◎あらゆる生死と涅槃
達磨の二入四行論から
『心は物ではないけれども、物でないということは、空であることではない。
心は物と心の立場を超えるが、虚空と同じでもない。ボサツははっきりと空と不空を認めるが、小乗は空を認めても不空を認めず、声聞は空に達しても不空に達しない』
(達磨の語録/柳田聖山/筑摩書房P254から引用)
更に吉蔵の三論玄義に
『小乗はただ空を究明するだけで、いまだ不空を知らず、大乗は空を究明するとともに不空を心得ている。それで『涅槃経』にいう、<仏弟子たちはただ空を知って不空を知らぬ、智者は空と不空をともに語っている。空とは、あらゆる生死についていい、不空とは涅槃についていう>』
(達磨の語録/柳田聖山/筑摩書房P256から引用)
世の中のできごとの変遷、諸行無常なることは、空である。空まで達するとは、不条理を目の当たりにし思い知って、第六身体アートマンなる宇宙全体と一体となることである。ここで個人は全体となったのだから、救いと言えば救いである。
そこで不空がある。不空とは第七身体ニルヴァーナだが、それは第六身体と同様に人間の立場ではない。人間という立場には、救いがないことが明らかになっているので、その救いとは、人間である自分に都合のよい救いではないだろう。だから不空が救いであるという立場は、とても説明がむずかしい。
ボサツは、少なくとも見性した人だが、ボサツは空も不空をはっきり承知しているとあるので、ニルヴァーナを見た人ということになる。そうすると『空まで行ける人』というのは、見性、見神は通過し、宇宙と合一することでこの世の仕組みを見切ることはできるが、そこをまだ超えてはいない立場ということになる。