武承嗣。字は?。
荊州都督士矱の孫
則天順聖皇后の兄元爽の子。
元爽は前妻の子であり、後妻である則天の母楊氏
とは折り合いが悪かった。
則天は少府少監の元爽を濠州刺史に左遷し、
やがて振州に配流した。
元爽の死後、承嗣は召還されて尚衣奉御となり
周國公を嗣いだ。
凡庸な武氏一族の中では比較的有能であったので
秘書監に昇進する。
則天が臨朝すると武氏の祖先の祭祀など活躍し,
嗣聖元年禮部尚書、ついで太常卿、同中書門下三品
として相となったがすぐ罷。
垂拱中春官(吏部)尚書同中書門下三品。
載初元年文昌左相(左僕射)同鳳閣鸞台三品
兼知內史(中書令)事。
天授元年東都に武氏七廟を創置する。
則天が即位し魏王となる。
周建国に活躍し李氏皇族を誅滅させ、
唐に思いをよせる官僚群を酷吏を指嗾して弾圧した。
功績により實封千戶監修國史。
皇嗣(睿宗)を廃してみずから太子となろうと策謀
したが、結局則天は許可しなかった。
如意元年特進に昇進し太子太保となり罷相。
太子となる夢は実現せず失意のまま卒する。
贈太尉、并州牧,謚曰宣。
子の延基が魏王を嗣いだが張易之等に讒言され殺される。
[宰相履歴]
①.光宅元年閏5月太常卿同中書門下三品~8月罷
②.垂拱元年2月禮部尚書同中書門下三品~3月罷
③.載初元年3月納言~天授元年1月文昌左相同鳳閣鸞臺三品
~長壽元年8月罷
④.神功元年6月同中書門下三品~7月罷
荊州都督士矱の孫
則天順聖皇后の兄元爽の子。
元爽は前妻の子であり、後妻である則天の母楊氏
とは折り合いが悪かった。
則天は少府少監の元爽を濠州刺史に左遷し、
やがて振州に配流した。
元爽の死後、承嗣は召還されて尚衣奉御となり
周國公を嗣いだ。
凡庸な武氏一族の中では比較的有能であったので
秘書監に昇進する。
則天が臨朝すると武氏の祖先の祭祀など活躍し,
嗣聖元年禮部尚書、ついで太常卿、同中書門下三品
として相となったがすぐ罷。
垂拱中春官(吏部)尚書同中書門下三品。
載初元年文昌左相(左僕射)同鳳閣鸞台三品
兼知內史(中書令)事。
天授元年東都に武氏七廟を創置する。
則天が即位し魏王となる。
周建国に活躍し李氏皇族を誅滅させ、
唐に思いをよせる官僚群を酷吏を指嗾して弾圧した。
功績により實封千戶監修國史。
皇嗣(睿宗)を廃してみずから太子となろうと策謀
したが、結局則天は許可しなかった。
如意元年特進に昇進し太子太保となり罷相。
太子となる夢は実現せず失意のまま卒する。
贈太尉、并州牧,謚曰宣。
子の延基が魏王を嗣いだが張易之等に讒言され殺される。
[宰相履歴]
①.光宅元年閏5月太常卿同中書門下三品~8月罷
②.垂拱元年2月禮部尚書同中書門下三品~3月罷
③.載初元年3月納言~天授元年1月文昌左相同鳳閣鸞臺三品
~長壽元年8月罷
④.神功元年6月同中書門下三品~7月罷