アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

古事記の屋根を突き破るという布石

2024-03-20 03:36:33 | ジェイド・タブレット

ジェイド・タブレット-10-1

◎垂直上昇への仕掛け-1

◎導師が頭頂の封印を切る

 

人間にとって、限界あるいは天井を突き破る経験とは、メンタル体での脱身の場面とコーザル体の上昇が最終的にブラフマンに突入する2場面に限られると思われる。

最初の脱身では、頭頂の封印を切りに2、3柱の神霊がやってくると言われ、ブラフマン突入シーンでは、突入するというだけで、詳細は分かっていない。

これについて、日本の誇る神話古事記では、上方から天井を破るモチーフと下方から天井を破るモチーフの両方を出してくれている。この両方を実現することにより、人は神になる、あるいは人は自分が神であったことに気づく。

上方から天井を破るモチーフは、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が、天の安の河原で天照大神と誓約を交わし両性具有を行った直後に起きた事件であって、この事件により天照大神が天の岩戸にお隠れになった。

具体的には天照大神が高天原の被服工場にいた際に、素戔嗚尊がその工場の天井を破り、その穴から皮を剝いだまだら馬を真っ逆さまに落とし、これを見て驚いた女工が陰部を機織りの部材に突き刺して亡くなったもの。

 

これは、上方から屋根を破るというのが、脱身時に頭頂の封印を導師が切るのに当たる。頭頂の封印を切ってもらって、メンタル体で出るが、アストラル体での脱身では、ニルヴァーナに到達しないことは、既に知られている。

メンタル体で出ることと、ニルヴァーナに到達することは別のことだが、人間にとって、肉体から出るというのは、とても驚かされる出来事であることは、OSHOバグワンやダンテス・ダイジも表明している。

なによりメンタル体で肉体を出ることは、悟りではないが、悟りの前段階として重要なエポックなのだ。

 

一方、下方から天井を破るモチーフは、意外なことに古事記の海幸彦山幸彦の段にある。山幸彦は、神武天皇の祖父だが、山幸彦が老いたる子であるウガヤフキアエズノ命(鵜葺草葺不合命)を産むのが、神秘家にとっては悟りに当たる。山幸彦は人間界より一段下の竜宮界で修行して後、竜身の妻が、屋根を鵜の羽で葺きおわっていない産屋でウガヤフキアエズノ命を産み落とす。この屋根が完成していない世界で、人間として完成した完全人であるアダムカドモンであるウガヤフキアエズノ命を産むというのが、人間が完成に至るエピソードになる。

完全人は、既に頭頂の口が開いていて神人合一するばかりの状態で生まれてきたということ。

 

古事記に注目する神秘家には、この2件の屋根の破れは、注目すべき伏線として扱われてきた。最初の屋根の破れは神々の世界で起き、最後の屋根の破れは人が神になる発端として起きた。

屋根が破れていることは、人と神の間には不壊なる壁などないことを示す。禅では啐啄同機(そったくどうき)と示す。

完全人であるウガヤフキアエズノ命は、第五身体コーザル体のシンボルでもある。コーザル体は頭頂の封印が破れれば神に向かって上昇するのだ。

古事記は、上つ巻、中つ巻、下つ巻とあって、上つ巻は、ウガヤフキアエズの段で終わっている。上つ巻の内容は、この時代にすべて現実化する予言であると言われている(出口王仁三郎)。

それはすなわち、すべての人間が、老いたる子を産んで大悟覚醒するという意味であって、誰か特定の人物だけが悟りを開くということではない。

 

人は個の極みから神・仏へと進むが、順路として第五身体から第六身体、第七身体、あるいはコーザル体、アートマンからブラフマン、ニルヴァーナと機序が示されるわりには、その間には深淵が横たわっており、そこでは逆転が起こることはつとに知られている。

古事記のウガヤフキアエズのところでは、卑しい竜女がウガヤフキアエズという人間を産むのだが、これが人間の進化すなわちジャンプアウト(垂直上昇)を象徴している。これは逆転の示唆でもある。

さてコーザル体の上昇が最終的にブラフマンに突入するシーンは、これが悟り、大悟覚醒と呼ばれるものである。大悟覚醒には、有の側と無の側があるが、どちらも人間から見れば悟りであって、最初に有の側の悟りがある。この際個たる人間は、宇宙全体、時間全体、すべての物質そしてすべての物質でないものであるところの神と合一する。これを入我我入、サビカルパ・サマーディ、自分が神であったことに気づくなどと表現する。

その先に無の側の悟り、ニルビカルパ・サマーディがある。

また、このような天国も地獄も超える話は、しばしば、菩薩オンリーと限定される場合がある。死を超える話、悪を相手にする話は、誤解されることが多いからである。

菩薩とは見神、見仏、見性を経た人のこと。

この一章は、見神、見仏、見性を経た人専用として読まれた方がよいかもしれない。

  海幸彦山幸彦-1(無間勝間(めなしかたま)の神船に乗り神を知る)
  海幸彦山幸彦-2(恐るべきライフ・スタイルの統一化と日本)
  海幸彦山幸彦-3(潮乾珠、潮満珠、両方揃って伊都能売の魂)
  海幸彦山幸彦-4(聖王鵜葺草葺不合命が誕生し世界の経綸は完成)

※『『天照大御神、忌服屋に坐まして、神御衣織らしめ給ふときに、其の服屋の頂を穿ちて、天の斑馬を逆剥ぎに剥ぎて堕し入るるときに、天の御衣織女、見驚きて梭に陰上を衝きて死せき』
 斯う云ふ事件が起つたので御座います。ここで機を織るといふことは、世界の経綸といふことであります。経と緯との仕組をして頂いて居つたのであります。すると此経綸を妨げた。天の斑馬暴れ馬の皮を逆剥にして、上からどつと放したので、機を織つて居た稚比売の命は大変に驚いた。驚いた途端に梭に秀処を刺し亡くなつてお了ひになつたのであります。さあ大変な騒動になつて来た。』(霊界物語 第12巻第29章 子生の誓から引用)

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ダンテス・ダイジのコーザル体

2024-03-19 03:50:48 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-09-05

◎コーザル体・完全人・両性具有-05

◎クンダリーニ上昇

 

コーザル体には、体と用、すなわち器質・形状面と機能面での説明があり得るが、機能面で説明したのは、ダンテス・ダイジである。

彼は、その著書「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」のクンダリーニ上昇プロセスの中で、コーザル体の位置づけを明らかにしている。

 

曰く、「自己意識は頭頂より突出して透明な知覚を顕す」というところで、これがコーザル体・メンタル体(サハスラーラ)であると示す。

(※コーザル体にはチャクラはない。)

次に「コーザル体の離脱」の段として、純粋意識が頭頂を離脱して、地球の次元、宇宙の次元の壁をも越えて現象宇宙を上昇することを示す。

更にコーザル体は上昇を続け七つの次元を超えて、中心太陽に向かって進む。これを彼はコーザル体の光の軌道と呼ぶ。

ダンテス・ダイジによれば、コーザル体は肉体みたいな形ではなく、球形の光。最後の個別性とは自我の最後の形であるとする。

 

更に、彼のメシアン・ハンドブック断片から

『肉体・エーテル体・アストラル体

メンタル体・コーザル体を死ねば

君と君の世界は消滅して

君でない君自身は

もしくは

ニルヴァーナに目覚める』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版p9から引用)

 

コーザル体も死んで、ようやく神に出会うのだ。

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OSHOのコーザル体

2024-03-18 03:27:54 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-09-10

◎コーザル体・完全人・両性具有-10

◎夢と現実は一つで、至福だけがある

 

コーザル体(第五身体)を器質面・形状面から説明しているのが、OSHOバグワン。しかし、コーザル体は我ら常識的社会人の日常生活には全然登場してこない(かのように見える)ので、その説明だけでは、まずピンとは来ない。

コーザル体にあっては、無思考が始まり、言葉を介さないコミュニケーションが可能であり、男女の区別がなくなり、自他の区別も問題なくなる・・・・・とくればますます日常感覚ではとらえられないが、とどめに、ここでは夢と現実は一つになり、コーザル体には至福しかないと打たれると、混乱するばかりである。

まずコーザル体にあっては、生命は息のように中に入っては出ていく。入息が生、出息が死のように。

魂はコーザル体で自由を経験する。これに対して天国と地獄はメンタル体での経験である。

(故に解脱(モクシャ)はコーザル体での経験と彼は言うが、それはもはや経験ではなく、「体験とは言えない体験」に近いのではないか。)

メンタル体以前の睡眠状態は、いわば夢遊病だ。それに対してコーザル体では睡眠状態は「目覚め」だ(奇跡の探究2/和尚/市民出版社P182-183による)。おそらく、「眠っている間も覚醒している」というインドでよく言われる状態は、コーザル体のことなのだろう。

コーザル体は、第五次元だが、「私は在る」という感覚のうち、ここでは「私=エゴ」と「在る」という感覚が分離する。ここで次のボディに進むには、「私=エゴ」が死に「在る」が残る。(上掲書P187-188による)

というのは、エゴとは他人に対する要求であって、エゴは常に他人との対比で勝とうとするが、コーザル体では、エゴがないので、もはや他者もおらず、もうどんな競争もないからである。(上掲書P359による)

こうして、ここには至福しかなくなる。『痛みも喜びもなく束縛も悲しみもない』(上掲書P358から引用)。

コーザル体には、メンタル体と同様に思考の波動がある。その他にコーザル体には、実存の波動がある。このエネルギーの波動は、人の知り得るエネルギーの中で最も微妙微細なるものである。

そのため、自分自身が騒々しい思考で一杯になっているとこの精妙な波動を見逃してしまう。(上掲書P257-258による)

(昨今のスマホアプリなどはこの意味で、危険極まりない。人の覚醒へ向かうチャンスを極小化するという意味において。)

完全な無思考はコーザル体で達成される。(上掲書P400による)ここで人は思考を起こすも起こさないも思いのままとなり、ここで人は自分自身の主になる。(上掲書P407による)これぞウパニシャッドで言うところの独存である。

『第五身体は人間として最も可能なものの頂上だ。第五身体は個体性の頂点、愛の、慈悲の、価値あるものすべての頂点だ。』(秘教の心理学/OSHO/メルクマール社P168から引用)

二人が無思考で、そばに居れば、実存のレベルでコミュニュケーションが起こる。これは言葉を介さない以心伝心である。猫は既に無思考である。

ここから先は言葉のない世界が始まる。第六身体は、まったく言葉がない世界。

※新約聖書「ヨハネによる福音書」の冒頭『初めに言葉ありき』はどういう意図で書いたのか、考えさせられるところである。

 

コーザル体で夢と現実はひとつになる。(秘教の心理学p137)

このようにコーザル体では、およそ現代人の意識生活、社会通念、社会常識とはまったくかけ離れた世界が展開してるが、これこそ実は真実により近い感覚であり、存在の根っこなのだ。

 

蛇足だが、OSHOバグワンは、クンダリーニ上昇における各ボディの死のメカニズムすら知悉している。曰く、

『第七身体に入るとそれまでの6つの身体は滅びる』(前掲書p471)と。

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出口王仁三郎のコーザル体-5-両性具有=完全無欠の神人

2024-03-17 03:57:41 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-09-09

◎コーザル体・完全人・両性具有-09

◎両性具有=完全無欠の神人

 

出口王仁三郎は、第二次大本事件の公判での裁判長からの質問に対して、伊都能売こそが、厳の霊(男性)、瑞の霊(女性)の合体した完全無欠の身魂であることを、古事記の素盞嗚尊と天照大神の誓約(うけひ)のシーンを引いてわざわざ証明してみせている。

出口王仁三郎は、天照大神と、素盞嗚尊の誓いのシーンには、伊都能売神という言葉は全く出て来ないにもかかわらず、『天照大神の霊と、素盞嗚尊の霊とが一緒になつたのが、伊都能売神になる』とまで、洞察すべきと断言している。

伊都能売神の完全無欠性は、人間の一つの極致・極点であることは、日常感覚ではわかりにくいが、疑うべきことではないと、老婆親切にも教えてくれているのだ。

 

『問 それは後で訊く、大本では霊の性質として、厳の霊、瑞の霊と云ふことを説いて居りますか。

答 説いて居ります。

問 厳の霊、是はどう云ふことですか。

答 ちよつと是は……厳の霊と云ふと、古事記にあります、伊都能売神と云ふのがあります、厳の霊と云ふのは厳粛な魂、荒魂と和魂とが勝つた神様が、厳の霊と云ふのであります。

 奇魂と幸魂とが勝つた神様が瑞の霊と云ふのです。

 霊魂上で云へば、愛魂が即ち幸魂です、奇魂は智恵の魂で、是等の魂の勝つた神様を、瑞の霊と云ふ。

 和魂は親魂と云ひ、是と荒魂の勇魂の勝つた神様のことを厳の霊と云ふ。 之をちよつと申上げます、ちよつと長くなるのでありますが、聴いて貰へまへぬか。

 

問 判つて居りますが、簡単に判り易く云つて御覧なさい。

答 伊邪那岐命が素盞嗚尊に対して、「お前は泣いてばかり居るならば母の国に行け」と云はれたので、「天照大神に一つ御挨拶を申上げて行かう」と云うて高天原に上られた。

 其の時、天照大神は、「是は素盞嗚尊が、天津国を取りに来た」と思つて、武装を遂げて御迎へになつた。

 其の時に素盞嗚尊は「私はさうぢやない」と云うた。「私は父の命令に依つて母の国に帰りますから、御挨拶に来ました」と云つたら、「さうぢやない、お前は腕力に依つて此の国を盗みに来たのだらう」と云はれた。

 其の時に、天照大神の耳の輪と頚の輪と、五百津の珠を渡して、「之に儂の魂は通つて居るから見て呉れ」と仰しやつた。

 其の時に、素盞嗚尊が珠を受けて、「狭噛みにかみて、吹棄つる息吹きの狭霧になりませる神の御名は、天之忍穂耳命、其の次の霊が天之菩比能命、其の次の霊が是は天津日子根命、それから其の次の霊が活津日子根命、其の次の霊が熊野久須毘命」、此の五つの霊が現れたと、是は厳の霊と云ふのです、厳粛の厳の霊です。或は又、五つの霊と云ふ。

 「それならばお前の心を」と云はれて、素盞嗚尊は自分の十拳の劔を天照大神に渡され、之を一振り振つたら三つに折れてしまつた。

 「さがみにかみて吹棄つる気吹の狭霧になりませる神が、多紀理毘売命、次に市寸島比売命、其の次が、多岐都比売命」、皆是は女の神様です。三柱の神様です。愛と智との神様で、実におとなしい神様です。

 

 それで、素盞嗚尊の悪意の無いことが判つたと云ふ。それで瑞の霊、厳の霊と云ふのが出来た。

 それで、天照大神の霊と、素盞嗚尊の霊とが一緒になつたのが、伊都能売神になるのであります。

 是は私が云ふことでありませぬで、古事記、日本書紀にちやんと出て居ります。』

(大本史料集成3巻/池田昭編/三一書房P392から引用)( 二次大本事件関係資料)

 

この天照大神と素盞嗚尊の合体による伊都能売が、2回ある両性具有のうち、人間の両性具有に相当すると見る。

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いかにネガティブ予言に対処するか

2024-03-16 06:04:12 | メインストリーム予言と先行モデル

◎予言と覚醒

 

元日というめでたい日に起きた能登地震で、神様には何でもありなのかと改めて感じている人の多い昨今、南海トラフ地震、ネオ関東大震災も心配に思う人も少なくないだろう。

ネガティブ予言は世の中に多いが、その当たる予言を知ったところで、自分や家族が無事に生き残れるかどうかは、神のみぞ知る。

昔からネガティブ予言は、一般に最も聞きたくない情報である。ネガティブ予言でなくとも、第二次世界大戦末期に、大日本帝国軍の戦況が思わしくない時に、なぜか最後まで現地(満州やサイパンなど)に残った人は現地に財産があった人が多かったなどとという話を聞けば、なるほどと思うところがあるものだ。津波は生活も財産も生命も奪うからこそ、失うものの多い人ほど大地震や敵国からのミサイル・空襲などのネガティブ予言は聞きたくないものだと思う。

 

ネガティブ予言を聞いた時にとる代表的な態度は、

  • 防災グッズを買う、避難場所・避難経路を確認する。
  • 大地震などネガティブ予言が実現しないように祈る。

などが代表的なものだと思う。

それ以外に、そもそもネガティブ予言が起こる原因であるところのこの世の地獄的有様をいささかなりとも改善するために、少なくとも自分だけは、悪いことをしないで善いことをすること、というのもある。

 

さて1980年頃、ダンテス・ダイジは、日本の大地震はどこで起きるかという質問に対し、どこで起きるか決まっていないと答えた。その後日本は、阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本地震、能登地震などに見舞われており、確かに日本のほとんどの地域で起こる可能性があることを見越した発言だったように思う。

ダンテス・ダイジは、さらに極ジャンプなどにも触れて、人間の進化すなわち至福千年(みろくの世)の実現とそうした地球規模の地殻変動は、必ずしも同時には起こらないとも示唆した。つまりたとえ世の中のすべての人が善いことだけをして悪いことをしない人になろうが、なるまいが、それと関係なく地球規模の大地殻変動は起こり得ると言っているわけである。

地球規模の大地殻変動とは、滄海変じて桑田となる(桑畑が大海と変じ、逆に大海が干上がって桑畑となる)とか、地表が何千フィートも一瞬にして上昇する(『亀岡は海抜2千尺になる。音もなくすっと上がるのである。』新月の光(下)P181から引用/出口王仁三郎予言)というようなこと。

 

このダンテス・ダイジの示唆で当惑したのは、日本の終わりが世界の終わりなのかどうかわからないこと。そして

日本の終わりは、日本人全体の覚醒とは同期しないと言っているのだろうかということ。同様に世界の終わりは、世界人類全体の覚醒とは同期しないと言っているのだろうかということだった。

すなわち、新月の光には、日本最後の時が書いてある。それは、『東京で仕組をするが(駿河)美濃尾張』ということで、東京で世界制覇計画を立てることが原因で発生するとある。ところが日本最後の時が、地球全体の旧時代の終わりかどうかもわからないのだ。

 

心配な人のために出口王仁三郎予言を2件上げる。

『〇大祓

大祓になったら大変なことになる。屋根の上にあるものは下に降りられぬ時が来る。

(昭和十九年四月九日)』

(新月の光(下)P146から引用)

 

『○最後の時

最後の時は人を助ける必要はない。親子でも神様から助けるものと助けぬものと定まっているのだから、そんなことをしたら神様の邪魔になる。自分だけ逃げたらよいのや。』

(新月の光(下)P145から引用)

出口王仁三郎は、政治の動向や外交、戦争の行く末について、人間同士で談義することは好まず、ひたすら神様の思し召しによるという態度であった。

ダンテス・ダイジも自分が生き残ろうが亡くなろうが、そんなことは自分の知ったことではない(神様の思し召しによる)という姿勢で揺るがなかった。

 

最近は、能登地震、千葉の群発地震で人心が揺れることが多いが、コスパ、タイパ、メリデメを離れ、一体自分は何のために生きているかを冥想により見つめることもよいのではないかと思う。

ネガティブ予言を知ることも、自分を覗き込むための一つのきっかけなのだ。

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出口王仁三郎のコーザル体-4-伊都能売の機能

2024-03-16 03:01:32 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-09-08

◎コーザル体・完全人・両性具有-08

◎伊都能売の機能

 

出口王仁三郎による、伊都能売の機能の説明は以下のとおり。

個生命には、荒魂、和魂、幸魂、奇魂の四魂があって、そのうち男性っぽいのが、荒魂、和魂のパワーが勝っている厳(いず)の身魂。一方女性っぽいのが、奇魂、幸魂のパワーが勝っている瑞(みず)の身魂。

伊都能売の身魂とは、男女いずれにも偏せず、バランスがとれており、臨機応変の変化を直ちにレスポンスできる性質を持つ。そして、厳、瑞が調和した完全無欠のものである。

出口王仁三郎は、伊都能売について『完全無欠にして明暗、遠近、大小、賢愚、肖不肖、善悪等の自由自在の活動をなし得る至粋至純の神霊の活用なり。』とまで、その至高であるところを賞賛している。

 

『つぎに伊都能売の身魂に就て略述すれば、この身魂は、一に月の霊魂ともいひ、五六七(みろく)の身魂と称せらる。五六七の身魂は、厳の身魂に偏せず、瑞の身魂にも偏せず、厳、瑞の身魂を相調和したる完全無欠のものなり。

 しかして伊都能売の身魂は、最も反省力の強き活動を備へて、太陽のごとく常に同じ円形を保つことなく、地球のごとく常に同形を保ちて同所に固着すること無く、日夜天地の間を公行して、明となり、暗となり或は上弦の月となり、また下弦の月となり、半円となり、満月となり、時々刻々に省みるの実証を示しゐるなり。

 かくのごとく吾人の身魂の活用し得るを、伊都能売の身魂といふ。伊都能売の身魂の活動は、時として瑞の身魂と同一視され、或は変性女子の身魂と誤解さるる事あり。

 伊都能売の身魂は、変性男子の身魂にも非ず、また変性女子の身魂にもあらず。完全無欠にして明暗、遠近、大小、賢愚、肖不肖、善悪等の自由自在の活動をなし得る至粋至純の神霊の活用なり。

 かくのごとく自由自在の神人たることを得ば、初めて、五六七の活動をなし得べきなり。』

(霊界物語第6巻-5章霊主体従巳 体五霊五)

 

ところが、この出口王仁三郎の説明は、一古神道家たる彼個人の見解ではなかった。

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アヴァンギャルド精神世界から20年

2024-03-15 13:50:36 | 時代にFace it

◎gooblog20周年に寄せて

gooblog 20周年おめでとうございます。私のblog『アヴァターラ・神のまにまに』は、前身の『アヴァンギャルド精神世界』が、2005年2月19日スタートですので、満20年には足りませんが、足かけ20年になります。

その間ほぼ毎日記事をアップし、記事をアップできなかったのは、わずか8日間と記憶しています。平日については、朝出勤前に記事をアップしてから出勤するのが基本的な生活ペースでした。

またこのブログは、一貫してgooでやってきました。hatena、livedoor、楽天、ameba、fc2など有力ブログは、ありましたが、母体がNTTグループであることからのセキュリティの優位性、楽天のように禁止ワードが多すぎないこと、著作権の帰属の問題など、総合的に考慮して、gooblogを使い続けて間違いなかったと思います。

ただ、初期の頃は、コメントは書き放題であって、削除機能もなかったから、実質的に掲示板と変わることはありませんでした。今も昔もそうですが、記事と何の関係もないコメントを書く人は多いもので、そういう人は自分でブログを立ち上げるか、掲示板に書くかすればよいのにと思っていました。

何年かたって、コメント公開非公開承認機能、削除機能がついてからは、記事に関係のないコメントはなくなりました。

 

さて人間の知識は、樹木のようなものであり、いろいろな書物に実際に当たっていく中で、芽が出て、葉も出て枝が増え、やがて大樹のようになっていくものです。2005年当時は、はかない若芽のようなブログであり、とても痩せて力のないブログでしたが、20年たってみれば、それなりにわかってきたところも多いように思います。

40代後半に始めた精神世界をテーマにしたブログですが、読者なかりせば、20年も続けることはできませんでした。またブログをやっていなければ、犬死にのような人生だったであろうというのもまた実感です。

精神世界、宗教、スピリチュアルテーマのブログは、既存宗教団体、カルト、そして仕事の関係でなかなか自由に書くことは難しく、また実名で書くのも困難な状況があるのですが、ここまで継続できているのは、gooblogと読者の方々のおかげです。これまでの略20年ありがとうございました。

20年前にブログを始めた頃の偽らざる気持としては、時代の存続のため、人類存続のために、生活において冥想・瞑想が根付くことの一助になれば、ということが動機でした。そして、宗派を超え、無宗派であってもよいが、冥想実践・研究するブログが雨後の竹の子のように殖えて行ってくれればよいなどと思っていました。

残念ながら20年たってみれば、そのような超宗派的な冥想・瞑想の研究、普及を標榜するブログは、わがブログを除いてほとんど見当たらない状態です。勿論特定の一宗派の道を進んでいく宗教ブログも大変結構なことだと考えてはいます。

さてSNS全体が、いわば『考えない人』向けにプロパガンダの嵐のちまたになっている現在、gooblogは闇の荒海の灯台のようなものです。gooblogの存続と発展を希望します。

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出口王仁三郎のコーザル体-3-直霊、神直日、大直日

2024-03-15 03:49:38 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-09-07

◎コーザル体・完全人・両性具有-07

◎直霊、神直日、大直日

 

古事記では、神直毘神、大直毘神、伊都能売神、と微妙な順序で描いている。

まず、神直日は神様の直霊、大直日は人間の直霊(新月の光/木庭次守/上巻P313)という説明がある。更に直霊の対極として曲霊の存在がある(霊界物語第10巻第二九章)。

よって、ここでいう人間の直霊とは、天国的なものも地獄的なものも存在するレベルに通用。また神直日とは、アートマンに該当するように思う。

 

『神直日とは、天帝の本霊たる四魂に具有せる直霊魂を謂ふ。

大直日とは、吾人上帝より賦与せられたる吾魂の中に具有せる直霊魂を謂ふ。』

(霊界物語第10巻第二九章より)

※天帝とはニルヴァーナのこと。『天帝は唯一真神にして天の御中主神と称す』(霊界物語大13巻 如意宝珠子 総説)

 

更に、

『『次に其の禍を直さむと為て成りませる神の御名は、神直日神、次に大直日神、次に伊都能売神』

 神直日神は宇宙主宰の神の直霊魂にして、大直日神は天帝の霊魂の分賦たる吾人の霊魂をして完全無疵たらしめむとする直霊である。

 

所謂罪科を未萠に防ぐ至霊にして、大祓の祝詞に、之を気吹戸主神と謂すのである。又八十曲津日神、大曲津日神は、大祓祝詞に、之を瀬織津姫神と謂ひ、伊都能売神を速秋津彦神、速秋津姫神と謂ひ、神素盞嗚神を速佐須良姫神と謂すのである。

 

以上の四柱の神様を総称して祓戸の大神と謂ふのであります。』

(霊界物語第10巻第二九章 言霊解三から)

 

以上により、神直日が第六身体アートマンに該当し、直霊とは、肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体すべてを貫くものと考えられるので、玉の緒すなわちクンダリーニのエネルギー・コードと見てよいのではないかと思う。伊都能売は、神直日と大直日の二者の間に位置するというのは、神に最も近い人間の位置ということで、伊都能売のコーザル体がしっくりする。

それでは、伊都能売とは何か。

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出口王仁三郎のコーザル体-2-伊都能売神(いづのめ)の誕生

2024-03-14 03:35:48 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-09-06

◎コーザル体・完全人・両性具有-06

◎伊都能売神(いづのめ)の誕生

 

出口王仁三郎の説明では、伊都能売神は、伊邪那岐尊が黄泉の国の穢れを払う禊を行った時に生まれた10柱神の最初の5柱の一柱という説明であって、主宰神天之御中主神ではないとする。

さて黄泉の国は穢き国。穢き国とは地獄があるということ。ここから出てきて禊を執り行った場所は、コーザル体ということになる。

伊弉冊神(いざなみのかみ)が最後の出産で、火の神である迦具土神(かぐつちのかみ)を生んだことで亡くなる。迦具土神は火力文明たるこの近代西欧文明のシンボルであって、火力がこの文明の交通機関、戦争兵器、生産機関などのメインとなることを云う。それによって本来の健全な地球の姿が失われ、滅亡に瀕したことが、伊弉冊神が出産で亡くなったことで表象される。

これを遠因として伊弉冊神は地獄(黄泉)に落ちる。地獄と化した現世を復興すべく伊弉諾命(いざなぎ)は、現世の姿である地獄と化した伊弉冊神の腐敗した姿に直面する。

伊弉諾命(いざなぎ)は、黄泉の国から退却につぐ退却を重ね、ついに世界の根源である黄泉比良坂の坂本に至って、伊弉諾命が三個の桃の実を取って投げたところ、黄泉軍は初めて壊走したのだった。最後ぎりぎりになるまで、悪魔を破ることはできないということ。ついに伊弉冊命が自ら追ってきた。これぞ神軍と魔軍との戦いの分水嶺。伊弉冊命は、黄泉比良坂に千引岩(ちびきいわ)を立てて、ここに伊弉諾命(いざなぎ)がすべての悪を封じ込め、涙も叫びもないミロクの世が実現した。

伊弉諾命(いざなぎ)は、この地獄・悪の封じ込めを終えた後、筑紫の日向の立花の小門(をど)の阿波岐(あはぎ)原に到り、禊をされた。そこで生まれたのが伊都能売神。以上のような経緯は、悪にして火にして女である伊弉冊命(いざなみ)と、善にして水にして男である伊弉諾命(いざなぎ)の合体を象徴し、そこで誕生したのが両性具有の伊都能売神となる。これが古事記における第二の両性具有のエピソードだが、天照大神の両性具有のエピソ-ドより、より宇宙的、世界的である。
ただし同じ神々の世界のことであるから、平板であると見る。

ここで生まれた十柱の神々のメインは、大神である神直毘神、
人間個人の神性である大直毘神、
そして伊都能売神の計3柱と考えられる。
※神直日神(神直毘神)は宇宙主宰の神の直霊魂。大直日神(大直毘神)は宇宙主宰の神の霊魂の分賦たる人間の霊魂をして完全無疵たらしめむとする直霊。(霊界物語 第10巻第29章 言霊解三)

注意すべきは、伊都能売神とは、大神・ニルヴァーナである神直毘神と大直毘神の間に位置するとダメを押しているところである。(以下の二次大本事件関係資料参照)
 
以下は、第二次大本事件の裁判における裁判長の質問と出口王仁三郎の回答。この中では伊都能売神の位置づけが裁判長の目から見ると天之御中主神と区別がつかなかったという点から問答が始まっている。

『問 伊都能売神と云ふものは、煎じ詰めれば、結局天之御中主神の極徳の顕現と同じか。
答 それは違ひます。
 古事記に斯う云ふことが書いてあります。

 伊邪那岐尊と伊邪那美尊が御夫婦の喧嘩をなされて、伊邪那美尊が黄泉の国迄逃げて行かれた。伊邪那岐尊がそれを黄泉の国迄追駈けて行つた。伊邪那岐尊は黄泉比良坂で喰止めて、伊邪那岐尊の詔り給はく、「穢き国に行つて居たから」と云ふので、禊の祓をすると云ふので、禊の祓をやつて浄められた。

 其の時に生れたのが、伊都能売神、大直毘神、神直毘神、それから大禍津日神、八十禍津日神などで、十一柱目に天照大神が御生れになつた、十二が素盞嗚尊、十三が月読命、と斯う書いてある。
 其の時の伊都能売神と云ふのは、垢を払つた時の神さんです、浄めた時に生れて、天之御中主でも何でもありまへぬ。

問 さうか。
答 それで大直毘神と、神直毘神との間と云ふ意味です。』
(大本史料集成3巻/池田昭編/三一書房P393から引用)(二次大本事件関係資料)

最初に生まれた五柱神のうち三神である伊都能売神、大直毘神、神直毘神は、出口王仁三郎の世界観において単なる10分の3ということでなく、大本宣伝歌の
『神が表に現はれて  善と悪とを立別ける
 この世を造りし神直日  心も広き大直日
 ただ何事も人の世は  直日に見直せ聞直せ』
にあるように、前後の神直日、大直日は根本的に重要な意義を与えられているのに対し、伊都能売神はないまま。それはどういうことなのだろうか。

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出口王仁三郎のコーザル体-1-伊都能売と両性具有

2024-03-13 03:12:18 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-09-05

◎コーザル体・完全人・両性具有-05

◎伊都能売と両性具有

 

古事記のコーザル体に相当する両性具有は、2回あり、最初は、伊邪那岐(イザナギ)尊と伊邪那美(イザナミ)尊が夫婦喧嘩をされて、伊邪那岐尊が黄泉の国からの帰還直後に禊の祓をやって伊都能売(両性具有)神が出現した件。

もう一件は、天照大神と素盞嗚尊が高天原の天の安の川原で誓約をした際に、天照大神の霊と、素盞嗚尊の霊とが合体して、伊都能売神となったもの。

2回の違いは、天照大神と素盞嗚尊の合体が、人間の両性具有に相当し、伊邪那岐尊の禊が天国と地獄の結婚すなわち宇宙全体の両性具有に相当すると思われる。

出口王仁三郎は、伊都能売について『完全無欠にして明暗、遠近、大小、賢愚、肖不肖、善悪等の自由自在の活動をなし得る至粋至純の神霊の活用なり。』と、その両性具有であるところを賞賛している。

 

両性具有への結合が2回あるのは西洋錬金術も同様。


古事記言霊解通読-1(伊弉冊神(いざなみのかみ)火の神を生んで亡くなる)
古事記言霊解通読-2(世の上流から下流まで濁りきる)
古事記言霊解通読-3(正しい教え、誠の信仰)
古事記言霊解通読-4(黄泉比良坂の坂本は世界の根源)

古事記言霊解通読-5(神と出会った人だけが黄泉比良坂攻防戦へ)

石あるいは黄泉の国の境にある千引岩(石は「真」のシンボル)

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禅のコーザル体

2024-03-12 03:00:01 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-09-04

◎コーザル体・完全人・両性具有-04

◎十牛図 第六騎牛帰家

 

禅の十牛図では、第六騎牛帰家が、人間として最後の個別性なので、コーザル体に当たる。

【大意】

『序

争いはとっくに終わって、捕らえることも放すことも忘れた。木こりの歌う村歌を口ずさみ、童謡を口笛で吹く。

牛の背に跨がり、目は雲のある空を見ている。牛も人も呼び返すこともできず、引き止めようもない。

 

牛にまたがって、悠揚として家路を目指せば、えびすの笛の音が、一節、一節、夕焼け雲を見送る。

一つの小節、一つの歌曲にも言いようのない情感(意)がこもっていて、真にこのバイブレーションを解する人には、言葉の説明は不要である。』

 

えびすの笛の音とは無限光明の精妙なるバイブレーションのことである。すなわち窮極(仏、空、神、ニルヴァーナ)から来る波動のことである。

メンタル体上のチャクラは、中心太陽(ニルヴァーナ、空、無限光明)の7つの属性(窮極、智慧、自由、愛、歓喜、安心、力)の現れであるが、そのエネルギーの流れがえびすの笛の音とも言えよう。

この笛の音は、究極から来るものであるだけに、人々の生活を根底から変えてしまうことを本能的に知っているがゆえに、人々はその笛を聞くのをこわがるものだ。笛を奏でる人の仲間に身を投じようとしたり、恥ずべき自分の生き方を思い知らされたり、自分自身に出会う恐怖を直観的に感じるのだ。

本来の自分(仏、神)を見るという体験を第三見牛で得たが、この第六騎牛帰家までは、牛(仏、神、空、涅槃、禅の無)と自分とは別の存在である。従って第六騎牛帰家の位相は、最後の個別性を残したポジションである第5身体のコーザル体のレベルであると見る。

牛という世界全体は見ていて、見ることに大分慣れてきた。だが、見ている自分がまだ残っている。

 

【訓読】

『騎牛帰家

 序の六

干戈(かんか)已に罷(や)み、得失還た空ず、

樵子の村歌を唱え、児童の野曲を吹く。

身を牛上に横たえ、目は雲霄(うんしょう)を視る、

呼喚すれども回(かえ)らず、撈籠(ろうろう)すれども住(とど)まらず。

 

牛に騎(の)って迤邐(いり)として家に還(かえ)らんと欲す、

羌笛(きょうてき)声声 晩霞を送る。

一拍一歌 限り無き意、

知音は何ぞ必ずしも唇牙(しんげ)を鼓せん。』

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ミルチャ・エリアーデのコーザル体

2024-03-11 03:50:52 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-09-03

◎コーザル体・完全人・両性具有-03

◎神秘と逆説、そして絶対的自由

 

宗教学者のミルチャ・エリアーデは、第五身体コーザル体の位置づけを、神と悪魔が友人同士だとか、兄弟などの近親だとかいう、中央アジアや南東ヨーロッパの開闢神話でのエピソードに出て来る理由から、極めて正確に見ている。つまりコーザル体は、メンタル体以下での二元対立を越えたところに置かれるという見解なのである。

それは、生活者として日々苦労しまくっている人間には許しがたいことだが、『善』と『悪』には近親関係があるらしいなどと控えめに表現されるということである。

その前提として、まず語らなければならないのは、人間は常に天国的なものを目指して一挙手一投足を進めていかなければならないということ。それは疑問の余地はないが、最高に不壊なる天国的なものにほとんどコンタクトしようとする寸前に、なぜだか悪魔が現れる。イエスの40日の荒野修行でもそうだったし、釈迦の成道の直前もそうだった。北欧神話でもトリックスターであるロキは、アスガルドという天国の生活に何の不満があるのか、神々滅亡の遠因となる事件を引き起こしてしまう。『善』と『悪』、天国と地獄、この二元を越えないと、コーザル体には届かない。

イランのズルヴァンという主神の下に善の神アフラマズダと悪の神アーリマンがペアで発生したこともその一例。

 

エリアーデは以下の文章で、コーザル体での『反対の一致ないし全体性の神秘』が、もっぱら神秘と逆説として表現され、その完全性は、「善」「悪」を超えた絶対的自由として了解されることも観察している。

コーザル体は、完璧な全体性ではないが、ある種の全体性ではあるのだ。

 

『反対の一致の前史

 

宗教史家は、反対の一致ないし全体性の神秘を、原初の「統一」の分裂によって「創造」を説明している宇宙開闢説の中のみならず究極の実在、神性の根源(Grund)にかかわるシンボル、理論、信仰の中にも見出すことができる。さらにそれは人間の行動の変換と諸価値の混乱とを生じさせる狂燥的儀礼の中や、対立物の結合の神秘的技法の中、あるいは両性具有の神話と両性具有化の儀礼の中などにも見出される。一般には、これら神話、儀礼、信仰は、次のことを人間に想起させることを目的としている。

 

すなわち、

究極の実在、聖性、神性は、人間の理性的理解の可能性を超えていること、

根源というものは、もっぱら神秘と逆説として把握されるということ、

神的完全性は質と徳の総和としてではなく、「善」「悪」を超えた絶対的自由として了解されるということ、

神性、絶対、超越は存在の特定な様式も、偶然的状況をも構成していないがゆえに、相対的、直接的な人間とは質的に区別されるということ、こうしたことを想起させるのである。

 

一言でいえば反対の一致を内包するこれらの神話、儀礼、理論が人間に教えることは、神もしくは究極の実在を把捉する最上の方法は、たとえしばらくの間といえども、直接的な体験によって神性を思考したり、想像したりすることを放棄することだということである。というのも、そのような体験は、分裂と緊張とを知覚するだけなのである。』

(エリアーデ著作集第一巻悪魔と両性具有/ミルチャ・エリアーデ/せりか書房P107から引用)

 

エリアーデは、最後の一文『直接的な体験によって神性を思考したり、想像したりすることを放棄すること』で、冥想の可能性の一部を否定しているが、冥想の世界では、語られなかったり、記述されなかったりすることは、少なくないものだ。

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ケン・ウィルバーのコーザル体

2024-03-10 03:37:47 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-09-02

◎コーザル体・完全人・両性具有-02

◎意識のスペクトル

 

ケン・ウィルバーは意識のスペクトルを概観する中で、意識のスペクトルが、ヴェーダンタにおけるコーザル体と彼の「意識のスペクトル」の一段階である、「超個の帯域」が対応することを示している。

ケン・ウィルバーの「意識のスペクトル」は必ずしも固定した段階説でなく、4段階説、12段階説など数にこだわっていないが、ヴェーダンタの7段階(七つの身体説)と本質的に一致するとしている。

 

以下がヴェーダンタ用に出してきたケン・ウィルバーの意識のスペクトルの段階。

1.五感

2.影のレベル

3.自我のレベル

以上が肉体に照応。

 

4.生物社会的帯域

5.実存のレベル

以上がエーテル体、アストラル体、メンタル体に照応。

 

7.超個の帯域

これがコーザル体に照応

 

6.永遠-無限

以上がアートマン-ニルヴァーナに照応

 

このようにケン・ウィルバーは、心理学として意識の全容を説明しているのだが、微細身体レベル以上からは、心理ではなく、現実そのものであることをもっと説明できたのではないだろうかと思った。この構造が冥想により体験可能だと言っているところが、「哲学」だ「思想」だと唱える他の心理学者とは一線を画している。

 

以下が、ケン・ウィルバーのコーザル体の説明だが、非常にすっきりとわかりやすいものになっている。反対物は、完全には破壊されないにせよ完璧に調和するという表現が絶妙である。

『もっとも、内側の層、至福の鞘(アーナンダマヤコーシャ)は「コーザル体」(カラナ・シャリラ)を構成し、夢を見ない深い眠りの状態(ススプティ)や、特定の瞑想の状態にある人誰もが体験する。

このレベルでは二元性と区別が完全には破壊されないにせよ完璧に調和するため、この状態は深いリラキセーションと至福(アーナンダ)として体験されるそれはほかのすべての鞘の基礎および「原因」であることから「コーザル体」(因果体)とも呼ばれる。』

(意識のスペクトル1/ケン・ウィルバー/春秋社p263-264から引用)

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反対物の一致という平面から

2024-03-09 03:23:00 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-09-01

◎コーザル体・完全人・両性具有-01

◎個たる人間の最後の姿

 

個人が悟りを開く場合、見る自分が残っていると悟りを開けないとされる。見る自分が最後の人間であるとすれば、それは個たる人間の最後の姿であり、第五身体コーザル体のことである。

従って、第五身体コーザル体とは、両性具有にして完全人であり、ゆえにそれ自体がミクロコスモスであり、ひとつの悟りみたいなものと言える。

なお、両性具有という意味は、男女という極く限定的な意味ではなく、光と闇、天国と地獄、善と悪、天と地、太陽と月、陰と陽、快楽と苦悩、欲求と嫌悪、快と不快、寒と暑、貴と賤、聖と俗、美と醜というようなあらゆる反対物の一致という意味である。

第五身体コーザル体の先は、第六身体アートマンであり、神であり仏である。ところが諸聖典、古伝承、神話には、第五身体コーザル体のことはさらっと書いており、どうすれば神仏に到達できるかどうかを微に入り細に入り書いているものはない。

人間が神仏になるには、個人が世界全体宇宙全体になるのだから、逆転である。その想像を絶するさわりの部分は謎に包まれている。そこは、ユダヤ教の生命の樹(セフィロト)では、深淵として表現されている。禅の十牛図では、忘牛存人と世界全体である牛がいつのまにか消えたとだけ、結果報告だけですましている。

※セフィロト

【コーザル体・完全人・両性具有】の章では、まず平面的に「コーザル体・完全人・両性具有」の反対物の一致という人間の完成に向かう特徴を述べ、次の章で反対物の一致という平面から、逆転、ジャンプアウトという垂直上昇への仕掛け、すなわち人が必ずや神仏になるべく(あるいは神仏であったことに気づくべく)最初から計画されている、からくり、メカニズム、秘儀というべき巨大な舞台装置の存在について述べる。

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ラビ・レーフの魔術

2024-03-08 03:41:45 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-06-22

◎無意識と死の側-5-超常現象・オカルト-2-超能力系-3-テレパシー、超感覚的知覚-1(プラハのユダヤ人マスター)

◎プラハのユダヤ人マスター

 

チェコのルドルフ2世は、魔術の都プラハから、ユダヤ人を追放する命令を出した。そこで魔術の有力ユダヤ人マスターであったレーフは、この追放令取り消しを求めて、ルドルフ2世の馬車に直訴を敢行した。

幸いにも王は、この直訴を受け入れ、レーフを城に招待し、レーフは魔術を実演して見せた。

 

『あるとき、ルドルフはレーフに、旧約聖書に出て来るユダヤの族長アブラハム、イサク、ヤコブとヤコブの息子たちを見せてくれるように頼んだ。レーフはためらったが、結局王の望みをかなえることを約束した。

 

ただし、族長たちの神聖な姿が現れたときに、決して誰も笑わないようにという条件を付けた。

広間に集まった王と廷臣たちは、薄闇の中に立つレーフの姿を見つめていた。すると霧の中に消えるようにレーフの姿が見えなくなり、暗闇の中からまずアブラハムの大きな姿が現れ、みんなの目の前を動いて消えた。続いてイサク、ヤコブ、ヤコブの息子たちが次々と姿を現した。

王と廷臣たちは、ユダヤ人の祖先を、神妙な面持ちで静かに見ていた。しかしヤコブの息子のうち、赤毛でそばかすだらけのナフタリが現れ、みんなに置いてきぼりにされたくないというように小走りに急ぐのを見ると、王は笑いをこらえることが出来なくなった。

王が笑い出すと、暗闇と幻影がすべて消えた。そして広間には驚愕と恐怖の叫びが上がった。

なんと天井が動き、次第に下がってきたのである。廷臣たちは真っ青になって、ドアの方へ逃げようとしたが、金縛りにあったように体が動かなかった。みんなは、天井を止めてくれと、レーフに叫んだ。レーフが出てきて、手を伸ばし、何かいうと、ようやく天井は止まった。』

(黄金のプラハ/石川達夫/平凡社P293から引用)

 

笑うと術が破れるのは、 抱朴子の『俗人に誹謗させてはならない』と似ている。アストラル・ビジョンかエーテル・ビジョンかわからないが、意識レベルを低下させて、人々に同一の幻影を見させるということなのだろう。

映画を見終わったときに映画から抜けない心理状態のひどいやつくらいの感じ。レーフはこの幻影を見せることに応ずるときにやや躊躇したというが、正統的な術者であれば、そうだろうと思う。

また現代でレーフと同じことをするのは危険極まりないことだと思う。本物かどうかだけが問われる時代だからである。このあらゆるマインド・コントロールで錯綜した時代に。

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