アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

OSHOの9種の意識

2023-01-20 20:17:59 | 究極というものの可能性neo

◎顕在意識の上方
(2009-08-03)

OSHOに限ったことではないが、聞き手である弟子のレベルに応じて、OSHOの話がどの程度核心に触れてくるかが変わって来る。それは、音楽でいえば、聴衆のレベル、雰囲気に応じて、同じ奏者の演奏でありながら、あるコンサートではひどいものになったり、別のコンサートでは秀逸なものになるのと同じである。大体が、どんな聖者も、肝心かなめの部分は、高弟か、同レベルの覚者に対してしか漏らしていないものだという印象がある。

だから不特定多数向けの講話録は、大体がとおり一遍の内容であることがおおい。OSHOの本も内容に出来不出来があるのは、OSHOのせいではなく、聞き手のせいなのだと思う。ダンマパダは、出来の良い本のひとつ。

ダンマパダにあるOSHOの9種の意識論。

まず、潜在意識は意識の全体の9割を占め、残り1割が顕在意識。ダンマパダでは、話の流れの中で詳しく説明していないが、こんな感じだろうか。

1.宇宙的超意識(ニルヴァーナ、モクシャ、解脱、真理)
2.集合的な超意識(諸宗教で神々と呼ばれる)
3.超意識的な心(サマーディ、三昧、統合された気づき)
4.顕在意識の上の「真に意識的な心」(冥想を通じて到達)
5.通常の顕在意識(いつもの気持ち)
6.漠然とした個人的潜在意識
7.個人的無意識(夢や薬物で知ることができる)
8.集合的無意識(家系、集団、民族、人類などとあるグループに共通の無意識)
9.宇宙的無意識

6から下は、心理学者のフロイトやユングの発見。4から上はインドの聖者オーロビンドの発見とする。潜在意識があることは、夢を見ることで知られるが、顕在意識に更に上があるなんて日常感覚では想像もできないことだ。

仏教ではアラヤ識を立てるが、それは集合的無意識レベルだと思うが、仏教では、なぜ顕在意識の上方について言及しなかったのだろうか。

顕在意識とは、覚めていること。覚めている、はっきりしているといえば只管打坐。只管打坐に顕在意識上方へのヒントが隠されているように思う。

さてOSHOが9種類の意識を語るからには、これは間違いではないだろうが、どういう意図で、どのような狙いでもってこれを説いたのだろうか。おまけに一番上の宇宙的超意識と一番下の宇宙的無意識は同じみたいだし。

 

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OSHOの光明-2

2023-01-20 20:00:29 | 現代冥想の到達点neo

◎光明

(2006-02-17)

 

『わたしは八時ごろ眠った。それは眠りとはちがっていた。いまなら、パタンジャリが睡眠とサマーディは似ているという意味を理解できる。ちがいはただひとつ―――サマーディのなかで、あなたは完全にめざめていて、また同時に眠ってもいる。眠っていて同時にさめている。からだ全体はリラックスしている。肉体のどの細胞もひとつ残らず完全にリラックスしている。あらゆる機能がリラックスしている。しかしなおかつ、覚醒の光があなたの内で燃えている。明るく、煙もださずに――。あなたは目を見はっていて、しかもリラックスしている。ゆったり としていて、しかも完全にめざめている。肉体は可能なかぎりもっとも深い眠りにはいっていながら、意識はその絶頂にある。意識の頂点と肉体の谷間が出会うのだ。

 

わたしは眠りについた。それはとても不思議な眠りだった。からだは眠っていたが、わたしはさめていた。それはじつに奇妙だった。まるで、自分がふたつの方向に、ふたつの次元に引き裂かれているかのようだった。まるで、二極性がその極致に達したかのようだった。自分が同時にその両極であるかのようだった。正と負が出会っていた。睡眠と覚醒が出会っていた。死と生が出会っていた。それこそ、「創造主と創造物が出会う」と言うにふさわしい瞬間だ。   

 

それは気味が悪かった。生まれてはじめて、それはまさしく根底からあなたにショックをあたえる。あなたの基盤を揺るがす。その体験のあと、あなたは二度ともう同じあなたではありえない。それはあなたの生にひとつの新しいヴィジョンを、ひとつの新しい質をもたらすのだ。

 

一二時近くになって、突然目が開いた。わたしが開いたのではない。眠りがなにかべつなものによって破られた。わたしは、部屋の中の自分のまわりにひとつの大いなる<現存>を感じた。それはとても小さな部屋だった。わたしはあたり一面に脈動する生命を感じとった。大いなる波動だ。ほとんどハリケーンといってもいい。光の、よろこびの、エクスタシーの大いなる嵐---。

 

それが実に途方もなく現実的であるあまり、なにもかも非現実的になってしまった。部屋の壁が非現実的になり、家が非現実的になり、自分自身のからだも非現実的になった・・・

 

その夜、もうひとつの現実(リアリティー)がその扉を開いた。もうひとつの次元が姿をあらわしたのだ。突如として、それはそこにあった。もうひとつのリアリティー、分離したリアリティー、本当に現実(リアル)なるもの―――あるいは呼びたければどう呼んでもいい。<神>と呼んでもいいし、<真理>と呼んでもいい。<ダルマ>と呼んでもいいし、<タオ>と呼んでも、ほかのどんな呼び方をしてもいい。

 

それは無名なるものだった。しかし、それは厳然としてそこにあった。じつにすきとおっていて、実に透明で、しかも手でさわれるぐらい確固としていた。そのおかげで、部屋の中は窒息しそうだった。それはトゥーマッチで、わたしにはまだそれを吸収する力がなかった。

(中略)

 

わたしはなにかべつなエネルギーの手中にあった。

生まれてはじめて、わたしは孤独 (alone)ではなかった。生まれてはじめて、わたしはもう、ひとりの個ではなかった。生まれてはじめて、水滴は大洋に落ちたのだ。いまや、海全体がわたしのものだった。わたしが海だった。そこには限界というものがなかった。まるでなんでも好きなことができるかのような、 途方もない力が湧いてきた。そこにわたしはいなかった。ただその力だけがあったのだ。

(中略)

 

わたしはあたりを見まわした。一本の木が途方もなく光り輝いていた。モールシュリの木だ。それがわたしを惹きつけた。それ自身にむかってわたしを引き寄せた。わたしがそれを選んだのではなかった。神自身がそれを選んだのだ。わたしはその木のところへ行くと、その下に腰をおろした。そこへすわると同時に、ものごとが落ち着きはじめた。全宇宙がひとつの天恵となった。』

(反逆のブッダ/ヴァサント・ジョン/メルクマール社P136-140から引用)

 

最初の『二極性の極致』は、天国と地獄の結婚直前なのか、神人合一直前の様子か。

 

次の「光の、よろこびの、エクスタシーの大いなる嵐」は、あたり一面に脈動する生命で、最初のリアリティで、非現実。これは、サビカルパ・サマーディ、有、アートマンと思われる。

 

この次に無名という言葉で表現できないものが来る。これは、最初のとは別のリアリティ。OSHOバグワンはそれを吸収できず、外出し、庭園のある樹木の下に坐った。これは、ニルビカルパ・サマーディ、無、ニルヴァーナと思われる。

 

OSHOは、この直前には、上体を立てた冥想姿勢でなく、意識は醒めながら深い睡眠にあった。このサマーディが呼吸停止、心拍停止で起きたかどうかは定かでないが、限りなくそれに近い深い睡眠で起きたのかもしれない。

熟眠中の夢を見ない状態で、それは起こった。

 

またこの大悟覚醒が、クンダリーニ・ヨーガ型か、只管打坐型かといえば、どちらでもないように思う。

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夏目漱石の禅

2023-01-20 16:48:15 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎見性失敗

(2007-12-25)

 

夏目漱石は、明治27年8月宮城県松島の瑞巌寺の南天棒に参禅し、生まれつき凡庸な素材なので、到底見性するような玉ではない(生来の凡骨到底見性の器に非ず)と、自分が全然悟れそうもないことを嘆いた。

 

同年12月今度は、鎌倉円覚寺の釈宗演に参じて、父母未生以前の本来の面目を見てこいという公案を与えられた。これは、本来の自己を徹見しなさいというものであったが、漱石は、「私のようなものには到底悟りは開かれそうにありません」と申し出て、円覚寺を下山することとなった。

 

円覚寺の参禅体験をそのまま書いたと言われる小説「門」では、腹痛がおさまらないまま6畳の自室に線香を持ち帰って、ぼんやりと坐ったが、腹痛で苦しんでいる最中にむずかしい数学の問題を出されて、解いてみなさいと言われたようなもので、まず腹痛がおさまらなくては、問題にとりかかるのは無理などと述懐している。

 

公案を透過するとは、公案そのものになりきることを要求されるのであるが、そのためには公案以外の教養とか博識とか腹痛などというものは、まず一切捨て去ろうという覚悟が必要なので、漱石はおよそそうした覚悟なく入ったようだ。

 

漱石の心は、弱くて落ち着かなくて、なんとか世の中を忍耐でもって渡っている状態であったから、禅で心を落ち着かせて力強く生きたいとでも思って参禅したのだろう。

 

こうした気分は、今の人も同じだろうが、参禅するからには、いきなり棒で殴られたり、大声で「カーツ」とどなられたり、水をかけられたり、意地悪な仕打ちをされたりすることに耐える心の準備が必要なことは当たり前だろう。

 

最後には片腕一本切り落として、達磨に差し出して安心を求める慧可のような不退転の決意があって初めて本来の自分の面目に出会うのであるから、何とも心もとない参禅に入る姿勢であったとは言える。

 

けれども最近の人が坐禅など冥想をしようというきっかけも、漱石と似たりよったりの人が多いのであろうから、まず漱石の見性失敗を笑うことはできまい。

 

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私のことも、私のまわりの出来事も知ることはできない

2023-01-20 16:42:46 | 現代冥想の到達点neo

◎すでに知っていると思いこんでいることは未知

(2020-07-28)

 

 

ダンテス・ダイジの未公刊の詩集『老子狂言から』

 

『〇私のことも、私のまわりの出来事と称せられるものについても、

本当には、

あるいは、

真実には、

まったく知ることはできない。

その

絶対は起こる。

その

至福でない至福は起こる

その確信ではない確信は起こる。

だが、

私は、

これが、

何であるかを、

知ることは決してない。

 

○すでに知っていると思いこんでいることと、未知であることとには何の違いもない。』

 

その絶対とはニルヴァーナであり、

まったく知ることはできないものは神・仏・道(タオ)であり、すでに知っていると思いこんでいることとは、父母未生以前の自己であり、大日如来であり、禅の絶対無である。

 

この詩で特徴的なのは、ニルヴァーナに特有の未知の薫香を見せていること。そして、ニルヴァーナ突入以前と以後を際立たせて、ニルヴァーナをチラ見しただけの平板な人々とその違いを明らかにしているところである。ニルヴァーナと一体化したら、ニルヴァーナを一人称で語るから。

 

すでに知っていると思いこんでいることをすべて棄てた先の実感を描いている。

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本気と情緒パワー-1

2023-01-20 15:43:47 | 只管打坐neo

◎香厳の父母未生以前の境地(2005-08-14)

 

香厳は、師匠の大潙禅師に『父母未生以前の境地を体得して、一句もってこい』と命じられたが、できなかったので、長年集めた書物をすべて焼き捨て、寺の食事の給仕役をして年月を過ごした。

 

ある時香厳は、師匠の大潙禅師に、とても体得することができそうもないから教えて下さいと頼んだところ、大潙禅師は「私がお前のために教えてやるのはやぶさかではない。しかし、もしそうしたらお前は後で私をうらむであろう。」

という問答があり、後年香厳がその境地を体得した時に、「あの時教えてもらっていれば、このような喜びはなかった」とその配慮に感謝している。

 

この話は、単純に、回答を教えてもらえば、達成した時の感動が小さくなるという話ではない。

人生という問題に取り組むために冥想するとして、どの程度本気になれるかというのは、冥想修行では常に問題となるが、その本気度を高いままに維持するためには、回答をタイムリーに教えてもらってはならない。教えてもらうとその緊張が解けてしまって本気度が落ちてしまうことを言っている。

 

われわれが必死の力でもって、冥想するのは、情緒的なパワーが後押しする場合であって、冥想の終着駅である窮極について知的概念的理解をした場合は、冥想に向ける情緒的パワーが低下するのだと思う。ここはあくまで、窮極まであと一歩と迫った香厳に対するアドバイスの話であるが、冥想と縁遠い普通の現代人に対しては、やや様相が異なるものの情緒的なパワーの話題としては共通する。

 

※今情緒パワーを考えると、恐怖パワーというのはもっとパワフルかもしれない。(2022.1.20)

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天国と地獄の卒業-2

2023-01-20 07:34:42 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎未顕現のブラフマンと不死

 

OSHOバグワンの天国と地獄と光明(ニルヴァーナ)の基本を再掲。

『地獄には、始まりはない。が、それは終わる。

 

天国には、始まりも終わりもある。それは始まり、そして終わる。

 

光明には、始まりしかなく終わりがない。ひとたび始まれば、終わりは来ない。』

(イーシャ・ウパニシャッド/OSHO/市民出版社P299から引用)

 

これに引き続いて、イーシャ・ウパニシャッドの経文が出る。

『顕現したブラフマンと未顕現のブラフマンとを

あわせて同時に知る者は

顕現したブラフマンの崇拝によっては

死を超え

未顕現のブラフマンの崇拝によっては

不死に達する』

(上掲書P310から引用)

 

顕現したブラフマンとは、天国と地獄の世界。万物が一となったアートマンがブラフマンに上昇していくシーンを思い浮かべる人もいるだろう。そのシーンでは、既にアートマンもブラフマンも死の世界のことだが、その死の世界は生の世界を含む死の世界。生は死の世界の一部分。

 

そういう理解において、『顕現したブラフマンの崇拝によっては 死を超え』るのだと思う。OSHOバグワンは、死を超えるとは死の恐怖を克服することだとまとめている。生があれば必ず死があるというワンセットを、苦と見ず当たり前と見るからだ。逆に死を避けられるものと見るから苦悩、不幸が始まる。

 

次に不死が出てくる。不死は永劫不壊。未顕現のブラフマンは、光明にしてビッグ・バン以前の宇宙。と言っても物質世界だけのことではない。

 

残念ながらOSHOバグワンは、未顕現のブラフマンは不滅であるとは言っているが、どう不滅であるかは言っていない。ただ未顕現のブラフマンを見る方法として、禅の父母が生まれる以前の自分を見る手法と、密教の未顕現のブラフマンの観想法を挙げているにとどまる。

 

そこで、真理を覆い隠しているのはなんと光であるという説明に続く。

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