六月癸巳,淮寧軍節度使李希烈為漢南、漢北兵馬招討使,以討梁崇義。
淮西李希烈が山東を征討することになったが、宰相楊炎は希烈を信用していなかった。
六月辛丑,郭子儀薨。
引退していた身とは言え、20年以上唐朝の柱石として君臨した子儀の死は時代の代わりを
痛感させた。
七月庚申,楊炎罷。張鎰が宰相になる。
盧杞は希烈が逗留しているのは炎のせいだと讒言し排除に成功した。
鎰は子儀の系統であるが非才で杞には扱いやすい人物であった。
七月癸未,河東馬燧、昭義李抱真、神策李晟が田悅を臨洺に破る。
臨洺を包囲攻撃していた魏博・成德軍を唐朝が大破した。悦は邢州からも撤兵し領内に退いた。
八月西川、東川、山西、荊南、淮南軍討梁崇義,以李希烈為諸軍都統。
いろいろ並んでいるが主力は希烈である。炎の失脚に気を良くした希烈は猛攻を加えた。
八月辛卯,淄青平盧軍節度使李正己卒し,子納が自立。
一応成德包囲には消極的に参加していた淄青節度であるが、まずいことに正己が卒した。
唐朝としては納の継承を認めることは出来ず、山東と併せて三正面の戦争という事態と
なった。魏博・成德・淄青の同盟が形成された。
八月壬子,山東梁崇義伏誅。
山東軍は荊南に侵攻したが大敗し、諸将は希烈に降り、孤立した崇義は自殺した。
九月,李納陷宋州。
九月李惟岳將張孝忠以易、定二州降。
蕃族出身の孝忠は、大兵を擁して易州で幽州朱滔軍の南下に対峙していた。しかし滔
の説得と形成不利をみて帰順することを決めた。これにより成德は極めて不利な状況となった。
九月壬戌,加李希烈同平章事。
崇義討伐の褒賞であるが、山東併合を望んでいた希烈は極めて不満であった。
唐朝は有能な李承の働きで山東を確保した。
淮西李希烈が山東を征討することになったが、宰相楊炎は希烈を信用していなかった。
六月辛丑,郭子儀薨。
引退していた身とは言え、20年以上唐朝の柱石として君臨した子儀の死は時代の代わりを
痛感させた。
七月庚申,楊炎罷。張鎰が宰相になる。
盧杞は希烈が逗留しているのは炎のせいだと讒言し排除に成功した。
鎰は子儀の系統であるが非才で杞には扱いやすい人物であった。
七月癸未,河東馬燧、昭義李抱真、神策李晟が田悅を臨洺に破る。
臨洺を包囲攻撃していた魏博・成德軍を唐朝が大破した。悦は邢州からも撤兵し領内に退いた。
八月西川、東川、山西、荊南、淮南軍討梁崇義,以李希烈為諸軍都統。
いろいろ並んでいるが主力は希烈である。炎の失脚に気を良くした希烈は猛攻を加えた。
八月辛卯,淄青平盧軍節度使李正己卒し,子納が自立。
一応成德包囲には消極的に参加していた淄青節度であるが、まずいことに正己が卒した。
唐朝としては納の継承を認めることは出来ず、山東と併せて三正面の戦争という事態と
なった。魏博・成德・淄青の同盟が形成された。
八月壬子,山東梁崇義伏誅。
山東軍は荊南に侵攻したが大敗し、諸将は希烈に降り、孤立した崇義は自殺した。
九月,李納陷宋州。
九月李惟岳將張孝忠以易、定二州降。
蕃族出身の孝忠は、大兵を擁して易州で幽州朱滔軍の南下に対峙していた。しかし滔
の説得と形成不利をみて帰順することを決めた。これにより成德は極めて不利な状況となった。
九月壬戌,加李希烈同平章事。
崇義討伐の褒賞であるが、山東併合を望んでいた希烈は極めて不満であった。
唐朝は有能な李承の働きで山東を確保した。
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