アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

女性チベット密教修行者ナンサ・ウーブムの復活

2023-01-13 11:23:35 | 密教neo

◎グルなしでポア

 

ナンサ・ウーブムは、一児を生んだ主婦であったが、気立てと器量、品行の良さを見込まれて族長の息子の嫁になった。しかし、チベット密教僧の托鉢に応じたことを理由に義妹に殴打され、夫の暴力で肋骨を3本折った。さらに義父にも暴力を振るわれ、ついに亡くなった。

 

族長は彼女の葬儀を挙げようとして占星術師にお伺いを立てたところ、彼女はまだ亡くなっていないということなので、この僧の指図に従い、丘の上に置いた彼女の身体を布と毛布で包み、七日七晩にわたって火を焚き、お茶を沸かして、遺体が犬や鳥や野獣に食われないようにした。

 

さて閻魔大王が彼女のカルマの小石を見ると2個だけが黒石で残りすべてが白石だったので、閻魔大王が「彼女はまだ肉身を持ちながらこの世で仏法修行すべきだ」ということで、彼女を肉体に戻した。

 

出家しようとした彼女は避難先の僧院ごと族長の軍団に襲撃されるのだが、奇瑞を示してこれを説得した。

 

彼女は、その後出家し、本格的なチベット密教修行に取り組み仏法を成就することになる。

(出典:智慧の女たち チベット女性覚者の評伝 ツルティム・アリオーネ著 春秋社)

 

それにしても、チベットは僧院を丸ごと領主が略奪、殺戮しようと思うほどに、「荒くれ」な世界なのですね。チベットのように物の乏しい社会で暴君が出現すると、あっというまに社会全体が貧困に落ち荒廃する。

だからこそ、成就者、覚醒者が、空中に浮いて超能力を見せなければ、当時の人は信服しなかったのでしょう。

 

それを乗り越えて何世紀ものチベット仏教王国があったわけですね。

 

標高4千メートルか何かの丘の上で仮死状態7日はいかにも長すぎで、特に脳の機能損傷がなかったのは奇跡であるとも言える。

 

これは、グルなしでポアしたのだが、臨死体験の中で彼女が悟りを得たという位置づけではなく、あくまで復活後の仏道修行で成道したもの。

 

また彼女は最初の死のところで、すでに世俗生活のカルマが尽きた。そこで厭世したという点も見逃せない。死からの復活はチベット密教の定番ではある。

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フィリポによる福音書の復活

2023-01-13 11:20:24 | 密教neo

◎永遠のアイオーンへと昇る

 

以下は、グノーシスの文書であるが、濃厚にエジプトの密教的思想を受け継いでおり、悟りを自我の死と復活として、いわば自明のものとして位置付けており、生前での冥想修行による死からの甦りを推奨している。

 

『断章72 フィリポによる福音書 §63a(第二巻81頁)

 

われわれがこの世の中にいる限り、われわれにとって益となるのは、われわれ自らに復活を生み出すことである。それはわれわれが肉を脱ぎ去るときに、安息の中に見出されることとなり、中間(=死)の中をさまようことにならないためである。

 

 

断章73 フィリポによる福音書 §90a(第二巻94頁)

「人はまず死に、それから甦るであろう」と言う者たちは間違っている。もし、初めに、生きている間に復活を受けなければ、死んだときに何も受けないだろう。

 

断章74 復活に関する数え§14-16(第三巻301-302頁)

それだから、わが子レギノスよ、復活に関して決して疑うことがないように、もしあなたがかつて肉を備えて先在していたのではないとすれば、あなたはこの世界に到来したときに肉を受け取ったのである。

 

とすれば、どうしてあなたはあの永遠のアイオーンへと昇ってゆくときにも、肉を受け取らないであろうか。肉よりも優れたものが、肉にとっての生命の原因となっているのである。

 

あなたのために生じたものはあなたのものではないのか。あなたのものであるものは、現にあなたとともに在るのではないのか。

 

(以下略)』

(グノーシスの神話/大貫隆/岩波書店P162から引用)

 

アイオーンとは万物を指すとすれば、アイオーンに昇っていくとは、アートマンとの合一を指し、密教において典型的な「体験とはいえない体験」のことを指し、

正統的教説であると思う。

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最澄の籠山

2023-01-13 11:18:03 | 密教neo

◎十二年籠山行の起こり

 

延暦4年4月、最澄は、国家の俊秀として近江の国分寺から奈良の都に行き、東大寺で具足戒を受けた。ところが、彼はこのエリート・コースを自ら打ち捨て、孤独な比叡山での山の修行に入る。

 

延暦4年7月中旬、最澄は山に入った。今の比叡山延暦寺根本中堂付近とされる、蝉の声と梵音の争う松の下の巌の上に草庵を結んだ。これは小さい竹で編んだ円房であって、藁を寝具として、求めずして与えられたものを食し、修行を続けた、

 

今でも比叡山には、蚊はいるは、猪、猿、狐、狸も歩き回るはで、大変なところ。その一方で、冬はほとんど雪に埋もれる。寒い暑いを厭わず、飢えを恐れず、約束されたエリート僧としての将来を捨て、餓死、犬死をも厭わず、最澄は山中修行に入った。

 

山では、冥想の他に、法華経、金光明経、般若経などを読誦していたという。師匠はいないようだったが、トランスのコントロールはどうしたのだろうか。

 

こうした修行の末、どの程度まで行ったかどうかはわからない。

それでも12年間籠山し、これが後の12年籠山行の起こりとなる。

 

最澄は、延暦十年、俗の六位にあたる修行入位に進み、延暦13年桓武天皇が最澄を比叡山に訪問。延暦16年最澄は内供奉(宮中で天皇の安穏を祈ることを職務)に列せられたとあるが、これは俗界のことで、本人の境涯のことではない。

 

最澄は世俗的にはビッグになったが、その実老境に至るまで謙虚さを失わなかったのだろう。

 

だから在世中の境涯は、空海に及ばなかったかもしれないが、比叡山延暦寺は、日本仏教界の柱石である、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮、一遍らを次々に輩出することになった。

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空海の十住心論-2

2023-01-13 10:33:30 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎空海の十住心論-2

 

空海の十住心論の続き。

 

第六住心から第九住心までは、十界説で言えば、ほとんど菩薩のレベルだと思う。菩薩のレベルというのは、最低でも見性しているレベルである。ところが、空海は、第八住心までは迷い(無明)であるとする。

つまり見性しているからとりあえず良しとするわけではなく、まずは第十住心の秘密荘厳住心でないと、問題があると指摘している。

 

第十住心の秘密荘厳住心がニルヴァーナであるのは問題ないと思う。一方第九住心の極無自性住心が、唯一の世界(法界)であるとして、華厳経の毘盧舎那佛のことであるとしているから、アートマンのことと見れる。よってこの十住心論の10ステップのトップ2も、やはりニルヴァーナとアートマンを置いていると思う。

 

 

第六住心

他縁大乗住心

心の海は静まり、波立っていないが、迷いの風が吹くために、波風は立つ。天国も地獄も自分の心が作り出したのだということを知らないレベル。

 

悪を行わず、あらゆる種類の善を長年にわたり行い、菩薩の52段階の修行を積み重ねても、本来の悟りは、自分の心の中にあることを知らない人のことである。心とそれが認識する対象物が別の物だと思っているが、菩薩としての修行がかなりできている人のレベルである。

 

第七住心

覚心不生住心

概念的な認識(五辺)は、本質的なものでない。原因により生起した心は、それ自体の性質(本性)を持たず、空であり、仮の存在であり、中道であり、アプリオリに存在している。

しかし本来の悟りは、遥かな過去から存在しており、自然や、清浄という表現も不適当で、言葉の表現を離れている。

 

ここで心の本性が不変で、自由自在であることを知り、無益な議論をすることはなくなったが、まだ本来の悟りの入口に初めて立っただけだ。

 

第八住心

一通無為住心

空性は、感覚と対象を離れて、形もなく境界もない。こうした認識主体である心と認識される対象との対立をなくしたところに常寂光土(浄土)がある。しかしその対立をなくし、常寂光土へ至る手だてはない。依然として無明のままである。

 

第六住心の課題は、認識主体である心と認識される対象との対立があることだったが、ここでは、その課題を克服する認識はできたが、実践方法が見つからないレベル。

 

第九住心

極無自性住心

ここまで積み上げてきた認識や哲学を総合すると、現象(迷い)と実在(さとり)は、唯一の宇宙法界(法界=世界)におけるものであることになるが、これは、単なる客観的な世界観に過ぎず、哲学にすぎない。これでは依然として真の悟りではない。

 

第十住心

秘密荘厳住心

大日如来は、あらゆる仏と一つであって、迅速な力という三昧(トランス)に入り、自ら証した心理の世界の本体という精神統一を説くレベル。仏界に相当。

仏の位に入るとは、即身成仏のことで、大日如来と一体化することである。

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空海の十住心論-1

2023-01-13 10:28:03 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎空海の十住心論-1

 

空海は、人間の意識の発展段階として、十住心論を掲げている。

住心とは、心のあり場所や精神のおきどころの思想・哲学ではなく、人間の意識レベルと存在レベルの発展体系のこと。冥想の縦軸、横軸という議論からは、十住心論は歴史的な社会の発展段階説でもあるので、縦軸のステップであるという見方も否定できない。

 

ここでは仏教十界説と並べて、人間の意識レベルと存在レベルの発展体系の特徴と狙いを考えてみたい。空海の十住心論は密教の世界観の伝統に従ったものであり、その中にアートマンも顕れる。

 

十住心論の10ステップは、十界説と1段階ずつパラレルの一対一の対応になっているのではなく、第一住心に、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の下位4界がまとめられていたり、更に菩薩段階から上が細かく分類されている、ちょっとデフォルメの効いた十ステップになっているところが特徴と言える。

 

デフォルメした狙いは、この論が、830年淳和天皇に命じられて編纂されたものであり、また真言密教が国家的にオーソライズされるために、真言密教が諸宗の冠たることを強調できるものに仕上げたということが考えられる。

 

しかし現代人にとっての課題を見るとすれば、第六住心以降の菩薩に相当する部分が最も必要性が高いので、その意味で十住心論の10ステップはとてもモダンな分類だと思う。

 

第一住心 

異生羝羊住心

牡羊のように性と食のみにとらわれ、本能の赴くままに生きているレベル

修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界に相当。いきなり、下位の4レベルがまとめられていて、十住心論は、上位に力点があることがわかる。

 

第二住心

愚童持斎住心

愚かな子供ではあるが、生活の規則に目覚め、人への施しに目覚めるレベル。

人間界に相当

 

第三住心

嬰童無畏住心

いまだ輪廻の世界にいるが、来世の生があることを知って幼子のように一時的に安らいでいるレベル

天界に相当

 

第四住心

唯蘊無我住心

ただ物のみが実在することを知って、実体として個人が存在することを否定する。声聞の教えは自分一人のための小乗のレベル。

声聞界に相当

 

第五住心

抜業因種住心

一切のことは因縁によってなることを自覚して、無知の元を取り除いて、ただ一人悟りを得る。縁覚のレベルに相当。

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親鸞の愚禿鈔

2023-01-13 10:24:36 | 【アストラル体】【ザ・ジャンプ・アウト-07】neo

◎横超=選択本願・真実報土・即得往生

 

親鸞の愚禿鈔の冒頭『賢者の信を聞きて、愚禿が心を顕す。

賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。

愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。』

愚禿は、親鸞のこと。賢者すなわち悟った人の信仰のありようを聞けば、自分のそれとの違いがはっきりして、自分の愚なることが明らかになる。親鸞がこれを書いた頃は、字面では悟ってないと広言しているわけだ。29歳で信心決定したが、そのピーク・エクスペリアンスは、過去のものになったから、殊更に愚禿と卑下しているのか。

 

大乗の中に頓教(すぐ悟る)と漸教(だんだん悟る)の二教あるが、念仏は頓教に分類される。

頓教には、二つの悟りに至る道があり、一つは竪超であり、即身成仏や即身是仏を目指すもの。いまひとつは横超であり、弥陀の本願を信じて死後たちどころに真実報土に往生すること。

 

弥陀の本願を信じて念仏を唱えれば、死後たちどころに浄土への往生が実現すると主張しているのだが、念仏を一生懸命となえても、必ずしも死を待って浄土に往生するわけでなく、人によっては、即身是仏というようなことも起きる。たとえば妙好人浅原才一などは、どうも既に仏に出会うという体験は通過してしまっている。

 

先入観なく見れば、念仏で到る悉地=マントラ・シッディはマントラ・シッディに留まるものではないというのが、不思議ではあるが、そのことは現代科学の解明手法では手に負えない。自分で察するしかないところがある。

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最初から追い込まれた生い立ち-1 法然

2023-01-13 10:20:58 | 【クンダリーニ・ヨーガの全貌】【ザ・ジャンプ・アウト-02】neo

◎最初から追い込まれた生い立ち-1 法然

◎若くして虚無を見る

 

二段階目のモチベーションというのは、そのままでも十分わかりにくいのだが、有名覚者の生い立ちというものにそのヒントを捜すことができる。

 

法然は、若くして岡山県久米の故郷を出て、比叡山の僧となった。法然にも父母の死にまつわるトラウマがある。

 

法然は10歳の時に母秦氏(はたうじ)の兄弟観覚の下で既に僧となっていたが、極めて優秀であったので、15歳の時比叡山で学ばせようということになった。

 

法然が両親に別れを告げに行ったところ、父漆間時国(うるまのときくに)は、「私は、まもなく殺されることになるだろう。殺されたら私の菩提を弔ってくれ」と思いがけないことを語った。

 

そして母は、これが比叡山に登る法然との今生の別れとなることを予感し、都に発つ法然をしばらく送って行き、歌を詠んだ。

 

かたみとてはかなき藤のとどめてし、この別れさえ又いかにせん

(名残の藤は咲き残っているが、この別れだけはどうすることもできない)

 

親が子に対する思いやりをかなぐり棄てて、殺されるというようなことを実子法然に語るのはよほど切羽つまっていたのだろう。法然が比叡山に登ると、まもなく父時国が夜討ちに遇って殺害されたという知らせがやってきた。母秦氏はこの後記録に出て来ないので、父時国とともに殺害された可能性があるとされる。

 

父が殺害されて絶望した法然は、修行僧をやめて隠遁しようとしたが、師匠叡空に諭されて叡山に留まった。

 

南無阿弥陀仏と唱えれば、どんな人間でも救われるとは、阿弥陀仏に出会ったこともない人は、いわば悪人であるので、ひたすら(専修)念仏するしか救済の方法はないというのが法然の考え方である。専修念仏の中にアナハタ・チャクラが開顕し、もはや人間の領分ではない愛に出会うことを救済と見たのだろうか。

 

法然が、それを求めるモチベーションとしては、15歳の父母の遭難というトラウマがあったと想像するのはさほど難しいことではない。岡山県久米の誕生寺では、毎年4月に父時国と母秦氏の追恩供養が行われ、両親を極楽浄土に迎えるセレモニーが催されるという。親鸞もこのようなことをしないので、これは、法然には両親の死によるPTSDがあった証拠とも考えられる。

 

思春期にあって、両親を失って天涯孤独の身となるのは、いかに絶望的なものか、その心境について赤裸々に語る者は少ないが、3.11東日本大震災を経験した日本人ならば容易に想像はできよう。

 

法然にあっては、10歳にして2段目のモチベーションに追い込まれたのだ。そういう環境を自分で選んできたということもあるだろう。こうした両親早世の環境では、生活を維持していくのも厳しい。心の安定を保持していくのも厳しい。それでも前向きのシャレンジにトライしたのだ。

 

世間的には、ここまで追い込まれた人は多くはないので、二段目のモチーベーションというのは、こうした特殊な生い立ちの人にしか起き得まいという先入観を与えることもあるが、更にこうした覚者の生い立ちを見ていく。

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日蓮が不動明王を見る

2023-01-13 10:15:36 | 現代冥想の到達点neo

◎不動愛染感見記

 

日蓮は安房小湊に近い天台宗清澄寺に入り、この寺の虚空蔵菩薩に願をかけ、「日本第一の智者となし給え」と祈っていた。その修行の延長で、不動明王、愛染明王を見た。

 

その実体験を弟子向けに、挿絵入りで1254年6月25日に、不動明王一幅https://darumamuseumgallery.blogspot.com/2007/07/fudo-kankenki.html、愛染明王一幅https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/n171-004.htmlに、それぞれ望見しましたと描き残している。

 

同年正月の日蝕時に愛染明王を、正月15日から17日の満月以降の3日に不動明王を見た。

 

これにより日蓮は、大日如来から数えて23代目の嫡流であると確認したと書いている。授記ですね。

 

また不動明王のビジョンを見たのと不動明王の段階を体験したのとは異なる。天台の筒井叡観師もビジョンを見た。本山博は、不動明王段階を通過したが、日蓮はそれについては触れていない。また望見であるので、合体ではない。

 

人が神に成るあるいは即身成仏までの段階には、本山博が自証したように不動明王段階があり、西洋錬金術では、サラマンダー段階と表現した。

 

日蓮は、大衆宗教を目指したので、いわゆる隠遁者として密教家の道を歩むことはなかったのだろう。

 

だが、その望見の体験が日蓮の宗教体験全体に深みと広がりを与えているように思う。

 

愛染は煩悩即菩提、悟りと迷いは幻影であり現実である。

不動は生死即涅槃、ニルヴァーナ=第七身体の前に生死の違いも何もかもなし。

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老子狂言の最終の詩

2023-01-13 06:49:49 | アヴァターラ神のまにまに

◎「タオしかないもんな」から藤井風

 

ネットで出回っているダンテス・ダイジの未公刊の詩集『老子狂言』は、最後の詩一篇が欠落している。

それは、これだ。

 

『この地上に

新しい言葉も

新しい象徴も

新しい論理も

あり得ない。

 

だが、タオだけは、

日々に新しい。

 

それは、

私には果てしない成長成熟のように

思われる。

 

1981年4月26日

如意第慈拝』

(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)

 

これは、時間のない世界から書かれたものだから、『果てしない成長成熟』という言い回しになる。

タオにはすべてのすべてがあるから、新しいものはない。

如意第慈は、ダンテス・ダイジの別号の一つ。

 

また、タオという言葉は使っていないが、タオがわかるのが次の詩。

『これしかないもんだ

 

 

人も浮世も猫もシャクシも 

そんなものありゃせん 

これしかないもんな・・・

 

これしかないもんな・・・ 

そうゆうわけで

一切万物は 

恐ろしく恐ろしく

甘美で至福なる——— 

これしかないもんだ

 

苦しいより

楽しいほうがいいのは

もっともだけれど・・・

それを超えるというのは、もっといい

なにしろ これしかないもんな・・・』

(上掲書から引用)

 

『これしか』とは、タオのこと。

『恐ろしく恐ろしく

甘美で至福』は、実際に体験しないとわからない部分。

 

『苦しいより

楽しいほうがいいのは

もっともだけれど・・・

それを超える』とは、

天国と地獄の結婚を指すが、今この日本社会で、両性具有すなわち天国と地獄の結婚を表立って唱えても、ほとんど理解される環境にはない。

 

さて日本は、信仰、宗教は自由だが、2022年NHK紅白歌合戦をきっかけに藤井風は、週刊新潮で、サイババのモチーフを叩かれているという。

サイババはダメだが、日蓮法然親鸞空海最澄道元神道イエスならいいという理屈は立たないのではないか。

 

そういう世間の宗教理解の土壌で、特に「両性具有すなわち天国と地獄の結婚」を語ってもせいぜいLGBTを連想される程度に終わってしまうのではないか。

いうなれば、万教同根、宗派なき冥想、宗教の終わりの根幹は、「両性具有すなわち天国と地獄の結婚」にある。

「両性具有すなわち天国と地獄の結婚」を超えてタオなのだ。

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