◎第九返本還源
【大意】
『序
始めから清らかで、塵ひとつ受けない。有相(あの世この世)の栄枯盛衰を観じつつ、無為という靜寂(ニルヴァーナ)にいる。
(有相とは不壊だから)空虚な幻とは異なる。だからどうしてとりつくろう必要があろうか。
川の水は緑をたたえ、山は青く、居ながらにして、万物の発生と衰滅を観じる。
頌
根源に立ち返ってみると、(これまで)努力の限りを尽くしてきたものだと思う。ただ単に盲聾のように、何も見ず、何も聞かずにいるのと同じではない。
庵の中にいると庵の外の物は見えない。
川の流れは自ずから果てしもなく、花は自ずから紅く咲く。』
※庵の中にいると庵の外の物は見えない。:世界と自分は一体なのだから庵の中も庵の外も同じ、庵の中も庵の外も見えない。逆に、見えると言うならば、庵の中も庵の外も見える。見ずして見る。
※川の流れは自ずから果てしもなく、花は自ずから紅く咲く。:無為無相のニルヴァーナに居れば上々の機であって、自然に無事であり、水は自ら茫茫 花は自ら紅である。
第九返本還源に至って、これまでの悟りのプロセスを回顧している。悟り後のポジションに至って初めてわかる事はある。代表的なのは、生の側を極めれば、死の側も極めたことになるということ。換言すれば、禅でニルヴァーナに至れば(大悟、心身脱落)、クンダリーニ・ヨーガを極めたのと同様に、第一身体から第六身体の各ボディのことがわかるということ。OSHOバグワンは、第七身体ニルヴァーナまで行かないと第六身体以下のことがわからないとも言っている。
個人と宇宙全体の逆転、倒立、サプライズについては、庵の中と庵の前がみえるとか見えないかという文で比喩しているが、わかりにくい。それを明文で書かないというのは、それを実体験した際の感動のエネルギーをネタバレで小さくしてしまわないという配慮なのだろうか。確かに大悟した際に、『教えてくれなくてありがとう』と言って感謝した禅僧もいるが・・・。
さて密教者は、霊能力、超能力を人間の幸福のために使用する。だから例えば加持で川の水を別の場所に流そうとしたり、山をスピリチュアル・パワーで開墾しようとしたりする。それを死の世界を操作すると言い、極めれば死の世界をクリアするなどと言ったりする。
一方禅で極めれば、水は自ら茫茫、花は自ら紅のままでよしとする。自然をスピリチュアル・パワーで改変しようなどとは思わない。これが生の側から極めるということ。
また、本来、クンダリーニ・ヨーガのステップならば、第八人牛倶忘の前に第六身体である牛と人とが合体するシーンを置くべきだが、十牛図ではそうせず、第八人牛倶忘の次に第六身体である牛と人とが合体したという説明の第九返本還源を置いている。これが禅の特徴なのだろうと思う。
さらにインド的な伝統からすれば、人間にとっては、一円相(仏、神、ニルヴァーナ)の第八人牛倶忘で冥想の旅は完了する。
事実、ニルヴァーナにたどりつけば、その人には全く問題はないのだから、そこから帰還せず、そのまま肉体はあの世行きとなる人の方が多いと言われるのも当然である。
ところが、既に解脱(ニルヴァーナに到達)している人が、この世の人間ドラマの味わいが好きだという嗜好により、陋巷(ろうこう)にもどり、生ける光明として生きる生き方がある。これは、中国と日本の覚者の伝統として、最後まで人間が好きだという姿勢のあらわれである。この伝統が第九返本還源の動機である。
禅で正念相続という言葉があるが、これは解脱というあらゆる人間的立場を超えた神秘体験を継続しつづけ、その神秘体験を日常生活そのものにしてしまうことを言う。そのことが『平常心是道』であり、『日々是好日』であって、解脱、神人合一の「体験と呼べぬ体験(人間の側の体験でなく、神・仏の側の体験)」がないフツーの人の気楽な生活が、『平常心是道』や、『日々是好日』ではない。
【訓読】
『第九 返本還源
序の九
本来清浄にして一塵を受けず、
有相の栄枯を観じて無為の凝寂に処す。
幻化に同じからざれば豈に修治を仮らんや、
水は緑に山は青くして坐(いながら)らに成敗を観る。
頌
本に返り源に還って巳(すで)に功を費す、
争(いか)でか如(し)かん直下に盲聾の若くならんには。
庵中には庵前の物を見ず、
水は自ら茫茫 花は自ら紅なり。』