高宗前史
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晉王治は太宗九男で、太子承乾・魏王泰とともに長孫皇后の子です。性格は兄二人と違い温和柔弱で、学問を好みました。承乾と泰が争ったときは部外にいて傷つかず、結局叔父である長孫無忌の強い推薦で太子に立てられたわけです。ただ皇帝としての決断力は疑われ、高祖太宗のような権威もなく、前半は無忌を中心とする貴族達、後半は則天武后の傀儡となっています。ただ中宗・睿宗のような腑抜けではなく自分の意志を示す時もあったようです。
貞觀二十三年 西暦649
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五月、太宗崩,以羽檄發六府甲士四千,衛皇太子入于京師。
唐朝はまだ安定していませんでした。太宗は京師西郊の翠微宮で崩じましたが、そこから皇宮まで重武装の護衛をつけて皇太子が戻りました。
六月甲戌,即皇帝位於柩前。
癸未,長孫無忌為太尉。癸巳,檢校洛州刺史李勣為參掌機密。
長孫無忌が太尉として実権を握り、勣が予定通り再登用され軍事を抑えました。
九月甲寅,荊王元景為司徒,吳王恪為司空。
皇族を抑えるため叔父元景、兄恪などを高官に任じましたが、名目だけでした。
永徽元年 西暦650
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正月辛丑,改元「永徽」。
慣例り即位翌年の改元です。
正月丙午,立妃王氏為皇后。
長孫無忌が貴族関係を配慮して選定しました。
六月,高偘及突厥戰於金山,敗之。
突厥残党車鼻可汗を破り捕らえました。
十一月己未,貶褚遂良為同州刺史。
無忌とともに太宗の遺詔を受けた遂良が、権威を利用して押買をしたと弾劾され左遷されました。これにより無忌の力は増大しました。
永徽二年 西暦651
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正月乙巳,宇文節、柳奭が宰相となりました。
奭は王皇后の舅です。
正月乙卯,瑤池都督阿史那賀魯叛。
七月丁未,賀魯寇庭州,伐之。
西突厥の残党が蜂起しました。
永徽三年 西暦652
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正月己巳,以同州刺史褚遂良復相。
失脚した遂良は無忌に復帰させてもらい、以降頭が上がらなくなりました
七月丁巳,立陳王忠為皇太子
忠は王皇后の子ではありませんが、子のない王皇后派の支援で立太子されました。
永徽四年 西暦653
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二月甲申,房遺愛薛萬徹柴令武、高陽巴陵公主謀反,伏誅;殺荊王元景、吳王恪。
公主達は太宗の娘であり降嫁した家で傲慢に振る舞い、不法な行動が多く。夫達も無忌の専権を批判していました。無忌派は単なる不平派を謀叛とでっちあげ、皇室の重鎮元景と恪を連座させて除きました。特に恪は一時期高宗の競争者であったので排除したかったのです。
二月乙酉,流宇文節于桂州。戊子,廢蜀王愔為庶人。
これは単なる連座です。愔は恪の同母弟というだけです。
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晉王治は太宗九男で、太子承乾・魏王泰とともに長孫皇后の子です。性格は兄二人と違い温和柔弱で、学問を好みました。承乾と泰が争ったときは部外にいて傷つかず、結局叔父である長孫無忌の強い推薦で太子に立てられたわけです。ただ皇帝としての決断力は疑われ、高祖太宗のような権威もなく、前半は無忌を中心とする貴族達、後半は則天武后の傀儡となっています。ただ中宗・睿宗のような腑抜けではなく自分の意志を示す時もあったようです。
貞觀二十三年 西暦649
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五月、太宗崩,以羽檄發六府甲士四千,衛皇太子入于京師。
唐朝はまだ安定していませんでした。太宗は京師西郊の翠微宮で崩じましたが、そこから皇宮まで重武装の護衛をつけて皇太子が戻りました。
六月甲戌,即皇帝位於柩前。
癸未,長孫無忌為太尉。癸巳,檢校洛州刺史李勣為參掌機密。
長孫無忌が太尉として実権を握り、勣が予定通り再登用され軍事を抑えました。
九月甲寅,荊王元景為司徒,吳王恪為司空。
皇族を抑えるため叔父元景、兄恪などを高官に任じましたが、名目だけでした。
永徽元年 西暦650
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正月辛丑,改元「永徽」。
慣例り即位翌年の改元です。
正月丙午,立妃王氏為皇后。
長孫無忌が貴族関係を配慮して選定しました。
六月,高偘及突厥戰於金山,敗之。
突厥残党車鼻可汗を破り捕らえました。
十一月己未,貶褚遂良為同州刺史。
無忌とともに太宗の遺詔を受けた遂良が、権威を利用して押買をしたと弾劾され左遷されました。これにより無忌の力は増大しました。
永徽二年 西暦651
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正月乙巳,宇文節、柳奭が宰相となりました。
奭は王皇后の舅です。
正月乙卯,瑤池都督阿史那賀魯叛。
七月丁未,賀魯寇庭州,伐之。
西突厥の残党が蜂起しました。
永徽三年 西暦652
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正月己巳,以同州刺史褚遂良復相。
失脚した遂良は無忌に復帰させてもらい、以降頭が上がらなくなりました
七月丁巳,立陳王忠為皇太子
忠は王皇后の子ではありませんが、子のない王皇后派の支援で立太子されました。
永徽四年 西暦653
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二月甲申,房遺愛薛萬徹柴令武、高陽巴陵公主謀反,伏誅;殺荊王元景、吳王恪。
公主達は太宗の娘であり降嫁した家で傲慢に振る舞い、不法な行動が多く。夫達も無忌の専権を批判していました。無忌派は単なる不平派を謀叛とでっちあげ、皇室の重鎮元景と恪を連座させて除きました。特に恪は一時期高宗の競争者であったので排除したかったのです。
二月乙酉,流宇文節于桂州。戊子,廢蜀王愔為庶人。
これは単なる連座です。愔は恪の同母弟というだけです。
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