アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

十牛図-4

2023-01-01 18:41:43 | 十牛図

◎第二見跡

 

【大意】

『序

 

経典をたよりに、筋道を了解し、教えを学んで牛の足跡がわかった。様々の器物が、もとは同じ金属であることをはっきりさせ、万物が自分と同じであることを知的理解する。

足跡の正邪を判断できぬのに、どうして本物か偽物かを見分けることができよう。まだ門に入ってはいないので、仮に足跡を見つけたところとする。

 

頌(廓庵禅師)

川のほとり、林の木陰にやたらと足跡がついている。芳草が群がり茂っているのをあなたは見たか。

たとえ深山のそのまた奥でも、天に向いているその牛の鼻をどうして隠せようか。』

 

これは、いろいろな書物で知的理解を深めたり、いろいろな人に会ったり、師匠の指導よろしきを得て、本物の香りや息吹に少々鼻が利くようになったレベル。

 

ここは、見性、見仏以前のレベルであるので、大方の冥想修行者が、このレベルに位置している。

魔境は、ある程度の冥想の深まりがなければ、起きないが、魔境もここである。

一生懸命冥想しても決定的なものが起きない人や、単なる冥想ヲタクまでがこの『見跡』レベル。霊能力の発現、超能力の発現は冥想レベルの深まりとは何のかかわりもない。

 

またやすらかさや喜びというようなあらゆる肯定的感情の深まりを体験することがあるが、それも決定的なものに出会ってなければ、このレベルである。

 

【訓読】

『見跡(足跡を見る) 序の二

 

経に依って義を解し、教えを閲(けみ)して蹤(あと)を知る

衆器の一金たることを明らめ、万物を体して自己となす

正邪弁ぜざれば、真偽なんぞ分かたん

未だ斯の門に入らざれば、権(かり)に見跡と為す

 

 

水辺林下 跡偏えに多し

芳草離披たり 見たるや

縦是(たとい)深山の更に深き処なるも

遼天の鼻孔 怎(なん)ぞ他を蔵(かく)さん』

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十牛図-3

2023-01-01 15:11:27 | 十牛図

◎第一 尋牛

 

【大意】

『序(慈遠禅師)

はじめから見失ってはいないのにどうして探し求める必要があろう。もともと覚めているその目を反らせるから、そこに隔てが生じるので、塵埃に立ち向かっている内に牛を見失ってしまう。

故郷はますます遠ざかって、別れ道でにわかに間違える、得失の分別が火のように燃え上がり、よしあしの思いが、鋒(つるぎ)の穂先のように鋭く起こる。

 

頌(廓庵禅師=十牛図の作者)

あてもなく草を分けて探してゆくと、川は広く、

山は遥かで、行く手はまだまだ遠い。

すっかり疲れ果てて、牛の手がかりもつかめず、楓の枝で鳴く、遅れ蝉の声がするばかり。』

 

序と頌がついているが、十牛図の説明の本体は頌の方。

廓庵のコメントのほうが、直接牛の説明をしているのに対し、慈遠のコメントは、禅の専門道場での修行者向けに書かれているためか、牛それ自体の説明はなく、修行者の心得のような部分があり、かえってわかりにくくしているところがある。

だからどちらかというと廓庵の頌を見てもらったほうがよいように思う。

 

一人で地図もない見知らぬ山に入っていく。その山のことは、釈迦の本にもイエス・キリストの本にも出ていない山だ。本来の自分の山だからである。

探索に疲れ果てて、やめようかと思った時に、耳に入る蝉の声が、その先の道を示すインスピレーションになる。

 

禅は、クンダリーニ・ヨーガのような段階型の冥想ではない。禅は、公案をやる看話禅と黙照枯坐の黙照禅に分類されるなどと言うが、禅問答の大半は、悟ったか悟らないかだけなので、その分類に意味があるとも思えない。公案で行き詰って大悟する場合もあろうし、黙照枯坐なる只管打坐で身心脱落することもあるだろう。要は、悟ったか悟らないかだけ。

つまり2段階だけなのである。

 

翻って十牛図のように十段階も立てるのは、「本来二段階だが」という注意書き付きで、そうしているということである。

 

【訓読】

『尋牛

 

序の一

従来失せず、何ぞ追尋を用いん、

背覚に由って以って疎と成り、向塵に在って遂に失す。

家山漸(ますま)す遠く、岐路俄かに差(たご)う、

得失熾然として、是非蜂起す。

 

忙忙として草を撥い去いて追尋す、

水闊(ひろ)く山遥かにして路更に深し。

力尽き神疲れて覓(もと)むるに処なし、

但だ聞く楓樹に晩蝉の吟ずるを。』

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十牛図-2

2023-01-01 08:13:46 | 十牛図

2.覚者の生きる世界

そこで認識を再確認しておかなければならないのは、窮極(仏、神、宇宙意識、なにもかもなし)と一体化した体験を持たない方が、『人は皆そのまま仏(神)である』と言う場合は、そのことを実証する体験を持たないので、嘘になる。他方窮極と一体化した体験のある方、すなわち覚者が、『人は皆そのまま仏(神)である』と言う場合は、絶対の真実であるという点である。

それはなぜかというと、悟ってないこちら側から見れば、その違いは、『仏と合一する体験の有無』の違いがあると見えるが、一方覚者の側から見れば、覚者と普通の人は、違いなどなく全く同じ世界を生きているからである。

十牛図は一つながりだけれど、生きている世界ということで言えば、八番目の『人牛倶忘』からは、覚者側の世界に変わると考えられる。仏と自分が一体になった世界に変わるのである。
兎角心理学者は、これを変性意識とか、心理現象として見たがるが、心理ではなく、本当に別の世界に生きている。
最初は発心に始まり、第三段階で見仏し、第八段階で悟りを開き、運よく生還すれば第九段階以降は生き仏として生きる。なお禅の発想からすれば、悟りに中間段階はなく本来第八段階の一円相だけが評価される。

なお、覚者は別の世界を生きていますという歌には、次のようなものがある。この歌では、自分は仏であり、個人という自分はなく、悪事はできないと言っている。普通の人は、自分は仏だなどとは思わないし、個人だし、悪事も時々する。

①身の業の つきはてぬれば 何もなし
かりにほとけといふばかりなり
(我が身のカルマが尽きてしまえば何もない。カルマのなくなった我が身をかりそめに仏というだけのことである。)

②本来のものとなりたるしるしには
をかす事なきみのとがとしれ
(本来の者となった証拠は、身の咎(悪行)を犯す事がなくなるものと知りなさい。)

③死して後を仏と人やおもふらん
いきながらなき身をしらずして
(死んだ後に仏となると人は思うらしい。生きながら、すでに実は自分は無いことを知らないで)
    以上三首とも至道無難(江戸時代初期の坊さん)

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十牛図-1

2023-01-01 08:12:17 | 十牛図

1.十牛図の考え方
十牛図解説本を読むと、とにかく禅の坊さんが書くものだから、いきなり、牛は『本来の自己』とか『本来の面目』のことなどと書かれるので、何のことやら、早速さっぱりわからなくなるものだ。本を買ってきた手前、一応最後まで読むのだけれど、なんとなくわからないで終わるのが多いのではあるまいか。

十牛図は、人と牛の出会いの物語である。人は自分であり、牛は仏(神、宇宙意識、なにもかもなし)である。
作者は、12世紀後半の中国北宋の廓庵禅師で、禅の基礎的な手引として使われてきたが、心理学者のユングやOSHOバグワンも注目しているもの。

今の日本では、きちんと見性(窮極なるものをちらっと見ること)したと思われる坊さんでも、十牛図の三番目の『見牛』段階の方がせいぜいと思われるので、なかなか八番目の『人牛倶忘』すなわち窮極と一体化した体験を持つ人に出会うことは難しいと思う。よくインドからグル(師匠)が来日するが、三番目の『見牛』レベルの人が結構いるように聞く。もっとも『見牛』レベルでもなかなか行けるものではなく、十分に冥想の先生が務まるレベルだが。

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言霊をちょくちょく使うことはできないこと

2023-01-01 03:38:34 | 冥想いろいろ

◎言霊を一遍使ったならば二度とは使えない

言霊は一回きり。必要に応じて適宜発動するなどはあり得ない。
以下は出口王仁三郎の説明。

『若し今直ちに○○が戦争をしたならば、○○は滅茶々々にされて了ふ事は分かり切つて居る。今でさへも此の通り、まして二、三年先になつたならば、到底勝つ事は望めない。物質的に勝つと云ふ事は出来ないのであります。

今の中ならば何とかなるだらうと云つても無謀な軍は出来ませぬ。若しさうやつて旨く行けば宜いけれ共、若し○○が独逸のやうに敗けたならば、再び起つ事は出来ぬ。独逸以上の惨害を蒙るのである。故に戦ひも考物である。

是は何うしても人事を尽す上に於て某国との戦争を免れ或は軽くして○○が勝つと云ふやうに、大難を小難にまつり代へて貰ふと云ふ事を考へなければならぬ。さうして手を尽していけない時には、所謂言向和はすと云ふ天照大御神の御神勅に依つて、言霊の妙用を発揮するより外はありませぬ。

武士の言葉に二言なしといふ如く、若し言霊を一遍使つたならば、二度とは使ヘない。私も雨や風を必要に応じて降らせたり止めさせたり、又役員信者も之を行つて、実際に経験して居りますが、本当の事は一言一遍言つたならば、再び言ふことは出来ませぬ。無茶苦茶な事は出来ない。鶴の一声とか、武士の言葉に二言無しといふ事があるのに、まして神様の御道に二言のあるべき筈がない。唯一回である。

それであるから非常に難しい。大なる修養を要するのであります。鼬が最後屁をしたやうなものである。最後屁を放つた鼬はモハヤ生命はなくなる。又蜂が人を刺すに一遍刺したならば其蜂の命が無くなる。

それと同じ事で言霊といふものは、其の運用が軽々しく出来るものでない。魂を磨きに磨いて愈々と云ふ時に使ふ。国家の危急存亡の場合、又背に腹は代ヘられぬといふ時に使ふのであります。

 亀山上皇が元冦来襲の時に、身を以て国難を救はうと神祗に誓はれた。是も上皇の言霊の力であります。斯の如く大なる力を有つて居るのが言霊である。その代り之を屡々運用する事は出来ぬのである。』
(出口王仁三郎全集第2巻第18章弥勒の世から引用)

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