河陽は河北から東都への黄河の渡河点という要地である。安史の乱後、懷・衛州や河陽は相衛節度[薛嵩]の所管となっていた。節度使が置かれるのは割合遅い。
大暦六年[771年]
◎.8月 東都副留守常休明が檢校左散騎常侍河陽三城使となった。
大暦8年2月相衛節度使薛嵩が卒するが、それ以前から河陽はその管轄を離れていたようである。
大暦十年[775年]
◎.2月 河陽三城使常休明は苛刻少恩で人望がなかった。防秋[対吐蕃防衛助力のために關内へ派遣]者が歸軍した慰労時に蜂起して、休明を東都に逐った。乱兵は兵馬使王惟恭を帥として略奪行為をした、唐朝は監軍冉庭蘭に慰撫させた。魏博田承嗣が使嗾したようである。
◎.4月 詔河東、鎮冀、幽州、淄青、淮西、滑毫、汴宋、澤潞、河陽道出師進討田承嗣。
出兵する余裕があったかどうか。
◎.5月 淮西節度李忠臣統永平、河陽、懷、澤步騎四萬進攻衛州。
一応は従って出動したようですが。
◎.10月 商州刺史馬燧が檢校左散騎常侍河陽三城使となります。
燧[字洵美]は兵法を学び、李抱玉幕僚から鄭州・商州刺史となり能政で聞こえていた。
大暦十一年[776年]
◎.2月 乱を起こしても処罰がないのに味を占めたまた河陽軍はまた乱し略奪します。さすがに今回は、監軍使冉廷蘭は乱兵を誅殺します。
◎.8月 命淮西李忠臣、滑州李勉、河陽馬燧三鎮兵討李靈耀。
汴宋田神玉が卒した後、將李靈曜が自立しました。魏博田承嗣の討伐が完了しない間にまた征討です。
◎.10月 淮西、河陽之師合擊田悅營,其衆大敗,悅脫身北走。
李忠臣と馬燧は霊耀を支援しにきた魏博將田悦を大破しました。霊耀は自殺し、汴宋は平定されました。この後、燧は忠臣と功を争わず避退しています。
大暦十三年[778年]
◎.3月 河陽將士劫回紇輜重,因與相鬥,縱兵大掠,久之方定。
安史の乱以来唐を助けた回紇は傲慢で、この頃各地で衝突を起こしてきました。河陽を通過しようとした回紇使者も横暴であったため、怒った軍士はその貨財を略奪します。それにとどまらず略奪は広がったようです。
大歷十四年[779年]
◎.閏5月 河陽三城鎮遏使馬燧は檢校工部尚書兼太原尹御史大夫北都留守河東節度使に栄転し、陳州刺史李芃が檢校太常少卿河陽三城鎮遏使となります。
回紇に百井で敗北した河東軍はガタガタになっています。その再建のために馬燧が起用されました。李芃[字茂初]は永平節度李勉の幕僚として江・亳州刺史を有能でしたので起用されました。芃は練達で兵の給養を整備し鎭を安定させました。
建中二年[781年]
◎.正月 成徳節度使李寶臣が卒し、子惟岳が自立するという事態が生じ、魏博節度使田悦もまた反抗的な態度を見せていた。東都の防衛のための処置として、軍才のある東都留守東都畿観察使路嗣恭を懷鄭汝陝四州河陽三城節度使とした。河陽三城鎮遏使李芃は副となった。
◎.5月 懷鄭河陽節度副使李芃を河陽三城懷州節度使「懷衛節度使」とし、懷州・東都畿五縣及衛州をもってその管轄とした。但し衛州は実質的には魏博領有である。
◎.7月 淄青平盧節度使李正己が卒し、子の納が自立した。魏博・成徳・淄青軍が洹水に合同したため、河東馬燧は諸軍を率いて対峙し、河陽李芃にも合流を求めた。
建中三年[782年]
◎.正月 河陽軍は新鄉、共城県を陥し、衛州を攻め、田悅守將任履虛は一旦降ったが、すぐ反した。
◎.正月 河東・澤潞軍と共に洹水に田悦を大破した。
◎.5月 戦勝の功績により芃は檢校兵部尚書となった。實封百戶。
建中四年[783年]
◎.2月 懷州から河陽三城へ河陽軍節度を移した。一応所領は懷衛+河陽である。
興元元年[784年]
◎.閏月 河北の節度は螟蝗害により饑饉が起こり,楚州の米三萬石を支給された。
◎.この歳 李芃に加検校尚書右僕射。
貞元元年[785年]
◎.5月 河陽都知兵馬使雍希顏が河陽懷都團練使兼御史大夫となった。疾により芃が辞めた河陽節度使は都団練使に格下げされた。希顏の終任は不明[貞元4と推定]である。
◎.7月 前河陽節度使檢校左/右僕射開陽/開封郡王李芃は東都で卒した。64歳。贈太子太保。
貞元四年[788年]
◎.10月 右神策將軍兼御史中丞李長榮が河陽三城懷州團練使となり,賜名元淳。
貞元十一年[795年]
◎.6月 河陽獻白烏。
貞元十二年[796年]
◎.是歳 方鎭表によると河陽懷都団練使は節度使に復した。治は河のまま。李元淳が節度使。長期在任の元淳の格上げであろう。封は狄道縣子→祁連郡王。
貞元十五年[799年]
◎.3月 昭義軍節度使王虔休が卒したため。検校工部尚書兼御史大夫河陽三城節度使李元淳を潞州長史昭義軍節度澤潞磁邢洺觀察使とし、河陽節度押衙衡濟を懷州刺史河陽三城懷州節度使となった。この頃から懷州に治所が移っている?。
貞元十六年[800年]
◎.正月 成徳・義武・忠武軍兵と共に河陽軍は淮西を征討したが敗退した。
貞元二十年[804年]
◎.7月 節度使衡濟が卒した。
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