開成五年 西暦839年
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正月辛巳,文宗崩御。弟穎王瀍[武宗]即位。
武宗は穆宗の五男である。宦官魚弘志、仇士良が擁立した。
正月辛卯,殺陳王成美及安王溶。
文宗・敬宗系の一掃である。
五月乙卯,牛派楊嗣復が罷。李派崔珙が宰相に。
八月壬戌,葬文宗于章陵。樞密使劉弘逸、薛季棱以兵殺仇士良等,不克,伏誅。李玨罷。
新紀・旧紀では文宗派?宦官の弘逸、季棱が葬儀に動員した兵を使って士良等を除こうとしたと言われる。ところが通鑑ではこれは會昌元年三月のことになり、兵乱などは記述されていない。
単なる宦官内部の権力闘争とみられる。
九月丁丑,淮南節度李德裕が宰相に。
武宗は文宗末期の牛派宰相を排除し、李派の頭目が登場させる、宦官とも結託し李派全盛時代を築く。
十一月,魏博節度使何進滔卒,其子重霸自稱留後。
河北三鎮も反唐朝派が姿を消し、唐朝と共存を図る傾向が強くなった。
會昌元年 西暦840年
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三月、仇士良達は武宗即位時に関して前宰相の楊嗣復.李珏等を誅殺しようと誣告した。さすがに德裕も同調できず流罪に留めた。
八月、回鶻烏介可汗遣使告難,言本國為黠戛斯所攻,故可汗死,今部人推為可汗。
同盟国の回鶻が破綻し崩壊しかけているようである。
九月癸巳,幽州盧龍軍將陳行泰殺其節度使史元忠,自稱知留務。
閏月,幽州盧龍軍將張絳殺行泰,自稱主軍務。
十月,幽州盧龍軍逐絳,雄武軍使張仲武入於幽州。
唐史は開成末~會昌年間に入って極めて混乱し矛盾したデータが多くなる。
これが一例で、殺元忠→殺行泰→逐絳→仲武と三回乱が連続している記載である。
ところが旧紀では「會昌二年正月雄武軍使張絳、幽州留後,仍賜名仲武」
つまり絳=仲武で、乱は二回であり、帥すら取り違えているのである。
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正月辛巳,文宗崩御。弟穎王瀍[武宗]即位。
武宗は穆宗の五男である。宦官魚弘志、仇士良が擁立した。
正月辛卯,殺陳王成美及安王溶。
文宗・敬宗系の一掃である。
五月乙卯,牛派楊嗣復が罷。李派崔珙が宰相に。
八月壬戌,葬文宗于章陵。樞密使劉弘逸、薛季棱以兵殺仇士良等,不克,伏誅。李玨罷。
新紀・旧紀では文宗派?宦官の弘逸、季棱が葬儀に動員した兵を使って士良等を除こうとしたと言われる。ところが通鑑ではこれは會昌元年三月のことになり、兵乱などは記述されていない。
単なる宦官内部の権力闘争とみられる。
九月丁丑,淮南節度李德裕が宰相に。
武宗は文宗末期の牛派宰相を排除し、李派の頭目が登場させる、宦官とも結託し李派全盛時代を築く。
十一月,魏博節度使何進滔卒,其子重霸自稱留後。
河北三鎮も反唐朝派が姿を消し、唐朝と共存を図る傾向が強くなった。
會昌元年 西暦840年
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三月、仇士良達は武宗即位時に関して前宰相の楊嗣復.李珏等を誅殺しようと誣告した。さすがに德裕も同調できず流罪に留めた。
八月、回鶻烏介可汗遣使告難,言本國為黠戛斯所攻,故可汗死,今部人推為可汗。
同盟国の回鶻が破綻し崩壊しかけているようである。
九月癸巳,幽州盧龍軍將陳行泰殺其節度使史元忠,自稱知留務。
閏月,幽州盧龍軍將張絳殺行泰,自稱主軍務。
十月,幽州盧龍軍逐絳,雄武軍使張仲武入於幽州。
唐史は開成末~會昌年間に入って極めて混乱し矛盾したデータが多くなる。
これが一例で、殺元忠→殺行泰→逐絳→仲武と三回乱が連続している記載である。
ところが旧紀では「會昌二年正月雄武軍使張絳、幽州留後,仍賜名仲武」
つまり絳=仲武で、乱は二回であり、帥すら取り違えているのである。
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