◎見性からの深まり
ケン・ウィルバーはその心理と社会を全部まとめた統合的マトリックス・世界観ばかりが取り上げられている。実際にインタ-ネットで検索してみると、ケン・ウィルバーに関するサイトは、その世界観をとりあげているものがほとんどと言ってよいだろう。しかしながら彼のバックボーンはその見性体験にあり、古代秘教型の、「窮極(神・仏・タオ)からあらゆる現実が発生している」という方向性の説明を、心理学者や社会学者が理論づけしやすいように述べているにすぎない。
だから少なくとも見性体験がない人間が、彼の説が正しいということを、自信をもって確信することはできないのだ。ケン・ウィルバーの周辺には、ヨーギ(ヨーガのマスター)、カバリスト、禅者、冥想を用いるソウシャル・ワーカーなど冥想に縁のある人がかなり多いので、中には何人か見性者がいて、それを実際に確認できている人がいてもおかしくない環境なのだろうと思う。
ケン・ウィルバーは、すでに見性あるいは悟りの体験が何度かあったと述べているが、最初の著書を二十歳そこそこで出版したが、おそらくはそれ以前に、それはあったのだと思う。
ただその体験があった後も結跏趺坐の冥想を20年継続して、一つのテーマを持ちながら冥想を継続していった。それはラマナ・マハリシの「夢を見ない深い眠りの中に存在しないものは、リアルではない」という言葉だった。これは、夢を見ない深い眠りこそが窮極(神、仏、タオ)であるという意味である。
人間には目覚めている状態、夢を見ている状態、夢を見ていない状態とあるが、その見性あるいは悟り体験は、最初は目覚めている状態のときだけに起こったという。ケン・ウィルバーにとってショックだったのは、彼の窮極を認識している状態は、目覚めている時間帯限りで、寝ている時間帯には窮極から離れてしまっていたことであった。それはいかにも本物の状態ではないのである。真正の覚者は、睡眠中でも窮極を自覚しながら意識が継続していることを彼は知っていた。
そして、その後の真剣な坐禅修行を続けていく一方、チベット密教・ゾクチェンのチャグダッド・トゥルク・リンポチェ師の11日間の集中的なセッションに参加した時に、彼の自己というものの大死一番が起こり、自己は完全に死んでしまい、そこから意識が睡眠中でも継続するようになり、それからずっと継続していると述べる。
その状態は、目覚めている状態、夢を見ている状態、眠っている状態の間を移り変わっていっても意識が断絶することなく、そこには明瞭な鏡のような心、「観照者」=本来の自己しかなかったと彼は述べている。この状態でワン・テイストとか、仏性とか、菩提心とか「ブラフマンであるあなた自身のアートマン」(うまい言い方ですね)が現れるとしている。