◎屍解
(2020-12-03)
朱橘は、淮南の人で翠陽と号す。彼の母が孕む時に大きさが斗ほどの一つの星が天上から飛んで口に入ると夢を見た。妊娠末期、なかなか生まれなかったところ、門前に一人の道士が来て、橘の実を与え、これを食べれば腹の中の子が直ちに産まれるであろうと告げ、母が食べると果たして直ちに生まれた。
朱橘はひたすら仙道修行にいそしみ、世の名利を厭い、風清き夕暮れなども一人池水の畔にたたずんで、葆光抱一の道の玄妙にして、服気飡霞が長寿を得る手段であることを悟った。
ある日一道人がやってきて、手に橘の実を持って、次のように歌った。
橘々識(し)る人無し 惟だ朱を姓とする人がある
まさにこの端的を知る
この道人の様子がいかにも気狂いじみていたので、人々は皆彼を指してあざ笑い、誰一人この歌に注意を払わなかったが、朱橘だけは、これが自分のことだと知って大いに喜んで、彼の後について行った。村はずれの野原に出たところで、朱橘は道人に『貴殿は鞠君子という名の真人ではないか』と尋ねると、道人は、その通りだと答え、皖公山に行って仙道を修行するようにと勧めるとそのまま雲に乗って昇天していった。
朱橘は、言いつけどおり皖公山(安徽省懐寧県。隋代、禅の三祖僧さんもここに棲んだ)で修行を重ねた。一日に一回小ぎれいな一人の小童が出て来て朱橘の門前にある池水で手を洗っていたが、その動作が極めて軽快で、ひらりひらりと往来する姿が丁度何か物の影が揺らめく様であった。
近所の人がこれを訝しんで密かに小童の後をつけると、彼は朱橘の家の中へ入って行ったので、室の中を覗いてみると、室の真ん中に朱橘が端然と坐っていただけだった。件の小童は、朱橘の出神だったのだと悟り、近所の人は彼を尊敬するようになった。
宋の理宗皇帝の淳祐二年、朱橘は、郷人の陳六に対し、自分は県庁の官舎の前で仙化するので、その際身体を清い土で上から覆ってくれと頼んだ。
やがてその日になって、朱橘の遺骸を陳六が泥で覆った。するとそこに酔っ払った警官がやってきて、その遺骸を見て大いに笑い、杖でもってこれを突き崩し、ぐしゃぐしゃにした。すると泥土は四方へ散ったが、朱橘の遺骸は見当たらず消え失せていた。
これは、全然長寿ではない。小童と見える出神はいかにも大きい。今生の修行だけで出来たものだろうか。
屍解を公表、公開するというのは、そのような狙いのあるもの。見聞した人は、いつかの来世でチャレンジするようなこともあるのだろう。