校で、いまはケアサポートセンター十思、保育園、訪問看護ステーション、区内ボランティア団体の支援組織などが入る区の複合施設だ。近隣から銭湯がなくなり住民からの要望を受け区が開設した、いわゆる公設民営なのだ。
男性用脱衣室にもおむつ交換台があり、冷水機があったのがうれしい。
今回は忙しそうだったので店の方に話を聞くことはできなかったが、前にいったときにたしか台東だったか、他の区から通勤しておられるとのことだった。
この場所は江戸からの由緒がある地で、江戸時代初期に伝馬町牢屋敷が設置され、幕末に吉田松陰が処刑された。明治になり牢屋敷は市ヶ谷に移転し1878(明治11)年に十思小学校が開校した 十思は北宋の資治通鑑の中に出てくる「十思之疏」にちなむ名だそうだ。90年3月閉校し統合のうえ日本橋小学校になった。
☆アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。