三月嗣襄王の擁立に関係した宰相蕭遘・裴達が誅殺された。
僖宗は京師に帰れず鳳翔府に滞在していた。
同じく三月浙西で周寶が逐われ、四月淮南で高駢が幽囚されて、朝廷より任用された武将は次々と失脚し、自立系の武将が主導権を握るようになっていった。
五月朱全忠等は孝村で秦宗權を大破し、宗權は東都や河陽・鄭州など占領地を放棄して蔡州へ逃げ帰った。
六月鳳翔で神策軍と地元節度使李昌符が争い、七月昌符は敗死した。その後には李茂貞[後の岐王]が任用された。
宣武朱全忠は、天平朱瑄や兗海朱瑾を攻めて勢力を拡大していった。
十一月廬州刺史楊行密[後の呉王]が淮南を落とした。
僖宗は京師に帰れず鳳翔府に滞在していた。
同じく三月浙西で周寶が逐われ、四月淮南で高駢が幽囚されて、朝廷より任用された武将は次々と失脚し、自立系の武将が主導権を握るようになっていった。
五月朱全忠等は孝村で秦宗權を大破し、宗權は東都や河陽・鄭州など占領地を放棄して蔡州へ逃げ帰った。
六月鳳翔で神策軍と地元節度使李昌符が争い、七月昌符は敗死した。その後には李茂貞[後の岐王]が任用された。
宣武朱全忠は、天平朱瑄や兗海朱瑾を攻めて勢力を拡大していった。
十一月廬州刺史楊行密[後の呉王]が淮南を落とした。