波乱の前半と、姑息な後半という德宗皇帝について記述していきます。
五月辛酉,代宗が五十三才で崩御した。ただちに皇太子适が即位[德宗]した。
适は廣徳二年[764年]に22才で皇太子となり、即位時37才であり、十分に経歴を
積んでいた。そのためこの継承はスムーズでなんの問題も起こらなかった。当時安
史の乱-吐蕃の侵攻と続いた動乱の季節からも十数年経ち、相変わらず有力藩鎭は跋
扈していたが唐朝は姑息に徹して傷口を塞いで力を蓄えてきていた。
河北には 成德[李寶臣]・魏博[田承嗣.二月卒→甥の悅が継ぐ]・幽州[朱泚]
や淄青[李正巳]淮西[李希烈]山東[梁崇義]など巨大藩鎭が自立していたが、
寶臣・承嗣・正巳は当時としては老齢で、泚は唐朝方であり、希烈は三月に自立し
てまもないし、崇義は弱体ということで明白に反旗を翻すものはいなかった。
朝廷には元老郭子儀が重鎮としており、幽州朱泚が入朝して対吐蕃防衛にあたり、
宰相常衮が単独で朝政を切り回していた。
閏月甲戌,宰相常衮を貶し、崔祐甫を登用する。
政治を専権する常衮と、それに門下省をバックに崔祐甫が激しく対立していた。
怒った衮は強引に祐甫を河南少尹に貶した。即位したての德宗は祐甫を気に入っ
ていたので不本意であったが、宰相達の総意ということを尊重し発令した。
しかし参朝した宰相郭子儀や朱泚は「祐甫にそれほどの罪があるとは思えません
が?」と問うてきた。德宗は[卿等三人の総意と聞いたから・・・]と呆れたが、
德宗は当時の慣例では武官である子儀や泚は軍事以外には関与しないということを
知らなかったわけである。
衮の独断と知った德宗は激怒して、衮を河南少尹へ、祐甫を宰相にと入れ替えた。
閏月甲申,郭子儀を尚父と號し、太尉兼中書令に昇進させ、その兵権を解いた。
朔方・河中・邠寧・振武など唐朝主力軍を掌握していた老齢の子儀を尚父[父の
ように尊敬するということ]太尉兼中書令[名誉職だが最高位]として棚上げに
し兵権を解いた。
河中邠寧は勇猛な李懷光、朔方は常謙光、振武は実直な渾瑊にと分割した。
崔祐甫の協力の下、德宗は無駄な官員を整理し、地方の貢献を止めさせ、綱紀を粛
正し、停滞していた行政をガンガンと推し進めた。ただ理想に走りすぎるという欠
点はあった。
五月辛酉,代宗が五十三才で崩御した。ただちに皇太子适が即位[德宗]した。
适は廣徳二年[764年]に22才で皇太子となり、即位時37才であり、十分に経歴を
積んでいた。そのためこの継承はスムーズでなんの問題も起こらなかった。当時安
史の乱-吐蕃の侵攻と続いた動乱の季節からも十数年経ち、相変わらず有力藩鎭は跋
扈していたが唐朝は姑息に徹して傷口を塞いで力を蓄えてきていた。
河北には 成德[李寶臣]・魏博[田承嗣.二月卒→甥の悅が継ぐ]・幽州[朱泚]
や淄青[李正巳]淮西[李希烈]山東[梁崇義]など巨大藩鎭が自立していたが、
寶臣・承嗣・正巳は当時としては老齢で、泚は唐朝方であり、希烈は三月に自立し
てまもないし、崇義は弱体ということで明白に反旗を翻すものはいなかった。
朝廷には元老郭子儀が重鎮としており、幽州朱泚が入朝して対吐蕃防衛にあたり、
宰相常衮が単独で朝政を切り回していた。
閏月甲戌,宰相常衮を貶し、崔祐甫を登用する。
政治を専権する常衮と、それに門下省をバックに崔祐甫が激しく対立していた。
怒った衮は強引に祐甫を河南少尹に貶した。即位したての德宗は祐甫を気に入っ
ていたので不本意であったが、宰相達の総意ということを尊重し発令した。
しかし参朝した宰相郭子儀や朱泚は「祐甫にそれほどの罪があるとは思えません
が?」と問うてきた。德宗は[卿等三人の総意と聞いたから・・・]と呆れたが、
德宗は当時の慣例では武官である子儀や泚は軍事以外には関与しないということを
知らなかったわけである。
衮の独断と知った德宗は激怒して、衮を河南少尹へ、祐甫を宰相にと入れ替えた。
閏月甲申,郭子儀を尚父と號し、太尉兼中書令に昇進させ、その兵権を解いた。
朔方・河中・邠寧・振武など唐朝主力軍を掌握していた老齢の子儀を尚父[父の
ように尊敬するということ]太尉兼中書令[名誉職だが最高位]として棚上げに
し兵権を解いた。
河中邠寧は勇猛な李懷光、朔方は常謙光、振武は実直な渾瑊にと分割した。
崔祐甫の協力の下、德宗は無駄な官員を整理し、地方の貢献を止めさせ、綱紀を粛
正し、停滞していた行政をガンガンと推し進めた。ただ理想に走りすぎるという欠
点はあった。
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