アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

有を変容させて無のなかに返す

2023-01-31 17:37:58 | 現代冥想の到達点neo

◎最後の奇蹟は最初の奇蹟より大きい

(2020-06-01)

 

ユダヤ教ハシディズムから。

『天と地との創造は、無から有を展開させることであり、上なるものが下なるものの中に降りることである。

 

しかし、存在界から身を離して、つねに神に着く聖者たちは、真剣に神を眺め、捉えるのである――彼らは有を変容させて無のなかに返すのだ。

そしてより不可思議なことはこれである、無すなわち下なるものを上へと高めることである。「最後の奇蹟は最初の奇蹟より大きい」とゲマラに書いてあるように。』

(忘我の告白 叢書・ウニベルシタス マルティン・ブ-バ-/編 田口 義弘/訳 法政大学出版局P254-255から引用)

※ゲマラはタルムードの中の一部。

 

この文では、無は最初の方では上だと言い、最後の方では下だと言うので落ちつかない。

 

『上なるものが下なるものの中に降りる』は、トリスメギストスの『下なるものは上なるものの如く、上なるものは下なるものの如く』に似る。

 

最初の奇蹟は天地創造であって、第七身体の無から第六身体の有に之(ゆ)くこと。これに対して、下のものなる第六身体の有から第七身体の無に之くことは、その前段として、個なる人間を飛び出るということ。個なる人間から見れば、有も無も全体なので、そこで視点の逆転のみならず、存在そのものの一変が起こる。

 

タロットでは吊るされた男であり、北欧神話のオーディンは木から9日吊るされた。

 

その人間的視点において、無が下であり、有が上だと言うのだろう。

 

今まさに過去最大の奇蹟が起きようとしている時代である。

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すべてが異郷のものだから帰郷する

2023-01-31 17:31:03 | 現代冥想の到達点neo

◎ユダヤ神秘主義ハシド派の一言

(2020-05-31)

 

ハシド派は、ハシディズムのこと。到達した人々がいることが、以下の言葉でわかる。

 

『ある師について、彼は「私はこの国では寄留者である」(出エジプト二・二二参照)という、モーセの言葉にならって、まるで寄留者のようにふるまったと語られている。

 

遠方から、生まれた町を出てやってきた男のように。

 

彼は名誉にも、彼を益するなにものにも心を向けなかった。ただ、生まれ故郷の町に帰ることだけを考えていた。

 

彼はおよそなにものにもとらえられないが、なぜなら彼は、すべてが異郷のものであり、自分は帰らねばならない、

と知っていたからである。』

(忘我の告白 叢書・ウニベルシタス マルティン・ブ-バ-/編 田口 義弘/訳 法政大学出版局P252から引用)

 

世俗感覚で読めば、エジプトが異郷でカナーンが故郷だが、ここではそう読まない。

 

あるいは、故郷を出て都市で暮らしていた者が老境にさしかかって、故郷でセカンドライフを送ることでもない。

 

聖者にとっては、この世のすべてが異郷であり、エクスタシーたる根源だけが故郷である。

 

ダンテス・ダイジは、『私は私という心身の異郷の客』である悲しみを歌い上げたが、全くそれと同じ感慨を持つ者がハシディズムにもいたのである。

 

悟りとは帰郷のことである。

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ユダヤ教ハシディズムの神人合一への5ステップ

2023-01-31 17:06:55 | 現代冥想の到達点neo

◎イェヒダー(単一性)

(2012-01-02)

 

ユダヤ教ハシディズムでは、神人合一へ5段階を立てる。

これは、もともとはユダヤ人の聖書解釈ミドラシュから出てきたもので、ルバヴィッチのドブ・ベエルが、これにならって霊性5段階説を説く。曰く、

第一段階 ネフェシユ (生命)

第二段階 ルアッフ(霊)

第三段階 ネシャマー(魂)

第四段階 ハヤー(生命)

第五段階 イェヒダー(単一性)

 

デベクートとは、「間断なく神と共にいること、人間と神の意志との密接な合一と一致である」(ユダヤ神秘思想研究のゲルショム・ショーレムによる)だそうですが、以下の説明をみると、単にトランスみたいな状態を指しているところがあるように思う。

 

『第一段階 ネフェシユ (生命)

この段階の人々は、神の言葉を聞いてその意味を理解します。しかし彼らは神の言葉の価値を認めても、神からは遠いままです。

 

第二段階 ルアッフ(霊)

ここは善き思いのデベクートにいる段階であります。ここでは人々は神の言葉を聞いて理解するだけでなく、彼らが神から遠いにもかかわらず、神に近づきたいと願います。この段階は「自分が個人的に関心を持っている商売について耳よりの話を聞き、彼の心の全力がそれに吸収されている。彼は、(寝ても覚めてもそれ思う、いわゆる)思いに密着しているとして知られている恍惚にすっかりはまっている人」に似ています。

 

第三段階 ネシャマー(魂)

ここは光明の段階です。この段階までくると、「神の側近くにある」と実感します。その喜びによって、人の心は直ちに恍惚の中へと進み、そして神の臨在を身近に感じるがゆえに、恐れと愛の中で行動します。そして恍惚状態にある心の中からメロディを伴った歌が生じて来ます。

 

第四段階 ハヤー(生命)

ここは「精神の恍惚」の段階であります。ここでは人の心と頭脳は神の光に完全に集中され、そして「神の前にはすべてのものが無である」という状態になっています。

これは、「人が、心の内奥で、その精神の深みから、仕事上の良いプロジェクトに没頭する時に似ている。その仕事に彼の魂のすべてが引っ張られ、(中略)彼の心も精神もその物事の良さだけに吸い込まれているのに似ている」。

 

第五段階 イェヒダー(単一性)

ここは至高の段階であり、理性と知性を越えています。人間の全存在はことごとく神に吸収され、何物も残りません。ここでは、人はみな自己意識というものを持たないのです。』

(ユダヤ教の霊性/手島佑郎/教文館P124-126から抜粋)

 

これを見ると、仏教でいえば、第一段階のネフェシユ (生命)が声聞、第五段階イェヒダー(単一性)は仏に該当するように思う。そして、第五段階イェヒダー(単一性)の定義が十全なものであることによって、ユダヤ教ハシディズムの正統であることがわかる。

 

第四段階ハヤー(生命)の段階は、仏教ならば菩薩に該当するのだろうが、その定義には見仏、見性にあたるような表現はとりあえずない。

 

この本には異言の例が挙がっており、この五段階は、神下ろしの手法の段階を述べている可能性があるように思う。

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アダムカドモン-3

2023-01-31 07:19:54 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎神的原人間という響き

 

カバラ本を手に取ると16世紀のカバリスト、ルーリアに言及しない本はまずない。ユダヤ教の冥想と言えばハシディズムだが、ルーリアは、ハシディズムに大きな影響を与え、ゾーハルの読み方にも大きな影響を与えた。ルーリアの方法は、神の側からスタートして個人間に至る古代秘教タイプ。よって原人アダムカドモンは最後の方に登場するのだが、「アダムカドモンの両眼から光線が出て云々」などと非常に誤解を招きそうなところもある。だが、箱崎総一氏の以下の説明では、アダムカドモンとは「セフィロトよりエン・ソフ (Ein-Sof 無窮なるもの)へと移行する媒介体」という仏教の三身に近い考え方をとっているように思う。

 

『カバラ思想家ルーリアによってアダム・カドモンはカバラ思想における中軸概念となった。ルーリアによればアダム・カドモンは単なるセフィロト(Sefirot 原質)の凝縮によって顕示された存在ではなく、セフィロトよりエン・ソフ (Ein-Sof 無窮なるもの)へと移行する媒介体としての意味をもつことになる。ルーリアによれば、エン・ソフがセフィロトの内に顕示されるという概念は廃棄すべきものとされた。』

(カバラ ユダヤ神秘思想の系譜 箱崎 総一/著 青土社P 391-398から引用)

※ルーリア:(1534年 - 1572年)イスラエルのユダヤ教神秘主義者。著作はないが後世のカバラ解釈に大きな影響を与えた。言行録の端々に本物らしい香気はある。

 

またルーリアは、おおまかに言えば、世界全体であるセフィロトと無窮なるエン・ソフの関係を、無窮なるエン・ソフが縮小して世界を作り始めたというように書いている。

ところが、インドでは、世界全体なるアートマンと無窮なるブラフマンの関係については、何も書かず併記するのが作法みたいになっている。そのことからすると、ルーリアはやや頑張りすぎかもしれないなどと感じるところがある。

 

『ルーリアが壊れた世界を神的身体の内部に描く自らの見解に達したのは、ようやく最晩年になってのことである。傷ついた身体としての壊れた世界の描写は、彼がメシアとして期待した自らの息子の死(彼はルーリア自身の突然の死に先立って死んだ)のあとに生まれた。

 

神的身体はアーダーム・カドモーン、原人間(アントロポス)である。原人間はアツィールートすなわち流出した世界の最高点に立つ。アーダーム・カドモーンはセフィーロートとパルツーフィームを含んでいる。すでに『ゾーハル』において、アーダーム・カドモーンは神、宇宙、トーラーの比喩となっていた。さらにそこには神殿とその犠牲祭儀の連想もあった。『ゾーハル』の後期の層は、この原人間の教説を、人類の現在のジレンマに対する応答と捉えていた。神的原人間を人間的モデルに投影することによって、神的存在との相互作用が可能になる。特定の儀礼を行うことで、宇宙の傷ついた身体の変容と修復が開始される。』

(カバラー/ピンカス・ギラー/講談社選書メチエP124から引用)

 

※パルツーフィーム:「顔」。そのおのおのが神の様相の一つを表すと同時に、修復作業におけるひとつの瞬間を表す。(カバラ 文庫クセジュ ロラン・ゲッチェル/著 白水社P154)

 

次の引用文では、無限がエンソフを指す。

『「無限」から注がれる新たな直線の光は、混沌に秩序を与えることができる。ゆえに「残滓」が散らばる神の隙間には光が降り注ぎ、そこにはさまざまな構造体が出現する。創造のために

用意された「清浄空間」には、まず「原初の人間」 (Adam Qadmonアダム・カドモーン)が現れる。これはエデンの園で最初に創造された人間そのものではなく、カバラーの創造論で語られる神の似姿、あるいは神と人間の中間的存在である。ゆえにそれは一方で神の不完全な模写であり、他方ですべての被造物の霊魂を包摂する人間の巨大な原像である。』

(総説カバラー 山本伸一/著 原書房P223から引用)

 

テクニカル・タームが多くて読みにくいかもしれないが、カバリスト達は、神的原人間を世界の創造以前に遡って存在していたと見た。冥想修行の結果それを確認する段階があるのである。

彼らはそれを神の発出の側から見ていったわけだ。

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