アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

人体に関する多次元モデル

2023-01-10 17:04:27 | 道教neo

◎七つの身体モデルへ

 

道教の内経図は、道教関連文書を漁れば、見たことがあるに違いない。wikipedia

 

内系図で、エーテル体相当は、水の部分で、アストラル体相当は、火の部分。

その伝でいけば、肉体は土(地)であるべきだが、土を牛を引いて耕している部分もあるものの、最下部には、坎水(川・海)が置いてある。坎水は個的ボディの表現ではあるまい。

 

最上部に泥丸(サハスラーラ・チャクラ)が置いてあって、これはボディでなくて、チャクラ。他に任脈、督脈も書き込まれていて、何でもてんこ盛りの図であって、そのまま想像をめぐらすと、とんでもない世界観になりそうな図である。

 

ただし、鍼灸関係の本では、必ず経絡図が置いてあって、ほとんど神経と重なるので、肉体レベルのことだと信じてそれから先へは想像が進まないことが多いのかもしれないが、経絡こそエーテル体の形状に近い。

 

エーテル体は気のレベル。冥想での様々な座法は、気のレベルでのエネルギー流出と発散をコントロールすることは、OSHOバグワンもちらりちらりと指摘する。

 

曰く、半眼では気の流出は止まる、閉眼・開眼は気が流出する。結跏趺坐、パドマ・アーサナは気の流出を防ぐポスチャー、云々。

 

これだけ各駅前にヨーガ・スタジオのある時代なのだから、肉体+エーテル+アストラル体の個的ボディ・モデルをエネルギー(心的、気、アストラル)の流路も含めて誰か描いて見せてほしいものだ。それには必ずニルヴァーナも描かないと。

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気の充実と狙い

2023-01-10 17:00:27 | 道教neo

◎年齢に応じた冥想の準備

 

道教の霊枢経本神篇第八では、「肝気が虚になると恐れ、実になると怒る。心気が虚になると悲しみ、実になると笑ってやまない」という。

 

※道教では五臓(肝臓、心臓、脾臓、肺臓、腎臓)にそれぞれ、怒、喜、思、憂、恐が配当される。

 

それぞれのシンボリックな臓器には気が充実している時と不足している時があるので、「肝気が虚になると恐れ、実になると怒る。心気が虚になると悲しみ、実になると笑ってやまない」と言われてみると思い当たることもある。

 

そこで、道教冥想修行者は、閉気でもって気を外に濫費しないことで気の充実を図り、充実させたその気を行気、導引などで肉体の健康を回復するようなこともでき、また体外への出神もする。

 

その結果の一例として彭祖の長命も実現したのだが、サンジェルマンやババジや崑崙山の仙人のように何か目的があって長命を狙うのは特殊なことであって、通例聖者たちには、寿命の短いことを嘆く人はいないので、気の充実の本来の目的は、長命ではなく羽化昇仙の方である。

 

それにしても中高年になると肉体の衰えは気の衰えに直結するので、柔軟体操やジョギング、ウォーキングなどだけでなく、閉気や呼吸法など気を充実させる技を平素から積極的にやらないとvividには生きられないと思う。そこは若い頃とは違うし、おのずとルーティーンは増えてしまう。

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99パーセントは、ロボット、もしくはブタ

2023-01-10 06:37:04 | 道教neo

◎本物のブタ

 

自分がブタ小屋から出たブタであることは知らぬが花。だがブタであることに気づいたら本物のブタになるしかない。

 

ダンテス・ダイジの未刊行の老子狂言の最後から2番目の詩を引用。

 

『格言5

 

知らぬが花なのよ、

少なくともブタ達にとっては。

言い古された言葉だが、

民主主義も共産主義も、

衆愚政治に他ならない。

不幸は、

ブタをブタ小屋から出したところから始まる。

現在の人間進化のステップでは、

99パーセントは、ロボット、もしくはブタである。

現文明の崩壊は、とっくの昔に始まっている。

そして、それは逃げるすべのない宇宙的テストでは、あるのだが・・・

 

ところで、ブタが本当にブタであり、

ロボットが本当にロボットなら、

それはそれで素敵だ。

賢者といい聖者といい超人というも、

結局、本物のブタでありロボットであることに違いはない。

老子よ、あなたは何という俗物なのか!

他のありとあらゆる者と同じように。

 

産まれて生きて死ぬというのに、

君は

この上、何を問題だというのかね?』

 

自由な石屋さんものを読むと、現代の大衆は、洗脳された奴隷だったり、マインド・コントロールされた子羊であるというように描かれている。

 

誤解を恐れずに言えば、洗脳される側と洗脳する側とに大した違いはない。

 

どうして自分はブタ小屋から出てしまったのだろうか。どうしてアダムとイブは楽園から追放されてしまったのか。

 

この時代は、人を効率的にブタにするシステムが発達、完備していて、ブタ王なるマスコミが四六時中提供するニュースに、民主主義的なあるいは共産主義的な教育カリキュラム、個人の人権を先験的に認める神なき私権擁護の法体系、そして人間とは肉体人間であるという大前提を疑わない現代科学と、あらゆるブタをブタ小屋の外の柵から逃さない工夫がこらされている。

 

最近は、世界中ほとんどの人がスマホを持って移動するようになり、スマホこそは窮極のブタ管理マシーンである。スマホを持つ限り、ブタはブタの悲劇から逃れられない。

 

そうした時代も長くは続くまいが・・・。

 

最近の洗脳手法はすごい。人を覚めた意識のままでトランスに入らせることなく、言うことを聞かせてしまう。これがアメリカ流の実験心理学の成果というものなのだろう。

 

意識の側の洗脳と無意識の側の洗脳を効果的に組み合わせれば、人は見知らぬ第三者に金も渡すし、人も殺してしまう。それがオレオレ詐欺であり、オウムの洗脳でもある。

意識の側の洗脳と無意識の側の洗脳のサンドイッチとは、かくの如く恐ろしいものだ。

 

こうして人はロボットとして生き、ブタとして生きる。意識の側の洗脳とは、偽情報や情報の一部や都合の良い情報しか出さないこと、情報操作。

無意識の操作とは、最初直接本人には関係のない情報として与えるが、恐怖・驚愕・意表をつくなど情動を揺り動かして、本人が判断する時に大きな要素として働く暗示。

 

さて99パーセントの先には一厘の仕組だが、それは1%の側の話なのか、99%の側の話なのか。

 

 

この詩は、ネットで出回っている老子狂言では、最後の詩だが、原作ではこの後ろにもう一つ詩がついている。

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十牛図-11

2023-01-10 03:37:25 | 十牛図

◎第九返本還源

 

【大意】

『序

 

始めから清らかで、塵ひとつ受けない。有相(あの世この世)の栄枯盛衰を観じつつ、無為という靜寂(ニルヴァーナ)にいる。

(有相とは不壊だから)空虚な幻とは異なる。だからどうしてとりつくろう必要があろうか。

川の水は緑をたたえ、山は青く、居ながらにして、万物の発生と衰滅を観じる。

 

根源に立ち返ってみると、(これまで)努力の限りを尽くしてきたものだと思う。ただ単に盲聾のように、何も見ず、何も聞かずにいるのと同じではない。

庵の中にいると庵の外の物は見えない。

川の流れは自ずから果てしもなく、花は自ずから紅く咲く。』

 

※庵の中にいると庵の外の物は見えない。:世界と自分は一体なのだから庵の中も庵の外も同じ、庵の中も庵の外も見えない。逆に、見えると言うならば、庵の中も庵の外も見える。見ずして見る。

※川の流れは自ずから果てしもなく、花は自ずから紅く咲く。:無為無相のニルヴァーナに居れば上々の機であって、自然に無事であり、水は自ら茫茫 花は自ら紅である。

 

第九返本還源に至って、これまでの悟りのプロセスを回顧している。悟り後のポジションに至って初めてわかる事はある。代表的なのは、生の側を極めれば、死の側も極めたことになるということ。換言すれば、禅でニルヴァーナに至れば(大悟、心身脱落)、クンダリーニ・ヨーガを極めたのと同様に、第一身体から第六身体の各ボディのことがわかるということ。OSHOバグワンは、第七身体ニルヴァーナまで行かないと第六身体以下のことがわからないとも言っている。

 

個人と宇宙全体の逆転、倒立、サプライズについては、庵の中と庵の前がみえるとか見えないかという文で比喩しているが、わかりにくい。それを明文で書かないというのは、それを実体験した際の感動のエネルギーをネタバレで小さくしてしまわないという配慮なのだろうか。確かに大悟した際に、『教えてくれなくてありがとう』と言って感謝した禅僧もいるが・・・。

 

さて密教者は、霊能力、超能力を人間の幸福のために使用する。だから例えば加持で川の水を別の場所に流そうとしたり、山をスピリチュアル・パワーで開墾しようとしたりする。それを死の世界を操作すると言い、極めれば死の世界をクリアするなどと言ったりする。

 

一方禅で極めれば、水は自ら茫茫、花は自ら紅のままでよしとする。自然をスピリチュアル・パワーで改変しようなどとは思わない。これが生の側から極めるということ。

 

また、本来、クンダリーニ・ヨーガのステップならば、第八人牛倶忘の前に第六身体である牛と人とが合体するシーンを置くべきだが、十牛図ではそうせず、第八人牛倶忘の次に第六身体である牛と人とが合体したという説明の第九返本還源を置いている。これが禅の特徴なのだろうと思う。

 

さらにインド的な伝統からすれば、人間にとっては、一円相(仏、神、ニルヴァーナ)の第八人牛倶忘で冥想の旅は完了する。

事実、ニルヴァーナにたどりつけば、その人には全く問題はないのだから、そこから帰還せず、そのまま肉体はあの世行きとなる人の方が多いと言われるのも当然である。

 

ところが、既に解脱(ニルヴァーナに到達)している人が、この世の人間ドラマの味わいが好きだという嗜好により、陋巷(ろうこう)にもどり、生ける光明として生きる生き方がある。これは、中国と日本の覚者の伝統として、最後まで人間が好きだという姿勢のあらわれである。この伝統が第九返本還源の動機である。

 

禅で正念相続という言葉があるが、これは解脱というあらゆる人間的立場を超えた神秘体験を継続しつづけ、その神秘体験を日常生活そのものにしてしまうことを言う。そのことが『平常心是道』であり、『日々是好日』であって、解脱、神人合一の「体験と呼べぬ体験(人間の側の体験でなく、神・仏の側の体験)」がないフツーの人の気楽な生活が、『平常心是道』や、『日々是好日』ではない。

 

【訓読】

『第九 返本還源

序の九

 

本来清浄にして一塵を受けず、

有相の栄枯を観じて無為の凝寂に処す。

幻化に同じからざれば豈に修治を仮らんや、

水は緑に山は青くして坐(いながら)らに成敗を観る。

 

 

本に返り源に還って巳(すで)に功を費す、

争(いか)でか如(し)かん直下に盲聾の若くならんには。

庵中には庵前の物を見ず、

水は自ら茫茫 花は自ら紅なり。』

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