元和11年7月
宦官達の支援がある高霞寓は歸州刺史への左遷で収まり、李遜も巻き添えで恩王傳に左遷されました。
河南尹鄭權が山南東道節度使となり、非戦派の荊南節度使袁滋が彰義軍節度申光唐蔡隨鄧州觀察使として前線へ、武官の隨州刺史楊旻為唐州刺史行營都知兵馬使として実戦にあたります。おかしな人事だといわざる得ません。
宣武韓弘が元濟軍を郾城で破りました。
元和11年8月
非戦派の宰相韋貫之が罷免されました。
元和11年9月
李光顏、烏重胤が陵雲柵を陥しました。これは多少の戦果です。
元和11年10月
督戦のため内常侍梁守謙を監淮西行營諸軍としました。
元和11年11月
李文通は淮西兵を固始で破りました。
元和11年12月
袁滋がまったく戦う意志を示さないので罷免し、閒廄宮苑使李愬を鄧州刺史充唐隨鄧等州節度使としました。愬は晟の子です。
元和12年正月
赴任した李愬はあいつぐ敗戦により、唐鄧隋軍の志気が地に落ちていて、戦える状態でないと知りひたすら將士を慰撫しました。
淮西軍は実績のない愬を軽視して主戦場を光顔・重胤方面と定めました。
元和12年2月
鄂岳團練使李道古[皋の子]は申州を攻め、外郭を陥しましたが、反撃され大敗しました。
愬は兵力支援を求め、昭義、河中、鄜坊軍二千が増援されました。
また淮西将丁士良を捕らえてなづけました。
淮西も連年の戦乱に疲弊し、流民が増加しました。朝廷は行郾城縣を置き流民を慰撫しました。
元和12年3月
淮西将吳秀琳は文城柵を以って愬に降りました。唐鄧隋軍の志気がやや回復しました。
元和12年3/4月
李光顏は淮西兵三萬を郾城で破りました。
淮西郾城守將鄧懷金・縣令董昌が郾城を以って降りました。
元濟は危機感を覚え、董重質に主力軍を与えて対峙させました。
愬が淮西兵を嵖岈山に破りました。
元和12年5月
愬は淮西軍を吳房・張柴で破り、將李祐を捕らえ、帰服させました。
元和12年閏5/6月
元濟は形勢不利を悟り帰朝しようとしたが董重質等に止められました。
元和12年6月
征討がはかばかしく進まずあせる憲宗皇帝に、宰相裴度はみずから督戦に行くことを申し出て、淮西宣慰使となりました。韓弘に遠慮して招討は省きました。
元和12年8月
裴度は出陣し皇帝は自ら送りだしました。
李光顔・烏重胤は淮西軍に賈店で敗北しました。
元和12年9月
非戦派の宰相李逢吉が解任され、東川節度に出されました。
愬は淮西兵を蔡州吳房に破りました。
元和12年10月
裴度は自ら督戦に出ましたが、淮西董重質の急襲をうけかろうじて逃れました。
李愬は蔡州を奇襲し、吳元濟を捕らえました。淮西軍主力が北方に集中している隙をついたものです。愬軍を軽視していた淮西軍は少しも備えていませんでした。
申、光二州や諸鎮兵二萬餘人が相繼來降しました。
董重質も降り、李光顔は淮西軍を自軍に加えました。
裴度が蔡州に入り、淮西節度使に就任しました。
元和12年11月
吳元濟が京師で誅されました。
宦官達の支援がある高霞寓は歸州刺史への左遷で収まり、李遜も巻き添えで恩王傳に左遷されました。
河南尹鄭權が山南東道節度使となり、非戦派の荊南節度使袁滋が彰義軍節度申光唐蔡隨鄧州觀察使として前線へ、武官の隨州刺史楊旻為唐州刺史行營都知兵馬使として実戦にあたります。おかしな人事だといわざる得ません。
宣武韓弘が元濟軍を郾城で破りました。
元和11年8月
非戦派の宰相韋貫之が罷免されました。
元和11年9月
李光顏、烏重胤が陵雲柵を陥しました。これは多少の戦果です。
元和11年10月
督戦のため内常侍梁守謙を監淮西行營諸軍としました。
元和11年11月
李文通は淮西兵を固始で破りました。
元和11年12月
袁滋がまったく戦う意志を示さないので罷免し、閒廄宮苑使李愬を鄧州刺史充唐隨鄧等州節度使としました。愬は晟の子です。
元和12年正月
赴任した李愬はあいつぐ敗戦により、唐鄧隋軍の志気が地に落ちていて、戦える状態でないと知りひたすら將士を慰撫しました。
淮西軍は実績のない愬を軽視して主戦場を光顔・重胤方面と定めました。
元和12年2月
鄂岳團練使李道古[皋の子]は申州を攻め、外郭を陥しましたが、反撃され大敗しました。
愬は兵力支援を求め、昭義、河中、鄜坊軍二千が増援されました。
また淮西将丁士良を捕らえてなづけました。
淮西も連年の戦乱に疲弊し、流民が増加しました。朝廷は行郾城縣を置き流民を慰撫しました。
元和12年3月
淮西将吳秀琳は文城柵を以って愬に降りました。唐鄧隋軍の志気がやや回復しました。
元和12年3/4月
李光顏は淮西兵三萬を郾城で破りました。
淮西郾城守將鄧懷金・縣令董昌が郾城を以って降りました。
元濟は危機感を覚え、董重質に主力軍を与えて対峙させました。
愬が淮西兵を嵖岈山に破りました。
元和12年5月
愬は淮西軍を吳房・張柴で破り、將李祐を捕らえ、帰服させました。
元和12年閏5/6月
元濟は形勢不利を悟り帰朝しようとしたが董重質等に止められました。
元和12年6月
征討がはかばかしく進まずあせる憲宗皇帝に、宰相裴度はみずから督戦に行くことを申し出て、淮西宣慰使となりました。韓弘に遠慮して招討は省きました。
元和12年8月
裴度は出陣し皇帝は自ら送りだしました。
李光顔・烏重胤は淮西軍に賈店で敗北しました。
元和12年9月
非戦派の宰相李逢吉が解任され、東川節度に出されました。
愬は淮西兵を蔡州吳房に破りました。
元和12年10月
裴度は自ら督戦に出ましたが、淮西董重質の急襲をうけかろうじて逃れました。
李愬は蔡州を奇襲し、吳元濟を捕らえました。淮西軍主力が北方に集中している隙をついたものです。愬軍を軽視していた淮西軍は少しも備えていませんでした。
申、光二州や諸鎮兵二萬餘人が相繼來降しました。
董重質も降り、李光顔は淮西軍を自軍に加えました。
裴度が蔡州に入り、淮西節度使に就任しました。
元和12年11月
吳元濟が京師で誅されました。
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