◎国を挙げて大祓
(2014-10-05)
出口王仁三郎は、あれだけ膨大な文書を残しているわりに聖徳太子への言及は少ない。聖徳太子は聖徳太子で、仏教を日本に入れるために神代文字を廃絶せしめたとか、結局一族皆殺しになったのにはそれ相応の行状があったに違いないとか、ネガティブ・キャンペーンがかまびすしい。
私は、中国の禅者南嶽慧思が聖徳太子として日本へ転生してきたという伝説もあり、聖徳太子善玉説である。出口王仁三郎も当然聖徳太子善玉説であり、以下のような出口王仁三郎の文章を見ると、日本国激動の時代に宗教者として出現して、日本の水先案内の大役を務めたという点で、出口王仁三郎と聖徳太子の共通点を感じる
この文章は、彼の主著霊界物語全81巻の外に別巻として出された入蒙記の一節である。
出口王仁三郎はこの入蒙で明らかに次代への布石を打とうとしていた。
冒頭の「東魚来つて西海を呑む。日西天に没すること三百七十余日、西鳥来りて東魚を喰む。」が聖徳太子未来記の一節で、太平記に表れ、各時代の賢哲がその意味に首をひねってきたもの。日出雄は出口王仁三郎のこと。
『第七章 奉天の夕
東魚来つて西海を呑む。日西天に没すること三百七十余日、西鳥来りて東魚を喰む。
右の言葉は、聖徳太子の当初百王治天の安危を鑒考されて我が日本一州の未来記を書きおかれたのだと称せられ、我国古来聖哲が千古の疑問として此解決に苦みて居たのである。日出雄は右の言葉に対し、我国家の前途に横たはれる或物を認めて、之が対応策を講ぜねばならぬことを深く慮つた。
彼は真澄別と唯二人、二月十三日午前三時二十八分聖地発列車上の人となつた。駅に見送るものは湯浅研三、奥村某の二人のみであつた。いつも彼が旅行には大本の役員信徒数十人或は数百人の送り迎へのあるのを常として居た。然るに此日は唯二人の信徒に送られて行つた事は、此計画の暫時他に漏れむ事を躊躇したからであらう。』
(霊界物語 別巻 入蒙記から)
恐らくこの文だけでは、解決の方向性を定めることは難しいが、古事記の以下の部分が関連あるものと思われる。
【古事記仲哀天皇の段には、仲哀天皇が皇后を依代として神託を求めたところ『金銀本位制度の西洋諸国があるが、その国を自分の国にしてしまうべし』と出た。天皇は、その西洋諸国を見てみたが、水没して海しか見えないので、黙ってしばらく何もしないでいた。
すると神託の神が怒って『この天下はあなたが統治すべきではないので、一道に向かえ』と命じた。
すると武内宿祢が『恐れ多い事です。お琴を弾きなさいませ』と促すと、天皇は、なまなまに琴を弾いていたが、まもなくトランスに入ったのか琴が聞こえなくなった。誰にも知られぬうちに闇の中での天皇崩御となったので、国を挙げて大祓を行い再び神託を求めたところ、『西欧諸国は皇后の腹中の長男が治めることになる。だがそのためには、渡って行く者たちはことごとく神を知っている者たちでなければならない』と。】
古事記の時代から西方諸国は金銀以本の国であったことは知られていたと見える。西洋は水で滅ぶとも言われていること。
さて一つの見方としては、
太古、仲哀天皇は、西方諸国をその御稜威で、臣服させる実力があった。そこで大神が西方諸国を臣従させよという命令を下したのに、「どうせ最後は海になるような国々を臣従させてもしょうがない」というように考えて、何もしないで放置していた。
大神がこのネグレクトを怒り、神事だけはちゃんとやりなさいと命じたので、神事だけはなまなまにやっていたが、気がついたら誰も知らないうちに天皇家は断絶していた。
この椿事に国中驚きあわて、『国を挙げて大祓を行った』ところ、天皇家再興のめどがついたが、日本国民はなんだか群船にて西方に大挙渡ることになった。
さて未来記の「東魚来つて西海を呑む。」は、仲哀天皇は、西方諸国をその御稜威で、臣服させる実力があった時期のこと。
「日西天に没すること三百七十余日」は、西方諸国に対して何もしないで放置して神事ばかりやっていた時期のこと。(幕末まで)
「西鳥来りて東魚を喰む。」とは、西方諸国が日本から金をむしり国力を削ぎ日本を滅ぼすこと。
出口王仁三郎は、未来記の解釈は明かしていないが、将来の日本の艱難に対し一石を投じようという意図があったことは見える。
国を挙げて大祓とは、日本が冥想立国、神主主義になれるかどうかということだと思う。