◎自我が死んで甦る
出口王仁三郎から。
『立替と立直しは一緒や。立替せねば、立直しはできぬ。
(昭和二十一年六月十五日)』
(新月の光 下巻/木庭次守/八幡書店P367から引用)
これは、まず自分が死ななければ、自分が覚醒することはないということ。新時代は、覚醒した人、悟りを開いた人だけの時代となるからには、多くの人が自我が死んで甦るという体験とは言えない体験を経ないと実現しない。
とかく、至福千年とかみろくの世の実現に向けた立替と立直しと言えば、とかく、自分は今のままで、自分が死んで更生するという精神の絶対的極限状況のないままで悟りを開かないまま、生活の外的インフラや環境が大破壊され、その後何年もかかって復旧することばかりイメージする場合が多いものだ。
だから大難を小難にすることを祈るなどということが言われる。
自分個人の立替立直しとは、自分が死に、自分が世界全体に飲み込まれ、世界全体が自分になるという夢にも思わぬ逆転状況のことだから、これを大難と言うか小難というかは、あまり意味のないことのようにも思われる。これは人間の側の都合をあまり考えてくれず、人情の薄い見方かもしれないが、神様のなされようは往々にしてそういうことがある。
出口王仁三郎の時代は、この覚醒を『改心』と呼んでいたが、その意味は悪人が善人に変わるくらいの意味にしか思われなかったのだろう。だが、この切羽詰まった時代には、旧時代から新時代をどう移行させるかは、既に神様の方で決めているのだろうが、その大変動を自分が生き残るかどうかは、自分が世界全体であれば、自分にとって大きな問題ではなく、神様の思し召しにおまかせするということになるのではないかと思う。
よって日々の冥想が大切になる。