アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

一厘の仕組

2023-01-07 06:47:31 | 【アストラル体】【ザ・ジャンプ・アウト-07】neo

◎古事記の仲哀天皇の段

 

戦争の噂どころか戦争報道を聞くようになった。

 

一厘の仕組とは、世の立替の時に、99.9%滅亡のところから大逆転するメカニズムのこと。出口王仁三郎は、そのヒントは、古事記の仲哀天皇の帰神の段にあるという。

 

仲哀天皇の帰神の段。大后息長帯比賣命は神功皇后のこと。

「その大后の息長帯比賣〔オキナガタラシヒメ〕命はある時、帰神をした。それは、天皇が筑紫の香椎宮にいて、熊曾国を討伐しようとした時で、天皇は琴を弾いて、建内宿禰の大臣は沙庭にいて神託を求めた。すると大后が帰神となると、「西の方に国がある。金銀をはじめとして目の輝くような種々の珍宝が、その国に多くある。私が今から、その国を与えよう」との御告げであった。

 

しかし天皇は、「高い所に登って西の方を見ても、国土は見えず、ただ大海があるだけだ」と答え、偽の神だと思って、琴を押しやって弾こうとせず、ただ黙っていた。

 

すると、その神は大いに怒り、「全てこの天下はおまえが知ろしめす国ではない。おまえは一道(死者の国)に向かえ」と告げた。

 

そこで建内宿禰の大臣が、「畏れながら、我が天皇よ。やはりその琴をお弾きあそばせ」と申し上げると、やっとその琴を引き寄せて、もとのように弾いた。すると、しばらくして琴の音が聞こえなくなった。火を灯して見ると、すでに亡くなられていた。

 

そこで驚き恐れて、殯宮に移し、さらに国の大幣を取り寄せて、生剥、逆剥、あはなち、溝埋め、屎戸(くそへ)、上通下通婚(おやこたはけ)、馬婚、牛婚、鶏婚、犬婚等の罪の類を様々に捜し出し、国の大祓を行った。

 

そしてまた、建内宿禰が沙庭にいて神託を求めた。このようにしたところ、告げられた内容は具さに至るまで先日と同じであり、「全てこの国は、息長帯比賣命の御腹にいる御子が治める国である」との神託であった。

 

さらに建内宿禰が、「恐れながら、我が大神よ。其神の腹にいる御子はどちらでしょうか」と申し上げると、「男子である」との答えであった。そして、「今このように教えてくださる大神の、その御名を知りたいと思います」と詳しく求めると、「これは天照大御神の御心である。また、底筒男、中筒男、上筒男の三柱の大神である。【この時にその三柱の大神の御名が明らかとなったのである。】

 

今、本当にその国を求めようと思うのならば、天神地祇、また山の神と河海の諸々の神に、ことごとく幣帛を奉り、我が御魂を船の上に乗せて、眞木の灰を瓢に納め、また箸と比羅傳(ひらで:柏の葉の皿)を多く作り、それぞれを大海に散らし浮かべて渡るがよい」と答えた。」

 

西の方の国を与えようとは、新羅を与えようということではなく、人間の苦悩からの救済を与えようということで、死の世界を超えたニルヴァーナに渡らせようということ。

 

仲哀天皇は、そんなうまい話などないと合理的に考えて、その神をニセモノだと断定したことで、命を落とした。理屈で考えれば、ニセモノだと思うのは当然ですね。

 

天皇がいよいよいなくなった後、日本人は「あれっ、ヤバイぞ」と初めて気づき、わが魂をあらゆる宇宙を渡る船とも呼ぶべきクンダリーニのエネルギー・コードに乗せ、死の世界のシンボルたる真木の灰をも瓠に納めるように通過しなければならない。また箸も皿も一人には1組で足りるので、ここは、大勢の人がそのクンダリーニ・ヨーガ技でもって渡ること(アセンション)を見ているのだと思う。箸と皿は、(草薙の)剣と(八咫の)鏡でもあり、剣と盾の表象でもある。

 

底筒男、中筒男、上筒男とは、クンダリーニは筒だから筒でしょう。底筒男は肉体のクンダリーニ、中筒男はエーテル体クンダリーニ、上筒男は、アストラル体クンダリーニと当てるとすれば、メンタル体には届かないが、どう見るのだろうか。古事記も露骨に表現しているものですね。

 

※クンダリーニとは古神道では玉の緒のこと。クンダリーニは、すべてのボディを貫くエネルギー・コードと見られるので、“エーテル体クンダリーニ、アストラル体クンダリーニ”というような表現は間違いかも知れないが、ここは敢えて筒男を3段に分ける意味を推測してみた。

※参考「生死の問題と信仰とは別である。人間は玉の緒が神様と結んであるので、それを神様が切られると、命が切れるのであつて、人はそのもとを大切にせねばならぬ。」出口王仁三郎の水鏡より

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伯家神道の予言

2023-01-07 06:38:35 | 古神道の手振りneo

◎国体は滅亡するのか

 

伯家神道は、代々白川伯王家に伝えられていた宮中の神事を司る神道で、明治初期に途絶えた。同時に伯家神道が伝えていた宮中の神事も途絶した。

 

これは、明治5年(1872年)に皇室祭祀が、白川家から宮内省式部寮に引き継がれたことを指すのだろう。

 

さて伯家神道には、予言があって神事を伝えられない天皇の世が百年続くと日本の国体が滅亡するというのがある。(出典:超常現象大辞典/羽仁礼/成甲書房P265)

 

百年の計算始期を1872年にとれば、1972年は百年目。

あるいは、計算始期を大正天皇即位の1912年にとれば、2012年が百年目。

 

こういう年代計算はずれるものだが、そもそも国体が滅亡するのかどうか。

 

エドガー・ケーシー以来、日本沈没を幻視する人はちらほら見かける。そもそも予言というのは、予言した時代の集合的無意識=霊界の状態から将来を敷衍したものであって、現状が変化すれば未来も当然に変化する。

 

また幻視する人間が天上を幻視する場合、地獄を幻視する場合、この世を幻視する場合に分かれるので、彼がどれを見ているかというのも、見分けるポイント。これには審神者が必要となる。

 

百年後であった1970年代、世界のメジャー覚者であったクリシュナムルティとOSHOバグワンは、日本人の集合的無意識=霊的状態が良くないため、日本来日を忌避して終わった。一方ダンテス・ダイジはその不調な日本で布教の胎動を見せていた時期。

 

国体が滅亡するかどうかは、我々日本人自身が無意識に承知していることで、他人に問うて知ることではあるまい。多数の亡国の相があるが、最後の一厘の逆転シナリオもある。

 

今時代の帰趨は少数の覚者ではなく、多数の覚者でない大衆が鍵を握る。王家の秘伝はいつか途絶えるが、途絶えたもののうち縁あるものは再興する可能性がある。伊勢神宮が荒廃していた時期にその祭祀の本義を細々と伝承した中心人物は、神道家でなく、仏教の比丘尼であったように、こうしたものは古神道独力でなく、オールジャパンで、切羽詰まらないと興らないのだろうと思う。

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冥加

2023-01-07 06:35:46 | 古神道の手振りneo

◎神々の大恩に対して感謝

 

冥加というのは、もともとは、気がつかないうちに授かっている神仏の加護・恩恵のことで、また、思いがけない幸せのことも言う。

 

現代人は、「おかげさまで」と答えることがあるが、それが冥加の名残。冥加を感じ取る感性が一つのカギである。

 

出口王仁三郎の随筆「謝恩の生活」から

『天の不平は豪雨を降らして大洪水となし、風の不平は嵐を起して総てを破壊し、地の不平は地震を起して以て乾坤を震動せしむる様に思はれる。

 

人間の不平は千様万態であるが、先づ生活問題から起るのが多い様だ。この不平を解する唯一の方法は、報恩謝徳の意義を了解するにある。

 

仏教では、万象は皆仏陀であると云ひ、大本では宇宙に於ける霊力体一切の万有は、神の本体であると説く。然り我等が極暑と闘つた後の一滴の水は、如何に多大なる感謝の念を与へるか、風も草も木も総て吾人に幸福を与へて居る。

 

米一粒が八十八回の労力を要して始めて人間の口に入る事に、思ひをいたす時は、吾人は四囲の総てに対して感謝せねばならぬ。報恩の念は吾人に幸福な人生の温情を教へて呉れる。一個の日用品を買ふものは其品物にて便宜を得る、売主は代価の金で自己の慾望を満足する事が出来、製造人は労銀にて自己生活の必需品を求むる事が出来るのだ。然りとするならば以上の三者は何れも対者に対して感謝せねばならぬ事になる。

 

 近時矢釜敷い労働問題にしても然りである。経営者は天然と労働者に対して感謝すべく、労働者に対しても相当に利益の分配をなすべきは、当然であると同時に、天然否、神々の徳に対して感謝すべきである。

 

又労働者は、経営者があつてこそ自己が生活し得る事を知つて、唯自己の腕力万能心に囚はれず、そこに感謝の意を表すべきものである。此の如くにして、両者が互に諒解し、始めて不平不満を去り、温かい生存を続くる事が出来る。然るに現代には感謝報恩の念慮なき、利益一点張りの人間がままあるのは歎かはしい。

 

兵庫あたりの某紡績工場の近隣に、火災が起つた時に、多大の綿花が倉庫に在つたので職工連が万一を気遣つてどんどんと他所へ運び出して居た。そこへ幹部の役員が出て来て、此の状を見るなり、火の如うになつて叱りつけた。

 

そして「此の綿花には十万円の保険がつけてあるから、他へ運ぶ必要は無い、焼けても原価に該当するだけの保険金が取れる、運搬すればそれだけの労銀が要る、いらぬ世話を焼くな」といつたとの事であるが此役員どもは、どうして綿花が出来たかといふ事を知らぬ冥加知らずである。

 

そして多数者の労力を反故にするものである。代償の金さへあれば、社会の損失を知らぬ、利己主義の人間である。猶この綿花を焼失したなら、多くの人々が、寒さを防ぐ衣類が、出来なくなると云ふ社会の人の幸福を、度外視したる悪魔の所為である。

 

滔々たる天下、殆んど是に類する人々の多きは、浩歎すべきである。天地の大恩自然界の殊恩を知らず、宗教心なき人間は総て斯の如き者である。

 

青砥藤綱は滑川に一銭の金を落し、五十銭の日当を与へて、川底を探らしめたと云ふ、斯の如きは天下の宝を将来に失ふ事を恐れた謝恩心に外ならないのである。吾人は何処までも青砥藤綱の心事を学ばねばならぬ。』

(月鏡/出口王仁三郎の謝恩の生活から引用)

 

※青砥藤綱: 鎌倉時代の武将。

太平記(巻第三十五)で、夜に滑川を通って銭10文を落とし、従者に命じて銭50文で松明を買って探させたことがあった。「10文を探すのに50文を使うのでは、損ではないか」と、ある人に嘲られたところ、藤綱は「10文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる。50文は自分にとっては損になるが、他人を益するであろう。合わせて60文の利は大であるとは言えまいか」と諭した。

 

 

メリデメばかり追えば、必ずこういう天下の物資を濫費する場面が出てくるもの。賞味期限切れの食品を生ごみに捨てるなどは、良心に咎める人も多い。もったいない精神は、こうした明治大正の人に問わなくても、禅の食事の作法も同じ起源であって、道教に由来する功過格(善悪の基準書)も同類である。

 

人も世も、こうしたことを日々に心得て行動すれば、あまり変な方向には行かない。

 

だが、実際にこういうことを会社や組織でやろうとすると、背任とまではいかないかもしれないが、変な判断と見られる。それは鎌倉時代からも変わらなかった。

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耶蘇坊主は天国に墜落する

2023-01-07 06:30:56 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎天国と地獄間を何往復も

 

出口王仁三郎が、雑誌昭和青年で、「耶蘇坊主は天国に墜落するし、仏教坊主は極楽に墜落している」と発言している。

 

天国、極楽を目指すのはダメと言っている。善を行い、悪を行わないというのは、人間の行動の大原則であって、その結果、人間は天国、極楽に入ることになるが、それでもいかん、それでも足りないと言っているわけだ。

 

どうして天国や極楽を目指すのがまずいのかを理屈で説明することはできない。浄土系は、辺地浄土という極楽の一角を目指し、キリスト教は梯子を登って天国を目指す。

 

しかし天国、極楽に入った身魂は、何年かたてば、その果報、功徳を使い果たし、挙句には地獄に落ちるようなことになる。それでよいのか、と問うているわけだ。

 

何百年、何千年サイクルでは、人は天国と地獄の間を何往復もするのではないのか。

 

そこで、神に復えるべしと説く。天国と地獄の結婚である。

 

焦熱の地獄に落ちし現身(うつそみ)も

神に復ればこころ涼しき

(霊界物語第一巻第十九章余白歌)

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古事記言霊解通読-5

2023-01-07 06:22:10 | 古神道の手振りneo

◎神と出会った人だけが黄泉比良坂攻防戦へ

古事記言霊解の骨子を挙げると次のようなところか。

1.火力文明により、近代西欧文明はほとんど滅びる。

2.マスコミの大量情報による洗脳の中で、人類には、暖かみがなく、冷酷さが蔓延し、しかも道義心、公徳心が失われた。

3.ここで大神は世界戦争を以て時代の弊風を除くことを決断する。

4.最初は議論でもって世界の神政への改革を目指すがいつまでたってもらちがあかない。逆に利己主義、現世利益主導のグループに大神は追い込まれてしまう始末。

5.正しい神側は、正しい信仰についての宣伝、布教を行うものの、これに対する妨害は激しく、すでにそうした宣伝合戦を受ける人々の側は何が正しくて何が間違っているかわからない状態にまで混乱した精神状態に陥っている。

6.大神の側は、こうして敗走に次ぐ敗走を繰り返し、黄泉比良坂に到着。黄泉比良坂の坂本は世界の根源。ここで人々は、神に出会い、世界の根源を知る。光明に出会った人が増えたのだ。

7.神知る人と神知らぬ人とのせめぎあいは激しくなり、ついに大神は、両者をはっきりと分断させる。これで「善と悪とを立て分ける」となり、すべての人が神を知っている霊的文明がスタートする。

アトランティス滅亡時に想定されていた至福千年は、ここに成就する。アトランティス滅亡時に古事記に散りばめられていた栄光の時代はこれで実現する。

古神道はクンダリーニ・ヨーガ系だから、古事記仲哀天皇の段にあるように、クンダリーニからアプローチする。底筒男、中筒男、上筒男。

第84代順徳天皇の著された「禁秘御抄」の冒頭に、「凡(およ)そ禁中の作法まず神事、後に他事」とあるように天皇も神事がまず先。人々も食べられるなら、神事すなわち冥想がまず先。

黄泉比良坂の坂本にたどり着けるのは、日々の冥想により神と出会った人だけなのだ。

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古事記言霊解通読-3

2023-01-07 06:17:19 | 古神道の手振りneo

◎正しい教え、誠の信仰

 

さて伊弉諾命は、黒御鬘(くろみかづら)を投げ捨て給うたところ、誠の教えの信仰の若い信者が出てきた。ところが追ってきた黄泉醜女はこれを拾って取って食らうという挙に出る。

 

この妨害行為にたまらず伊弉諾命は、今度は御角髪(みみづら)にまかせる湯津津間櫛(ゆづつまぐし)を引きぬいて、世間に正しい教えを宣伝したところ、箏(たかむら)という上流階級の貴紳の理解を得るようになった。ところが黄泉醜女軍団は、これをも抜いて食べ、この試みをも亡きものにしようとした。その隙に伊弉諾命は逃走を続けた。

 

さて、正しい教え、誠の信仰と気軽に使っているが、ある宗教教団が無条件に正しいと言えることはなく、またずれたような教団でもちゃんと神仏に出会った正しき人は時にいるもの。また一方で万教同根と云い、宗派を問わず正しい教えはあるものだという主張もしている。

 

よってその教えが正しいかどうかはその人次第ということでもあり、加入している教団が正しいかどうかは、真の神仏がどういうものかを知らない本人には見分ける術はないということでもある。また正しい教団でも正しからざる信者もいる。

 

古事記言霊解通読-4

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古事記言霊解通読-2

2023-01-07 06:13:24 | 古神道の手振りneo

◎世の上流から下流まで濁りきる

 

古事記では、腐敗した伊弉冊命(いざなみ)の死体に巣くう神々の名を挙げるが、これらはいずれもこの火力文明の暴虐のシンボリックな説明になっている。

 

この惨憺たる有様にしびれを切らした伊弉諾命(いざなぎ)は、自ら黄泉の国に入り、伊弉冊命に改心せよと直接談判に臨むが、彼女はここでもう食事をしたので改心できないと申し出を拒絶した。よくよく彼女の姿を見ると、頭にも腹にも胸にも女陰にも手にも足にも悪神が巣くい、手の付けようがない状態である。つまり世の中の上流から下流まで嘘と虚飾、メリットデメリットだけの強欲な悪人、偽善者ばかりとなり果てていた。

 

世界のゴッドファーザーたる伊弉諾命のお出ましに、各国首脳たち(黄泉神)は鳩首して今後の方針を議論するが、なかなかまとまらなかった。

 

結局、世直しをしようとお出ましになった伊弉諾命のことを、その妻たる伊弉冊命(いざなみのみこと)は、汚いところを見られ恥をかかされたと逆恨みし、黄泉醜女(よもつしこめ。世間の人の9割がたは黄泉醜女の如きもの)を派遣し、追手をかけたので、このような社会全体の矛盾撞着に神様も驚いて跣足(はだし)でお逃げになることになった。

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古事記言霊解通読-1

2023-01-07 06:05:08 | 古神道の手振りneo

◎伊弉冊神(いざなみのかみ)火の神を生んで亡くなる

 

古事記言霊解(霊界物語第八巻)は、何度も読んだつもりだったが、読み始めると個々の字義や言霊の説明に気をとられ、全体の流れをなかなか汲み取ることができなかった。

 

まず伊弉冊神(いざなみのかみ)が最後の出産で、火の神である迦具土神(かぐつちのかみ)を生んだことで亡くなる。迦具土神は火力文明たるこの近代西欧文明のシンボルであって、火力がこの文明の交通機関、戦争兵器、生産機関などのメインとなることを云う。それによって本来の健全な地球の姿が失われ、滅亡に瀕したことが、伊弉冊神が出産で亡くなったことで表象される。

 

伊弉諾命(いざなぎのみこと)は、彼女の死体を生気がないか日本魂が残っていないかと調べてみたが、ほとんど生命のないことを確認した。このことで世の中に、暖かみはなく冷酷さが蔓延し、しかも道義心、公徳心が失われたことを大いに泣き悲しんだのでこれを泣沢女神(なきさはめのかみ)と呼ぶ。

 

以後、伊弉冊神は悪神の代表として機能する。

 

神去(かむさ)りました伊弉冊命は、死人として出雲の国と伯耆の国の境に葬むられた。出雲は何処(いづくも)ということで、また雲出ずる国ということ。これは世の中のどこでも乱れきっているということ、害となる情報がどんどん流されるということ。

 

一方伯耆の国というのは、掃はきということで雲霧を掃き払うと云うこと。よって伊弉冊命は、善悪正邪の分水嶺に立ったということ。

 

このままではいけないと伊弉諾命(いざなぎのみこと)は、わが子迦具土神(かぐつちのかみ)の首を十拳剣(とつかのつるぎ)で切って葬った。これは、戦争を以つて物質文明の悪潮流を一掃するということ。世界戦争は既に2回あり、大本事件は2回だが、物質文明の悪潮流は隆盛であるがゆえに、次の世界戦争があることが示されている。

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十牛図-8

2023-01-07 03:21:44 | 十牛図

◎第六騎牛帰家

 

【大意】

『序

 

争いはとっくに終わって、捕らえることも放すことも忘れた。木こりの歌う村歌を口ずさみ、童謡を口笛で吹く。

牛の背に跨がり、目は雲のある空を見ている。牛も人も呼び返すこともできず、引き止めようもない。

 

 

牛にまたがって、悠揚として家路を目指せば、えびすの笛の音が、一節、一節、夕焼け雲を見送る。

一つの小節、一つの歌曲にも言いようのない情感(意)がこもっていて、真にこのバイブレーションを解する人には、言葉の説明は不要である。』

 

えびすの笛の音とは無限光明の精妙なるバイブレーションのことである。すなわち窮極(仏、空、神、ニルヴァーナ)から来る波動のことである。

メンタル体上のチャクラは、中心太陽(ニルヴァーナ、空、無限光明)の7つの属性(窮極、智慧、自由、愛、歓喜、安心、力)の現れであるが、そのエネルギーの流れがえびすの笛の音とも言えよう。

 

この笛の音は、究極から来るものであるだけに、人々の生活を根底から変えてしまうことを本能的に知っているがゆえに、人々はその笛を聞くのをこわがるものだ。笛を奏でる人の仲間に身を投じようとしたり、恥ずべき自分の生き方を思い知らされたり、自分自身に出会う恐怖を直観的に感じるのだ。

 

本来の自分(仏、神)を見るという体験を第三見牛で得たが、この第六騎牛帰家までは、牛(仏、神、空、涅槃、無)と自分とは別の存在である。従って第六騎牛帰家の位相は、最後の個別性を残したポジションである第5身体のコーザル体のレベルであると見る。

 

牛という世界全体は見ていて、見ることに大分慣れてきた。だが、見ている自分がまだ残っている。

 

【訓読】

『騎牛帰家

 序の六

 

干戈(かんか)已に罷(や)み、得失還た空ず、

樵子の村歌を唱え、児童の野曲を吹く。

身を牛上に横たえ、目は雲霄(うんしょう)を視る、

呼喚すれども回(かえ)らず、撈籠(ろうろう)すれども住(とど)まらず。

 

牛に騎(の)って迤邐(いり)として家に還(かえ)らんと欲す、

羌笛(きょうてき)声声 晩霞を送る。

一拍一歌 限り無き意、

知音は何ぞ必ずしも唇牙(しんげ)を鼓せん。』

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