◎第五牧牛
【大意】
『序(慈遠禅師)
ある思いが起こるやいなや、後から他の思いがついてくる。
悟りにいれば真となり、迷いにいるから迷妄となる。心の外の対象のせいでそうなるのではなくて、わが心から生じているのに過ぎない。牛の鼻の綱を強く引いて、もたついていてはならない。
頌
鞭と手綱を片時も手放さないのは、牛が勝手に歩いて、塵埃の中に引き込まれるおそれがあるからだ。
よく飼い馴らせば、おとなしくなり、手綱で拘束しなくても、自分の方から人についてくる。』
この段階では、窮極をチラリと見ただけなので、全体なるものへの倒立、逆転はしていない。つまり、悟りと迷いの違いはわかるが、ふらふらとどちらにでもよろめく可能性のある不安定さを生きている。
鞭は覚醒の側へ戻す道具のこと。手綱は生活全体の悟り側へのコントロールのこと。覚者には悟りを維持する精妙な生活上のルールがある。例えばカルロス・カスタネダのドン・ファン・シリーズに出てくるドン・ファン・マトゥスは、ペヨーテ・サボテン(メスカリンの原料)をきっかけとしたソーマ・ヨーガ(薬物冥想)での覚者であるが、彼は酒もタバコも飲まないなどの、目に見えない精密な規律を守っている。
一方見性・見仏・見神を経ただけの修行者にも、規律、戒律、ルールが与えられているものだ。例えばハタ・ヨーガ行者にあっては、菜食を行い守るということが、ヨーガ冥想における重要なファクターとなっている。只管打坐修行者にあっては、清規と呼ばれる精密な規則にそって、一挙手一投足を行うことが基本である。
このようにすでに窮極を見ただけの者達には、窮極と自分が逆転する必要性からくるところの冥想上の注意や工夫、日常生活の細密な規律によるコントロールが必要なのだ。これが鞭と手綱。
万一牛が暴れ出したら、修行者の手に負えなくなる危険性がある。無意識の暴走とは、狂気や死であって、恐ろしいものである。時に異次元空間に立往生した人の描写を読むことがあるかもしれないが、そのような人もそれなのだろうと思う。まことに正師が必要なのだ。
【訓読】
『第五牧牛
序の五
前思纔(わず)かに起これば、後念相随(したが)う。
覚りに由るが故以(ゆえ)に真と成り、迷いに在るが故に妄と為る。
境に由って有なるにあらず、唯だ心より生ず、
鼻索牢(つよ)く牽(ひ)いて、擬議を容れざれ。
頌
鞭索 時時身を離れず、
恐らくは伊(かれ)が歩を縦(ほしいまま)にして埃塵に惹かれんことを。
相い将(ひき)いて牧得すれば純和せり、
羈鎖(きさ)拘することなきも自ら人を送う。』