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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

日本の戦後責任と日朝関係

2010年10月15日 | 集会報告
終日秋雨が降り続いた10月9日(土)夜、飯田橋の東京市民活動ボランティアセンター会議室で「「日の丸・君が代」問題と日本の戦争、戦後責任を考える第2回学習会 日本の戦後責任と日朝関係」が開催された(主催:「良心と表現の自由を!」声をあげる市民の会)
最初に、主催者を代表し渡辺厚子さんのあいさつがあった。渡辺さんは02年4月の入学式で絵入りのブラウスを着用したことで処分を受けた大泉ブラウス裁判の当該である(訴訟は04年9月提訴、07年7月敗訴)。09年3月の卒業式で、4回目の君が代不起立をしたことで停職3カ月処分を受けた。この会では、日本が戦後一貫して植民地責任をとらなかったことが、現在学校現場が日の丸君が代で厳しく締め付けられる結果をもたらしたという認識から、学習会を企画した。今回の企画は、とくに歪みが顕著な朝鮮民主主義人民共和国と日本の関係をもう一度戦後責任の観点から見直そうというものである。

日本の戦後責任と日朝関係    石坂浩一さん(立教大学准教授)

1 北朝鮮の後継問題とこれから
9月28日金正日の三男、正恩が後継者であることが確実になった。この問題をマスコミが大きく取り上げているので、正恩が「後継」に指名された意味から話を始める。これをどうみるかは戦後の日本の北朝鮮認識、すなわち北朝鮮はこわい国、ダメな国、独裁者の国という見方に大きく関係している。この2年の北朝鮮の状況を冷静に振り返りたい。
08年6月金正日の重病説が報じられた。10月にサッカー観戦や工場見学で復活を誇示したが、このころから北朝鮮政権内部で後継者問題が真剣に検討されたと考えられる。09年5月の2度目の核実験でオバマは北朝鮮と距離を置き、韓国とも08年2月の李明博政権発足以降関係が悪かったが08年7月の金剛山女性射殺事件や今年3月の哨戒艇沈没事件でますます険悪になった。
さまざまな議論や迷いのなか、結局シンボルとなる三男を後継者に指名することになった。正日は8月末の今年2度目の訪中で中国の合意をとりつけ、9月27日27歳の正恩を大将に任命した。同時に正日の妹・敬姫など軍歴がない3人が大将に任命され少将が27人誕生するなど大量昇格のなかの一人だった。翌28日党人事で、正恩は中央軍事委員会副委員長に任命された。ただ政治局や書記局にはまだ入っていない。
金正日は総書記就任以来、主体思想と並び先軍政治を指導思想としている。これは、米朝関係の正常化とアメリカという脅威を除去するまでは準戦時体制なので、軍が党を指導し、政治を行うという政治思想である。いずれ準戦時体制から中国のような国家社会主義へ移行することになるだろう。金正恩を軍事委員会副委員長とする新体制も過渡期の体制だが、この過渡期をうまく乗り切れるかどうかはまだわからない

2 日本の戦後と社会主義国としての北朝鮮
戦後、日本は植民地として北朝鮮を支配したことを「忘却」し、韓国や台湾とともに反共自由主義同盟の一員となった。冷戦下、アメリカの庇護のもと植民地支配や戦争責任の棚上げが許容された。そして戦前の支配層が復活した。
同じ陣営とはいうものの韓国は北朝鮮と対立し軍事的負担を行った。朝鮮戦争では100-200万の犠牲者を出し、800万ともいわれる離散家族が生まれた。一方日本は、朝鮮戦争で復興し、意識せず「平和」を享受した。南基正(ナム・キジョン)は韓国を戦場国家、日本を基地国家と名付けた。
日本にとって北朝鮮は、旧植民地として見くだした存在であるとともに敵対陣営の社会主義国家なので「忘却」すべき存在だった。
一方総評社会党ブロックは、社会主義連帯ということから中朝との友好を打ち出した。ただ中国との友好は経済界や自民党も含め広範な支持があったが、日朝友好には担い手がいなかった。63年の日韓条約反対闘争でも、韓国独裁政権批判はあっても植民地支配への責任を議論するまでには至らなかった。
日朝関係を再考するチャンスは3度あった。1回目は59年からの帰還運動だ。この陰には自民党の「在日は迷惑なので、少しでも人数が減ればよい」という思惑があった。国際赤十字の文書から50年代半ばに最初に帰還を言いだしたのは日本赤十字だったことも明らかになった。こうした流れから帰還が実現し、59年から61年のはじめの3年で帰還者10万人のうち大部分が北へ「帰国」した。しかし日本政府は帰還者に自由往来を許さなかった。また北にとっては、キャパシティ以上に帰還者を受け入れるという未熟な対応があった。帰還から50年たったが、その後「制裁」措置を受け2度と日本の親族と往来できなくなるとだれが考えただろうか。
第二のチャンスは72年の日中国交正常化の時期に訪れた。日朝貿易は一部始まったが、田中政権に国交正常化の意欲はなかった。また直後のオイルショックで、貿易代金の支払いに焦付きが生じ、その後の日朝貿易の大きな阻害要因となった。
第三のチャンスは冷戦体制崩壊のなかでの日朝交渉の開始だった。90年9月金丸訪朝団は平壌で、自民党、社会党、朝鮮労働党による三党共同宣言を発表した。これは戦後初の日朝交渉だったが、拉致問題の浮上やミサイル問題、核問題で途絶した。2002年には日朝平壌宣言という大きな前進もあったが、うまく進んでいない。その大きな原因は拉致問題であり、これを避けては通れない。

3 拉致問題と「敵国」化
02年9月金正日は日本人13人の拉致を認め「遺憾なことであり率直におわびしたい」と述べた。うち7人は死亡と発表したが家族は納得しなかった。
拉致は、70年代後半から80年代前半にかけて北朝鮮の南に対する戦略として実行されたと考えられる。けしてのべつまくなしに拉致を実行したわけではない。北は50年代から70年にかけ中ソに翻弄された。そこで67年ごろから自主路線を歩むことにした。中ソに頼らず自力で南北統一を果たし、南を解放するというベトナムと同じ路線である。しかしうまくいかなかった。72年の米中和解後、ゲリラ闘争だけでなく南の民主化闘争を支援し政権を打倒する戦略をとった。そのとき南に自由に出入りできる日本人に仮装した工作員を送り込み、政権批判や北への支持を広めようという発想から日本人拉致を実行した。もちろんこんな方法はうまくいくはずがない。どういう部局のどういうレベルで決定したかはわからない。
拉致問題が日本で浮上したのは、ヨーロッパで行方不明になった松木さん、石岡さん、有本さんの3人の問題からだった。この拉致にはよど号事件の日本人関係者が深く関与した。
その後97年に亡命北朝鮮工作員の発言により横田めぐみさんの拉致に世論の火がついた。また98年8月のテポドン1号発射で危険な国というイメージがつくられ始め、2度の核実験で決定的になった。日本にとっての脅威なら、外交的に話し合って解決する方向になりそうなものだが、そうはならなかった。どうなったかというと、アメリカの核の傘に依存しアメリカの武力で北を圧迫してもらおうというものだった。冷静な対応は議論されなかった。さらに拉致が加わり、圧力をかけて金正日を打倒する、そうすればすべてが解決するという発想になった。
それをはっきり打ち出したのは安倍晋三内閣だった。被害者が全員生還するまで国交正常化は問題にならないと、圧力をかけること自体が目的となり、拉致問題は政治利用されることになった。マスコミもその動きに乗った。そのもとは、かつて植民地支配した朝鮮民族への蔑視観と裏返しの恐怖、すなわち「侮蔑と恐怖」である。北朝鮮は独裁国家で国民は虐げられ無気力でダメな国、じきに崩壊する(しかし崩壊しない)、一方北朝鮮は平和な日本を困らせてこわい国、いつ工作員が拉致しに来るかわからないという考えだ。これはかつて日本の支配層が3・1独立運動に直面したときと何も変わらない。それまで侮っていた人びとが立ち上がり弾圧にも屈せず、デモンストレーションを繰り広げ「独立万歳」を叫んだ。支配層は恐怖しそれが関東大震災の朝鮮人大虐殺につながった。北朝鮮への政治家やマスコミの対応をみると、植民地時代と何も変わっていない。
それではいけない。少なくとも2002年の日朝平壌宣言へ立ち戻り、これまでの合意を生かし具体的な問題をひとつひとつ冷静に解決する道を探らないといけない。
90年代前半に韓国は中露と国交をもち経済関係が太くなった。北東アジアのバランスは変わりつつある。しかし日本は制裁一辺倒で北との関係は先細っている。
北朝鮮は何度か改革や開放を試みたが成功しなかった。たしかに北の体制や敵対的な考えにも問題があったが、それだけでなく日米や一時の韓国が外から圧迫を加え、芽を摘んだ結果でもある。
戦後の日本は冷戦下で北朝鮮をきちんと見ずにきた。保守政権は過去の歴史を見ないですむ状況をつくり、多くの人はそのまま受け入れた。これを変えなければいけないということがわたしたちの課題だ。

むすび
日朝国交正常化に向け交渉する以外に、日朝や東北アジアの懸案を解決する道はない。冷静な外交とそれを推進する政治が必要だ。また冷戦下での朝鮮半島の人の苦しみをわたしたちは気づかずなかった。それは植民地時代に支配下にあった人への認識をもてなかった日本人総体の見かたの偏りにも一因がある。
わたしはこの2年間日朝国交正常化連絡会の共同代表を務めてきた。日朝平壌宣言の内容を盛り込んだ日朝基本条約案を提示した。戦後60年もたっているのだから、日朝基本条約を締結し、それを基にひとつひとつ具体的な問題を解いていかないと、拉致も平和も解決しない

☆わたしは渡辺厚子さんの学習会や集会に参加するのははじめてである。しかし渡辺さんは根津公子さんや増田都子さんと並び長年都教委と闘い続けてこられたので、お名前はよく知っている。またさまざまな集会でアピールされたのを聞いたこともある。
「良心と表現の自由を!」声をあげる市民の会は、ほぼ月刊で「ほっととーく」という会報を刊行している。現在94号でわたくしは06年の42号から読んでている。最終面に「わたなべーだ」という漫画
(作・画 高根英博)が連載されている。テーマは歴史に関する薀蓄や渡辺さん、高根さんの個人史で、出色のできばえだ。毎号愛読している
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