唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

宰相 宋申錫の変

2023-01-09 08:58:04 | Weblog
不良少年の敬宗皇帝の頓死後、樞密使王守澄、楊承和、中尉魏從簡、梁守謙等は真面目な江王[文宗]を擁立しました。
しかし真面目に統治しようとする文宗は、宦官の達の専横ががまんできなくなってきました。
大和4年7月信任する翰林学士の宋申錫を宰相に起用し宦官排除策を相談し始めました。
よくいわれる宦官全廃ではなく単なる幹部宦官の排除程度のものだったと思われます。
宦官勢力、特に王守澄は申錫派の京兆尹王璠の密告もあり警戒し、謀臣の鄭注の策により先手をうつことにしました。

太和5年2月
神策軍虞候豆盧著は宰相宋申錫が、文宗の弟漳王湊を擁立しようとしていると告発しました。
中尉王守澄は兵を動員して申錫宅を襲い殺害しようとしましたが、麾下の飛龍使馬存亮に止められました。
文宗皇帝は狼狽して申錫を見捨てました。

諌官達は根拠薄弱な告発を弾劾し、徹底した調査を求めました。

太和5年3月
申錫家臣晏敬則等を拷問して自白を得、宰相牛僧孺等は逃げ腰でしたが、京兆尹崔琯や王正雅や諌官は盛んに異議を申し立てました。

最初は文宗を脅して申錫や漳王を誅しようとしていた守澄達ですが、長い捜査は形勢不利とみて矛を収め、申錫の罷免と流罪や漳王の降格、一部の家臣団の誅殺に止めることにしました。

文宗皇帝は懲りずに大和9年に甘露の変を起こします。

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