李敬玄。字は?。亳州譙人也。
父孝節,谷州長史。
風格が有り儀典に通じていた。
貞觀末に馬周の推薦で崇賢館兼預侍讀
乾封初に西台舎人弘文館學士に進む。
總章二年西台侍郎兼太子右中護同東西台三品兼
檢校司列少常伯となり宰相に列する。
人事任用に長け功績があった。
咸亨二年改称中書侍郎
三年加銀青光祿大夫行吏部侍郎兼太子右庶子同中書門下三品。
四年監修國史。
上元二年吏部尚書兼太子左庶子監修國史同中書門下三品。
しかし長年人事を司るため勢力を強め、特に關東勢族との
婚姻関係が強くなり高宗に警戒された。
儀鳳元年劉仁軌に代わり中書令。
軍事については知識がないにもかかわらず仁軌の対吐蕃政策を
批判する。調露二年怒った仁軌は敬玄を洮河道大總管兼安撫大
使仍檢校鄯州都督として推薦し吐蕃にあたらせた。
吐蕃との戦闘では前衛を見捨てて退却し、逗留して病と称した。
帰京するとその偽りがばれて衡州刺史へ貶せられた。
その後揚州大都督府長史。
永淳元年68才で卒するむ。贈兗州都督。
子の思沖は神龍初に工部侍郎・左羽林軍將軍となったが,
節愍太子の乱に坐し籍沒。
弟の元素もまた相となった。
[宰相履歴]
總章2年2月西臺侍郎並同東西臺三品~咸亨3年10月吏部侍郎
~上元2年8月吏部尙書~儀鳳元年11月中書令
~3年11月洮河道行軍大總管兼安撫大使檢校鄯州都督
~永隆元年8月貶衡州刺史
父孝節,谷州長史。
風格が有り儀典に通じていた。
貞觀末に馬周の推薦で崇賢館兼預侍讀
乾封初に西台舎人弘文館學士に進む。
總章二年西台侍郎兼太子右中護同東西台三品兼
檢校司列少常伯となり宰相に列する。
人事任用に長け功績があった。
咸亨二年改称中書侍郎
三年加銀青光祿大夫行吏部侍郎兼太子右庶子同中書門下三品。
四年監修國史。
上元二年吏部尚書兼太子左庶子監修國史同中書門下三品。
しかし長年人事を司るため勢力を強め、特に關東勢族との
婚姻関係が強くなり高宗に警戒された。
儀鳳元年劉仁軌に代わり中書令。
軍事については知識がないにもかかわらず仁軌の対吐蕃政策を
批判する。調露二年怒った仁軌は敬玄を洮河道大總管兼安撫大
使仍檢校鄯州都督として推薦し吐蕃にあたらせた。
吐蕃との戦闘では前衛を見捨てて退却し、逗留して病と称した。
帰京するとその偽りがばれて衡州刺史へ貶せられた。
その後揚州大都督府長史。
永淳元年68才で卒するむ。贈兗州都督。
子の思沖は神龍初に工部侍郎・左羽林軍將軍となったが,
節愍太子の乱に坐し籍沒。
弟の元素もまた相となった。
[宰相履歴]
總章2年2月西臺侍郎並同東西臺三品~咸亨3年10月吏部侍郎
~上元2年8月吏部尙書~儀鳳元年11月中書令
~3年11月洮河道行軍大總管兼安撫大使檢校鄯州都督
~永隆元年8月貶衡州刺史