アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

選り好みをしない-3

2023-01-12 06:14:03 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎放射性物質と日本人の行方

(2011-03-31)

 

唐代の禅マスター趙州に対して、弟子が問うには、

「至道無難唯嫌揀択。わずかに言語あれば是れ揀択。(至道は難しいことはなく、ただ選り好みをしないだけだ。しかし言葉で表現した途端に、それは選り好みだ。)だそうですが、師匠はそれをどのように人に表現されますか。」

 

趙州は、

「どうして古人の言葉を、(冒頭だけでなく)全部引用しないのだ。」

 

弟子

「私は、ここまでしか言えません」

 

趙州は、

「それこそが、至道無難唯嫌揀択(至道は難しいことはなく、ただ選り好みをしないだけだ)である。」

 

 

放射性物質の入った空気を呼吸することについて、私は選り好みできない。放射性物質入りの水道水を飲むことについて、私は選り好みできない。放射性物質のちりが入った雨に濡れることについて私は選り好みできない。

 

長期的に見て、多くの日本人が、こうしたことをきっかけに国を出ることになっても不思議はない。最近の英語ブームは、今までのそれとは違っているように感じるし、パナソニックなどの新卒採用がグローバル採用になったことなどともシンクロしている。

 

日本人は海外に出て行くことを、このようにじわじわと内外から催促されているように感じるのだが、『勤勉、熱心、平均学力が高い』というだけの特長でもって世界に日本人が歓迎されるとも思えない。

 

日本人全体に冥想の習慣が広がり、冥想の多くのバリエーションの手ほどきができる程度に冥想に熟練するというようなことがあってはじめて、今後の混乱の海外に出て行って、そこで日本人が歓迎されるのではないだろうか。日本が海外にODAなどでばらまく金が尽きようとする今、その思いは変わっていない。

 

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選り好みをしない-2

2023-01-12 05:49:39 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎覚者の行動ルール

 

唐代の禅マスター趙州は、弟子たちを集めて言うには、

「至道無難唯嫌揀択(至道は難しいことはなく、ただ選り好みをしないだけだ)というが、言葉で表現した途端に選り好みだ。

 

だからといって、私は明白なところにもいない。それでは一体あなた方は、どこに達磨の真意を見るのか。」

 

弟子が質問する。「趙州マスターが既に明白なところにもいないのであれば、どこを大事なポイントとするのですか。」

 

趙州「わしも知らない」

 

弟子「趙州マスターは自分で知らないと言うのであれば、どうして「明白なところにもいない」となぜ断言できるのですか」

 

趙州「質問はそれで良い。礼拝して、退出しなさい」

 

 

これは、三祖の信心銘では「至道無難唯嫌揀択」に続いて、「ただ憎愛なければ洞然として明白なり」とあることを前提としている。趙州は、愛憎がなくても明白なところにはいないとだけ述べる。どうしてそうなっているのかは、趙州も説明できず、ただ何でか知らないがただそうなっている、とする。

 

ここまで行くと選り好みをするしないの問題ではないのだろう。でも最初は選り好みをしないから入る。

 

選り好みをしないというのは、悟った人に共通の沢山ある行動ルールの一つなのだろう。でもそれをそうだと見分ける人は少ないのだと思う。

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選り好みをしない-1

2023-01-12 05:47:01 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎趙州のジレンマ

 

ある僧が問うに「至道無難唯嫌揀択(至道は難しいことはなく、ただ選り好みをしないだけだ)ということは、現代の禅者の巣窟ですね。」。

 

趙州は、「かつてこの問いを、誰かが私に尋ねたが、5年間わからぬままになっている。」

 

選り好みをしないのは、時間のない世界のことである。世界樹の聳え立つ世界にあって初めて、それを語りえる。

しかしこれを他人に問われれば、語った瞬間に選り好みが起こるので、至道でなくなる。

 

選り好みをするとは、スーパーで商品を選ぶ選り好みのことではなく、自分のさかしら、はからいを言う。

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執着には悲しみがペアでついている

2023-01-12 03:56:56 | 人と神の「実際のところ」

◎選り好みをすることが執着であり叫びの元

 

まず釈迦のダンマパダから

1.『怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。』

(ブッダの真理の言葉・感興の言葉/岩波文庫P41から引用)

 

この束縛が執着のことである。

 

2.イーシャ・ウパニシャッドから

『有情・非情の万有を自己となし

いたるところに万有一体の理を悟る

この覚者 この賢者に

いかなる愁い いかなる執着があろう』

(イーシャ・ウパニシャッド/OSHO/市民出版社P174から引用)

 

OSHOはこの経文の解説で、悲しみと執着がペアになっているのは、この二つは実は一つのものだからだと指摘する。悲しくなるのは執着の対象が失われたからであり、執着がなければ悲しみはない。悲しみは執着につきまとう影のようなもの。

 

3.禅の信心銘から

『至道無難唯嫌揀択

 

【大意】

至上の大道は、すぐそこにあって、かれこれと七面倒くさいものではない。ただえり好みしさえしなければ、それでよいのである。』

 

執着はえり好みから起きる。つまり悲しみは、えり好みが原因なのだ。

 

4.ヨハネの黙示録

『見よ。神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民になり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。』

 

『悲しみも、叫びもない』というのは、その原因を断たねば実現しない。悲しみも叫びもその原因は、にわかには信じられないかもしれないが、えり好みである。

 

えり好みについては、最近の価値観の多様化が言われる以前の古代から、特に異性へのえり好みは激しいものであり、この時代は、ファッション、ブランド品、コスメから消費財一般まで、何にでもえり好みを前提にしている。

こうした気軽な消費選好というえり好みが、膨大な悲しみを呼び、叫びを引き起こしているのだ。

 

つまり『悲しみも、叫びもない時代』とは、万人がえり好みをしなくならないと来ないのである。至福千年、イエスの再臨、弥勒菩薩の出現は、万人がえり好みをしないという、現代人には全く考えられない心情の人々の世界なのだ。

 

そこで、人がえり好みをしないことを実現するには、人は冥想により、神と一体になる、あるいは仏と一体になるという、体験とはいえない体験を経ねばならない。

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