◎光明の始まり
(2006-02-16)
OSHOは、一年間の精神の暗夜を過ごした。そして、7日間の神秘体験を経て、1953年3月21日に大悟した。
その七日間の始めに、OSHOは自分自身と取りくむのをやめて、探求がやみ、何かを追い求めなくなり、何かが起こるのを期待しなくなった。OSHOは、実に希望のないお手上げ状態で生きていたが、同時に何かが湧き上がってきてもいた。希望が不在だったが、とても平静で、穏やかで、まとまっていて、中心(センター)がすわっていたので、希望も絶望も消え失せていた。
希望も絶望もないこの状態は、原始仏教の分類で言えば、無所有処定(なにもかもがないという意識)または、非想非非想処定(なにもかもがないという意識もないという状態)であろう。どちらにしても、窮極のものではなく、一歩前の段階であるように思う。また、これほどまでに細かく心境を描写してもらわないとそうした分析すらできないものだけれど、わざわざわかるように説明してくれたOSHOの親切心が感じられる。
『その希望のなさは、絶対的で全面的なものだった。希望が消えて、それといっしょにその片われである絶望もまた消え失せていたのだ。それはまったく新しい経験だった。希望がないという状態---。それは否定的消極的な境地ではなかった。・・・・・・完全に肯定的、積極的だった。それはただの不在ではなかった。ある<現存>が感じられた。わたしの中でなにかがあふれ出していた。氾濫していた。
そして、わたしがお手上げだったと言うのも、辞書に出ているような文字どおりの意味ではない。それは単に、わたしが無自己だったということだ。それがわたしのお手上げという意味なのだ。わたしは自分がいないという事実を認識した。
だとしたら、自分というものに依って立つことはできない。だとしたら、自分自身の地歩に立つことはできない。・・・・・わたしは・・・・・底なしの奈落に落ちこんでいた。しかし、そこに恐怖はなかった。なにひとつ守るべきものはなかったからだ。そこに恐怖はなかった。だれもこわがる者がいなかったのだから---。』
(反逆のブッダ/ヴァサント・ジョン/メルクマール社P133から引用)