◎光明
(2006-02-17)
『わたしは八時ごろ眠った。それは眠りとはちがっていた。いまなら、パタンジャリが睡眠とサマーディは似ているという意味を理解できる。ちがいはただひとつ―――サマーディのなかで、あなたは完全にめざめていて、また同時に眠ってもいる。眠っていて同時にさめている。からだ全体はリラックスしている。肉体のどの細胞もひとつ残らず完全にリラックスしている。あらゆる機能がリラックスしている。しかしなおかつ、覚醒の光があなたの内で燃えている。明るく、煙もださずに――。あなたは目を見はっていて、しかもリラックスしている。ゆったり としていて、しかも完全にめざめている。肉体は可能なかぎりもっとも深い眠りにはいっていながら、意識はその絶頂にある。意識の頂点と肉体の谷間が出会うのだ。
わたしは眠りについた。それはとても不思議な眠りだった。からだは眠っていたが、わたしはさめていた。それはじつに奇妙だった。まるで、自分がふたつの方向に、ふたつの次元に引き裂かれているかのようだった。まるで、二極性がその極致に達したかのようだった。自分が同時にその両極であるかのようだった。正と負が出会っていた。睡眠と覚醒が出会っていた。死と生が出会っていた。それこそ、「創造主と創造物が出会う」と言うにふさわしい瞬間だ。
それは気味が悪かった。生まれてはじめて、それはまさしく根底からあなたにショックをあたえる。あなたの基盤を揺るがす。その体験のあと、あなたは二度ともう同じあなたではありえない。それはあなたの生にひとつの新しいヴィジョンを、ひとつの新しい質をもたらすのだ。
一二時近くになって、突然目が開いた。わたしが開いたのではない。眠りがなにかべつなものによって破られた。わたしは、部屋の中の自分のまわりにひとつの大いなる<現存>を感じた。それはとても小さな部屋だった。わたしはあたり一面に脈動する生命を感じとった。大いなる波動だ。ほとんどハリケーンといってもいい。光の、よろこびの、エクスタシーの大いなる嵐---。
それが実に途方もなく現実的であるあまり、なにもかも非現実的になってしまった。部屋の壁が非現実的になり、家が非現実的になり、自分自身のからだも非現実的になった・・・
その夜、もうひとつの現実(リアリティー)がその扉を開いた。もうひとつの次元が姿をあらわしたのだ。突如として、それはそこにあった。もうひとつのリアリティー、分離したリアリティー、本当に現実(リアル)なるもの―――あるいは呼びたければどう呼んでもいい。<神>と呼んでもいいし、<真理>と呼んでもいい。<ダルマ>と呼んでもいいし、<タオ>と呼んでも、ほかのどんな呼び方をしてもいい。
それは無名なるものだった。しかし、それは厳然としてそこにあった。じつにすきとおっていて、実に透明で、しかも手でさわれるぐらい確固としていた。そのおかげで、部屋の中は窒息しそうだった。それはトゥーマッチで、わたしにはまだそれを吸収する力がなかった。
(中略)
わたしはなにかべつなエネルギーの手中にあった。
生まれてはじめて、わたしは孤独 (alone)ではなかった。生まれてはじめて、わたしはもう、ひとりの個ではなかった。生まれてはじめて、水滴は大洋に落ちたのだ。いまや、海全体がわたしのものだった。わたしが海だった。そこには限界というものがなかった。まるでなんでも好きなことができるかのような、 途方もない力が湧いてきた。そこにわたしはいなかった。ただその力だけがあったのだ。
(中略)
わたしはあたりを見まわした。一本の木が途方もなく光り輝いていた。モールシュリの木だ。それがわたしを惹きつけた。それ自身にむかってわたしを引き寄せた。わたしがそれを選んだのではなかった。神自身がそれを選んだのだ。わたしはその木のところへ行くと、その下に腰をおろした。そこへすわると同時に、ものごとが落ち着きはじめた。全宇宙がひとつの天恵となった。』
(反逆のブッダ/ヴァサント・ジョン/メルクマール社P136-140から引用)
最初の『二極性の極致』は、天国と地獄の結婚直前なのか、神人合一直前の様子か。
次の「光の、よろこびの、エクスタシーの大いなる嵐」は、あたり一面に脈動する生命で、最初のリアリティで、非現実。これは、サビカルパ・サマーディ、有、アートマンと思われる。
この次に無名という言葉で表現できないものが来る。これは、最初のとは別のリアリティ。OSHOバグワンはそれを吸収できず、外出し、庭園のある樹木の下に坐った。これは、ニルビカルパ・サマーディ、無、ニルヴァーナと思われる。
OSHOは、この直前には、上体を立てた冥想姿勢でなく、意識は醒めながら深い睡眠にあった。このサマーディが呼吸停止、心拍停止で起きたかどうかは定かでないが、限りなくそれに近い深い睡眠で起きたのかもしれない。
熟眠中の夢を見ない状態で、それは起こった。
またこの大悟覚醒が、クンダリーニ・ヨーガ型か、只管打坐型かといえば、どちらでもないように思う。