◎女性忌避の最終シーン
ソロモンの知恵は、ベン・シラのそれに比べて当時のユダヤ教徒向けの戒めの色彩が強く、現代人にそのまま使えるかという点ではベン・シラの方が下世話ではあるように思う。
『神を知らず、目に見うる善き物から、存在者を知ることが出来ず
その業に目を向けてその作者を認めない、すべての人間は生まれつき空しい。』
(聖書外典偽典2旧約外典 日本聖書学研究所/編 教文館 ソロモンの知恵 第13章P47から引用)
これなどは、明らかに相当に真摯な求道者向けの言葉であり、一般受けはしないが、大体はこの調子である。
ところが、そんなソロモンの知恵をかつて聞いたことがあるシバの女王が南からやってきて、現代においてイエスと共に、最後の審判を行う。
マタイによる福音書12章42節『南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果から、はるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。』
ソロモンにまさる者とはイエスのこと。南の女王とは、伝説のシバの女王のこと。
最後の審判に臨むのは、閻魔大王など通例男神一柱なのだが、ここで唐突にシバの女王も臨席するというのは、どういうことなのだろうか。
キリスト教は三位一体の教義を持ち、実質二位一体であることは、識者の指摘するとおり。父なる神と人の子のペアには、女性がいない。聖母マリアは、外伝的な扱いである。
ここに、最終シーンで女神であるシバの女王を登場させ、男女揃うことで完全な三位一体を実現させて、キリスト教も最終的に、死を忌避するバイアスを脱却するという道具立てなのではないだろうか。
それにしても、完全なる女性としてのシバの女王の登場は、新約聖書で一行だけだし、まるで『黄金のろば』でのイシスの登場があまりにも短文すぎるのと似ている。
中東から西洋は、このように『完全なる女性』を何千年忌避し続け、戒め続けないと、最後の審判までもって行けなかったということなのだろう。あるものはあるという態度が最後までとれなかった近代西欧文明。だが、まぎれもなく日本もその一翼である。