◎誰も冥想が必要だなどと思わない
(2007-03-04)
次に日本以外の外国が3%しか残らないことについて
これは、出口王仁三郎が、終戦後に「聖師様、お筆先どおりになりました。」と面会に来た信者に諭した話。大本教は昭和10年の第二次大本事件で全国何千個所の寺院の破壊、有力幹部の逮捕など徹底的に弾圧された。それを前提とした、終戦後の信者への出口王仁三郎の談話である。
『世の中がこんなになったのに、お筆先(大本神諭)通り出てきたと喜ぶようではいかぬ。こんなにならぬように神様が叫ばれたのであるから、世の中のために祈る心にならねばならぬ。憐れまねばならぬ。
大本をひどい目に会わせたのであるから、よい気味だと言ったり、思ったりする信者があるが、そんな信者はせっかく助けてもらっても、それが悪魔の精神であるから、今度は助からない。
世界は三分。三割じゃない。百の三になる。日本は二分もめんどいと書いてあるから、世の中を見て回心しておらぬと、いい気味だと思うようでは、それが悪魔の精神であるから滅びてしまう。
王仁がラジオを据えて聞いているのは何のためか知っているのか。ニュースを聞いてはこれくらいで済んだかと喜んでいるのである。(以下略)
昭和二十年三月二十八日』
(新月の光(下巻)/木庭次守編/八幡書店P274-275から引用)
※お筆先(大本神諭):大本教の予言書
この生存確率の妥当性について検証する手段などない。また検証する意味もない。自分が、大災害、大変動の中で野たれ死にするかどうかだけが問題だと大概の人は感じるはずだからである。
したがって何%残るかどうかが最も重要なポイントではない。自分自身が神に目覚めるかどうかが大事であると気がついて冥想修行に打ち込むことしかない。
それではと一大決心して、まず自分が神に目覚めるように冥想修行に打ち込む。ところが大変動や大災害の時代を首尾よく生き延びれますようになどという邪心があって修行しているならば、いいところまで行くかも知れないが、肝心のところで神に叩たき落とされるのがオチであると思う。
結局、自分が助かろうなどという欲を捨て、無心無欲で冥想を続けているものだけが助かるという皮肉なことになってしまう。それが神々の現実であり、本音だろう。
これらのロジックをまとめると、
1.次の時代に生き残るためには、自分だけ生き残りたいという利己的な願望を残してはならない。
2.冥想修行により神に出会ったり、神に覚醒することが必要である。しかしながら、神に出会ったり、神に覚醒したとしても、大変動・大災害の時代を生き抜くことについて何も保証となるものではない。
3.つまり冥想しても大三災(大変動・大災害)を生き延びられるわけではない。
4.だから冥想なんかする必要を感じない。
というような具合になることに気がついてしまうことになる。理性的なあなたの下す結論は、このように自分が生き延びることと関係のない冥想などしないというものになってしまう。
このように冥想の必要性は、「客観的」には、全く論理的性がなく、説得力がない説である。そしてほとんどの人が冥想しない時代とは、今この時代のことである。
でもこのまま冥想しない人々がほとんどである状態は、必ずや文明全体の破壊につながって行くことをあなたの本心が知っている。
「自分がまず冥想をして神に出会うことが文明の破壊、大量死というものを最小限に食い止めること」であると直観する人が、雨後の竹の子のように何万人も出てくるかどうかが、文明がいくらかでも残るキーポイントでもあり、自分が生き残るかどうかのベンチマークとなる。
冥想の必要性は感じるものであり、論理的に考えれば考えるほど必要だということにはならない。でも知性が極めて発達した人類にとって、その論理的ジレンマを超えて冥想できるかどうかが、この近代西欧文明の最後にして最大の試金石となっている。