唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

會昌二~三年 西暦841~42年

2020-04-29 10:00:18 | Weblog
會昌二年 西暦841年
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正月,回鶻寇橫水柵,略天德、振武軍。
三月,回鶻寇雲、朔。
五月丙申,回鶻沒斯降。
来寇のようにみえるが、実体は回鶻帝国が崩壊して残党が北邊になだれ込んできたわけである。唐朝はこれを支援せず降嫁させていた大和公主を回収した。回鶻の将達は相継いで来附してきた。

二月、李石.六月,陳夷行が罷。
李徳裕の独裁体制が強まっていった。

七月,回鶻可汗寇大同川。
九月,河東節度劉沔,幽州節度張仲武討回鶻。
黠戛斯[トルコ系.キルギス]の攻撃もあって回鶻帝国は完全に崩壊し、可汗[皇帝]も北邊に逃亡してきた。唐朝はこれを討った。

吐蕃で論恐熱が内乱を起こし、唐朝への圧力は減少したが。回鶻・吐蕃の混乱により西域の貿易は停滞してしまった。


會昌三年 西暦842年
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四月乙丑,昭義軍節度使劉從諫卒,子稹自稱留後。
本来昭義節度使は唐朝領域であり世襲を許さない鎮であった。しかし前任の悟の卒時、当時の姑息な宰相[牛派]・宦官が収賄して従諫の継承を認めてしまった。
その後従諫が甘露の変後に文宗を支援したため宦官達の強い反感を買っていた。このたびの稹への継承も牛派宰相時代なら平和策になったであろうが、強硬積極策の李徳裕が首班であり、本来征討には消極的な宦官達も恨みを晴らす機会だと考えた。回鶻を潰して意気上がる武宗も討伐方向に動いた。

五月辛丑,成德節度使王元逵,魏博節度何弘敬,河中・河陽・河東軍討劉稹。
唐朝は河北三鎭が昭義を支援することを懼れて、隣接する成德・魏博を慰撫[自立は既に既成事実として認めている]し征討に参加させるようにした。既に野性を失っていた二鎮も同意した。

九月辛卯,忠武軍節度使王宰兼河陽行營攻討使。
十月己巳,晉絳行營節度使石雄及劉稹戰于烏嶺,敗之。
相変わらず進攻せず、ぐずぐす逗留する唐朝軍をみて、李徳裕は石雄を登用した。雄は徐州武寧軍出身で、周囲に信望があったため節度使王智興に逐われ、殺害されそうになった。唐朝に亡命し、その後対回鶻戦に起用されて活躍したため抜擢されたのである。しかも王宰[智興の子]と競争して進軍するわけで、雄が必死になるのは当然であった。

十月、黨項羌寇鹽州。十一月,寇邠、寧。
回鶻が滅び、吐蕃も混乱すると朔方地域に盤踞していた黨項[後の西夏]が蠢動することになった。

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