アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

ひらがなの意味

2023-01-21 20:08:04 | 古神道の手振りneo

◎世界創造の道具

(2009-03-16)

 

世の中には姓名判断のようなものがあるが、その原理には、画数の数字の部分と音の部分があり、仮名48音のそれぞれの意味がある。その説明がどこに由来するものか不思議に思っていたが、これは出口王仁三郎が太鼓判を押しているものなので、信用できるものと思う。

 

霊界物語では、いろは歌は空海の創作ではなく、霊界最奥の太元顕津男の神の言霊から出てきた神歌とする。48音は、世界創造の具材であるが、罪けがれのある世界のものだから、クンダリーニ・ヨーガ的世界観のものであることがわかる。

 

ネガティブな意味を充てている字は少ない。

【ゐ】は快感の極度に達したる時の意也とは、ニルヴァーナの謂いだろうか。

【て】には、暗夜への言及がある。【あ】も光。

いずれにしても世界に鳴り鳴りて響きわたる父音、母音を聞くような集合的無意識にあって聞こえる言霊のことだろう。

 

たとえば麻生太郎の「たろう」なら、

【た】は円満具足の意也。

【ろ】は水と火の固まりて水火となり、

【う】は潤ひの意、又天消地滅的場合に発す言霊也。

となり、大体がポジティブな意味が配当されているが、自分の名前で見てみるとそれなりに思い当たることがあるもの。

 

 

【い】は水と火の並びたる象徴也、右は水、左は火。

【ろ】は水と火の固まりて水火となり、宇宙に開く言霊を、【は】といふ。

言霊宇宙に開きて前後左右に活用く象は、【に】也。

此の活動によりて一つのヽ現はる、即ち、【ほ】の言霊也。

【ほ】は次第に高く昇り膨れ拡がる態を、【へ】といふ。

【と】の言霊は水火の完成したる言霊也。

水火完成して宇宙に滋味を生ず、之を【ち】といふ。【ち】は子を育つる母乳の意也。又万物発生の経綸場たる大地の意也。

 

【り】の言霊は女男二神水火を合せて並び立たせる言霊也。

【ぬ】の言霊は互に和らぎ寝み温かき心を以て神業に尽す水火の象也。

【る】は夫婦の道又は天界の総ての定まりし言霊也。

【を】は心也。

 

【わ】は和らぎ睦み御子を生み給ふ態を言ふ也。

【か】は抱へ合ひ、輝き合ふ意にして、俗言に嬶といふも此の言霊の意也。

【よ】は夫婦二神世帯を持てる象也。

【た】は円満具足の意也。

【れ】は夫唱婦随の意也。

【そ】は上下四方揃ふ意也。左右の指の五本と五本と合せて拍手せし態也。

 

【つ】は永久に続く意にして世人のいふ玉椿の八千代までといふも同じ。

【ね】は懇にして夫婦同衾の意也。

【な】は二人並ばし寝給ふ象也。

【ら】は左旋右旋の意にして婚ぎの時の態をいふ。

【む】は蒸し蒸して生し蒸生し息子娘を生むの意也。

 

【う】は潤ひの意、又天消地滅的場合に発す言霊也。

【ゐ】は快感の極度に達したる時の意也。

【の】は一物より迸る水気の意也。

【お】は穏かに修まりし心。

【く】は夫婦組合ひたる象。

【や】は弥益々の意。

【ま】は誠の心を以ちて幾万年も夫婦の道を守らむとの意也。

 

【け】は身の汚れの意也。

【ふ】は吹払ふ言霊にして男女の汚れを吹き払ふの意也。

【こ】は子にして、

【え】は胞衣也。

【て】は照り輝く意にして、暗夜の神業も終局の時火を照す意味也。

 

【あ】は暗室に点じたる火によりて一切のもの現れる意也。

【さ】は避くる意にして男神は女神の面を見る事を避け、又女神は男神の面を見る事を恥らひ避くる事の意也。

【き】は気の高ぶりて心いそいそする意也。

【ゆ】は豊かの意にして仲の好くなりし言霊。

【め】は木の芽を吹き出す如く御子の種宿り始めたる意。

【み】は弥々胎児となりし言霊也。

【し】はしつくりの意にして、茲に愈夫婦らしく初めて落ち着けるの言霊也。

 

【ゑ】は歓ぎ喜ぶ意にして、御子の生れたるを見て互に笑み栄えるの言霊也。

【ひ】は日子日女の意也。

【も】は催合ふ意にして、一家和合の言霊也。

【せ】は川の瀬の意にして、夫婦の仲に一点の邪曲もなく清らかなる態の言霊也。

【す】はいよいよ澄みきりて親子睦じく世に住む言霊也。』

(霊界物語73巻より引用)

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グルジェフの生い立ち

2023-01-21 19:40:53 | 現代冥想の到達点neo

◎最も大事なものを捨てる

(2008-01-02)

 

グルジェフのやり口は、単刀直入で、人の意表をついて、いろいろな意味での先入観を打ち壊すことから始める。これに対して、彼のよき紹介者であったウスペンスキーのアプローチは、知的論理的であり、絶対に人の意表をつかないという弱点があり、出会いの最初から「何かあるぞ」という目で見ない人には、ウスペンスキーのアプローチでは気づきを得ることはなかったのではないだろうか。グルジェフも、ウスペンスキーのやり方のその点を心配していた。

 

さて20世紀ロシアの神秘家グルジェフの生い立ちは、謎に満ちている。おまけに後年欧米で出会った人には、その多くを語らなかった。

 

グルジェフのパスポート上の生年月日は1877年12月28日。彼は当時ロシアとトルコの間で領土争いの焦点になったグムルーの町に生れた。この誕生日は、当てにならないとされている。

 

グルジェフの父はギリシア人の大工で、叙事詩ギルガメシュを朗誦する吟遊詩人でもあった。母親はアルメニア人。

 

カルスという町で、この地方の軍事学校のボルシェ神父に神学と医学を学ぶかたわら、アレクサンドロポールまで出かけて壊れた家具や機械を修理しては小遣い稼ぎをした。

 

そして10代の初めには、チフリスの駅で火夫をしたり、鉄道新設ルートの町や村に駅を作る便宜を図ると言っては賄賂をもらっていたようだ。また、この頃彼は、アルメニア正教発祥の地であるエチミアジンに巡礼をしたり、様々な社で祈ったりするという経験を積んだ。

 

チフリスに戻る頃には、鉄道の仕事をやめていいくらいのお金がたまったので、古いアルメニアの本を一山買ってきて、古都アニへ友人ポゴッシアンと引っ越して、読書と研究、そして廃墟の発掘・探検の日々を過ごした。

 

そうしたある日廃墟で見つけた修道僧の古い羊皮紙の手紙をきっかけにエジプトへ渡り、グルジェフは、エルサレムに移り、ロシアの観光客のガイドになった。

 

こうした放浪の末、どういう修行があったのかはわからないが、1902年ゴビ砂漠のはずれのヤンギヒサールで、流れ弾にあたり3か月も意識を失っていた。その2年後同じ町で、ロシア皇帝と革命家の争いに巻き込まれ、また流れ弾に当たった。

 

この怪我の回復過程において、自分が全く無価値であるというネガティブな意識状態におちいったが、駱駝が動いたことをきっかけに、グルジェフはこの魂の暗夜を振り払うことができた。

 

これは全的な自己知覚状態であり、グルジェフの見性にあたるものだと思う。この時、彼は超能力を自分のために使うことを含むすべてを捨てれば、自己知覚状態の源泉を引き出すことができると考えるに至った。

 

見性前には、グルジェフですら、それまで積み重ねてきた一番大事なものまであきらめる覚悟が必要だったということ。その後の老獪に見える彼のやり口に比べ、暗夜を乗り越える時はとても人間的であった事を知り、ほっとさせられる。

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暗夜から光へ-3

2023-01-21 19:16:27 | 究極というものの可能性neo

◎第二夜について

(2006-08-25)

 

十字架のヨハネは、神との一致には次の3つが必要であると見る。

知性による信仰、記憶につながる希望、意志による愛である。そして、知性(理性)、記憶、意志それぞれが暗夜になる原因でもあると見る。

 

1.理性の暗夜

十字架の聖ヨハネは、神および霊的なものとの関連をもつ、理性的な高い部分についても、やはり同じように目をつむって、真っ暗な状態にとどまらなくてはならならいと言う。つまり理性は、不可知の暗夜を作り出すことになるのである。

 

というのは、超自然的な魂の変容と神との一致は、理性の捕らえられるところではないので、暗黒になるべきであるのは明らかであると説明している。カトリックの道で、光を持つためには、自らは闇の中にいなければならないのである。

 

こうして自分の理性を捨て、自我を捨て、無になったところに神が働くとする。

 

2.記憶の暗夜

神との一致の始めには、記憶の忘却と、想像の停止が起こる。希望は記憶を消去してしまうのである。この段階では、時に自分自身をすっかり忘れてしまうため、何かを思い出そうとすると非常な力と努力を要するほどだと言う。

 

『神は記憶によってとらえられるような形やイメージを持たないので、記憶が神と一致する場合には、(毎日の経験においてみられるように)何の形もイメージもなく、想像も絶えて、記憶は全く忘却のうちに一言も思い出すことのない至福の状態に置かれる。というのはその神的一致は、イメージをなくし、形や概念のすべてを一掃し、記憶を超自然へと高めるからである。』

(カルメル山登攀/十字架の聖ヨハネ/ドンボスコ社から引用)

 

3.意志の暗夜

  意志による愛を貫きとおすために、意志の暗夜がある。そのためには神のために意志力を蓄える必要があるが、その力を散漫なものにする障害が、乱れた欲望であったり、よこしまな執着であったりする。具体的には、神以外のものに対する喜びと期待、また神以外のものに対する悲しみと恐れである。これが意志の暗夜と呼ばれるもの。

 

現代人は、神以外のものに対する執着が強いことが普通なので、それは一種の意志の暗夜であるといえる。

「神は彼らを、そのよこしまな心のままにゆだねたもうた。」聖パウロ

 

こうした暗夜を超えて、神との一致に進んでいく。

 

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暗夜から光へ-2

2023-01-21 19:12:04 | 究極というものの可能性neo

◎第一夜について

(2006-08-24)

 

カトリックの冥想プロセスに特徴的なものではあるが、神の観想を進めていくと、自分はすっかりダメな奴で、悪と罪に満ち満ちた者であるという、苦悩と困窮に追い詰められるものである。これは、神の認識の光に照らして自分を見つめると、自ずとそうなっていくものである。

 

もちろんそうした状態は、ノイローゼだったり、うつという病的な精神状態に過ぎないのか、それとも神との一致に進む途上の正統的な「暗夜」なのか見分ける必要がある。

 

カトリックでは、観想法が用いられているところが特徴的である。禅では観想法はなく、クンダリーニ・ヨーガ系にはあり、たとえば日本密教(真言、天台)でも月輪観など観想法がある。

 

第一夜は、感覚的な欲望の暗夜がテーマ。

まず神と合一しようとする精神的な愛の炎が絶えがたいほどに燃え上がらないと、感覚的、官能的なものへの誘惑を退けて、感覚の暗夜に入っていこうとする勇気が起こらない。

その勇気をもって、欲望を弱め、静めていくと、いつしか感覚的な暗夜を通過したことに気づく

 

第一夜に該当する詩句

 

『暗き夜に

炎と燃える、愛の心のたえがたく

おお幸いなその時よ

気づかるることもなく出づ、

すでに、我が家は静まりたれば』

(カルメル山登攀/十字架の聖ヨハネ/ドンボスコ社から引用)

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暗夜から光へ-1

2023-01-21 18:58:00 | 究極というものの可能性neo

◎暗夜について

(2006-08-23)

 

カトリシズムの巨星、十字架の聖ヨハネは、著書「カルメル山登攀」において、神との合一に至る直前の段階での、精神の暗夜には三夜あると説明する。マラソンで言えば、最後の直線のラスト・スパートの部分である。

 

この中身は、あらゆる神秘体験や神秘的ビジョンの正邪の見分け方、聖書の出来事の解釈の方向性など、示唆に富むものが多い。

 

第一夜

これは、感覚の暗夜と呼ばれるもの。すべてのものに対する欲求の楽しみつまり感覚的欲望から、心をはぎ取ってしまえば、霊魂は暗い何もない状態になる。これが第一夜。

観想の初歩にある人がこれに該当する。

 

第二夜

これは、精神の暗夜と呼ばれるもの。

精神の機能を、理性、記憶、意志の3種類と見て、信仰が進むにつれて、それぞれの機能に暗夜が到来する状態。

 

既に感覚からは暗夜状態であるが、さらに理性、記憶、意志についても暗夜を加えた状態。

 

つまり信仰、神というものは、決して理性でもって理解はできない。従って理性でもってアプローチすればするほど、信仰、神というものは、暗黒と観ぜられるのである。記憶、意志についても、核心に迫るほど暗夜に陥っていくことになる。

 

第三夜

これは夜明け前にあたる。第一夜第二夜においては、個人の魂が能動的に神を求めて進んで行った暗闇であったが、第三夜は、神から個人への働きかけが主となる受動的なものとなるのである。これも暗夜であり、神との一致以前である。

 

十字架のヨハネの著書「カルメル山登攀」においては、第一夜、第二夜は詳述されているが、第三夜はほとんど何も記述されないで終わっている。「神の御心の許されるままに」書き進めて行ったが、第三夜については、神の御心の許されるままに筆を置いたということになるようだ。

 

カルメル山登攀は、登攀の途中で終り、最後は自ら挑戦してみる方のお楽しみということになっている。

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天国と地獄の卒業-3

2023-01-21 06:28:29 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎魂の闇夜、無数の太陽

 

OSHOバグワンは、未顕現のブラフマンは光中の光だから、最初はまぶしくて見えないとする。キリスト者の言う魂の闇夜は、これであって光の中心である未顕現のブラフマンに比し周りは暗すぎる光だから魂の暗夜と感じる。しかし既に闇はなく光ばかりだから、それは闇ではない。

 

これに対応するイーシャ・ウパニシャッドの経文。

『あふれる光の中に座すブラフマン

その顔は黄金の覆いに包まれている

神よ

真理の探求者たる私が

究極そのものに達せますよう

その覆いを払い給え』

(イーシャ・ウパニシャッド/OSHO/市民出版社P344から引用)

 

これは、祈願文すなわち祈りの言葉になっている。見ている自分はこの時点でそもそもないのだろうかということが気になる。

 

この経文では黄金の覆いと表現しているが、スーフィの神秘家なら無数の太陽が一斉に輝いていると表現する。それらの多数の神聖なる太陽のうち中心の太陽以外の太陽が妨げになっている。その黄金の光の覆いを払って下さいと神に祈る。

 

OSHOバグワンは、二元性との最後の戦いが、『光との闘い』であると述べる。それを経て非二元に入る。つまり闇と光の戦いの最終ステージは光との闘いになるのだ。

なお彼自身の大悟の描写にまぶしすぎるというシーンは出てこない。

 

この段階を通過して、人は闇と光とを超え、二元性を終了し、非二元になる。つまり生死、光と闇、天国と地獄、男と女などあらゆる二元が終わり非二元に入るが、そこは第六身体と考えられる。

 

そして非二元に入るには、天国的なものを捨てるという人間の本性からして極めて抵抗の強い行為をせねばならないので、ここは神に祈るのだと、OSHOバグワンは説明する。神に明け渡すわけである。

 

そしてそれが成功すると、知る者も知られるものがない、体験する者も体験されるものがない解脱となる。第六身体アートマンである。

 

だが、これを光の中心、最終目的地、真理の顔と言っているものの、まだニルヴァーナではないようだ。

 

更に先がある。

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