アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

天国と地獄の卒業-1

2023-01-19 07:13:19 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎幸福と至福の違い

 

天国と地獄の結婚あるいは両性具有に進むには、天国と地獄を卒業せねばならない。それができて初めて至福(光明、ニルヴァーナ)に向かう。

 

そこがわからないと、真正の悟りはわからない。

またそこが最終関門の前段になるクリティカル・ポイントであることは、しばしば見落とされる。

 

OSHOバグワンは、それについて言及している。

世の中では、神々の崇拝が広く行われる。イエス、マハーヴィーラ、クリシュナなどの神々(顕現したブラフマン)の崇拝が深まれば、楽しく心地よく感じる。

※未顕現のブラフマン:言葉では表現できないニルヴァーナのこと。

 

『このウパニシャッドの経文は、顕現したブラフマン―――そこには顕現していないブラフマンの輝きのようなものも見られる―――を崇拝すると、つまり近くに座ると、それなりの成果を手にすると言う。それは、楽しいし心地良いものだろう。あるいは、神々しいものと言ったほうがいいだろう。

 

とても幸せに感じるだろうが、光明を得ることはない。それゆえ、その成果については三つの言葉が使われる。一つは地獄、もう一つは天国、三番目は光明だ。人は、神々の近くに座る、つまり神々を崇拝することで天国にまで行ける。人は天の喜びや幸福を味わえるが、光明へと昇ってはいけない。至福へと昇ってはいけない。

 

幸福と至福の違いは何だろうか。幸福はどれほど深く大きいものであっても、確実に消えていく。どんなに長く続いても、確実に終わりが来る。この違いを完全に理解しておくように。

 

光明、至福には始まりがある。だが、終わりはない。天国、幸福には始まりも、終わりもある。地獄には、始まりはなく終わりだけがある。完璧に理解できるよう、もう一度繰り返させてほしい。地獄には始まりがない、惨めさには始まりがない。幸福は始まりうる、今はないにしても。

 

地獄には、始まりはない。が、それは終わる。

天国には、始まりも終わりもある。それは始まり、そして終わる。

光明には、始まりしかなく終わりがない。ひとたび始まれば、終わりは来ない。』

(イーシャ・ウパニシャッド/OSHO/市民出版社P299から引用)

 

これは、天国と地獄の実相とそれを超えたニルヴァーナ(至福、光明)を知り得た者だけが語り得る宗派を超えた真相。聖者、覚者はこれを日常感覚として知っているが、我々は、『この違いを完全に理解』するところから始めねばならない。

 

人生を卒業するとは、『この違いを完全に理解』することであって、あらゆる実感を体験することでもあると言うが、悟り(光明、至福、未顕現のブラフマン)とは、天国と地獄という見慣れた地平線にあるのではなく、その先にあるのだということ。

 

そしてそれは、日常感覚ではまず思いもよらないものであり、なじみが薄いものだが、そう承知しておかなければならないのだろう。

 

OSHOバグワンは、ウパニシャッドでは、至福と幸福の両方を拒まないとしているが、禅では至福しか相手にしない。またウパニシャッド(クンダリーニ・ヨーガ系)でも禅でも、至福・光明を望む者は、神々の崇拝に溺れない。

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