安史の乱に南下する賊軍を防ぐため魯炅が編成した山東節度軍は、規律が悪く無頼の兵団でした。魯炅の自殺後文官を節度使任命しました。
①.乾元2年8月
襄州將康楚元、張嘉廷が刺史王政を逐いました。楚元は南楚霸王を自称しました。
皇帝は將軍曹日升を派遣して司農少卿張光奇を襄州刺史とし、康楚元を慰撫しましたが従いません。
乾元2年9月
張嘉延は南下して荊州を襲い、節度使杜鴻漸は逃亡し、管轄下の澧、朗、復、郢、硤、歸等州の官吏も城を捨て逃亡しました。
史思明が東都付近を陥し河南道を荒らしています。
太子少保崔光遠を荊襄等州招討使とし、右羽林大將軍王仲昇を申安沔等州節度使、右羽林大將軍李抱玉を鄭州刺史鄭陳穎亳四州節度使として隣接地を固めました。
乾元2年11月
商州刺史充荊襄等道租庸使韋倫は降者を厚く撫し、隙を窺い進攻し簡単に楚元を誅し、荊襄を平定しました。
乾元2年12月
御史大夫史翽が山東節度觀察處置等使となりました。
②乾元3年4月
將張維瑾・曹玠が反し、節度使史翽を殺しました。
前回鎮圧した隴州刺史韋倫を山東節度使とし征討することにしましたが、倫が宦官李輔國に贈賄しなかったことから、秦州防御使に変更されました。
陝州刺史來瑱を山東襄鄧等十州節度觀察處置等使とし征討させました。
瑱が襄州に行くと、維瑾等はたちまち降り従いました。
維瑾等の將士は魯炅に代わる親分と仰ぐ人を求めていたわけで、瑱は將士の心をつかんで服従させました。
①.乾元2年8月
襄州將康楚元、張嘉廷が刺史王政を逐いました。楚元は南楚霸王を自称しました。
皇帝は將軍曹日升を派遣して司農少卿張光奇を襄州刺史とし、康楚元を慰撫しましたが従いません。
乾元2年9月
張嘉延は南下して荊州を襲い、節度使杜鴻漸は逃亡し、管轄下の澧、朗、復、郢、硤、歸等州の官吏も城を捨て逃亡しました。
史思明が東都付近を陥し河南道を荒らしています。
太子少保崔光遠を荊襄等州招討使とし、右羽林大將軍王仲昇を申安沔等州節度使、右羽林大將軍李抱玉を鄭州刺史鄭陳穎亳四州節度使として隣接地を固めました。
乾元2年11月
商州刺史充荊襄等道租庸使韋倫は降者を厚く撫し、隙を窺い進攻し簡単に楚元を誅し、荊襄を平定しました。
乾元2年12月
御史大夫史翽が山東節度觀察處置等使となりました。
②乾元3年4月
將張維瑾・曹玠が反し、節度使史翽を殺しました。
前回鎮圧した隴州刺史韋倫を山東節度使とし征討することにしましたが、倫が宦官李輔國に贈賄しなかったことから、秦州防御使に変更されました。
陝州刺史來瑱を山東襄鄧等十州節度觀察處置等使とし征討させました。
瑱が襄州に行くと、維瑾等はたちまち降り従いました。
維瑾等の將士は魯炅に代わる親分と仰ぐ人を求めていたわけで、瑱は將士の心をつかんで服従させました。
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