◎. 高駢は鎮海節度使時の正月、將張璘や梁纘に黄巢を討たせて、秦彥、畢師鐸、李罕之、許勍など數十人を降らせて自分の配下にしていた。
◎. また8月に自ら全軍を率いて嶺南に拠る黄巣を討ちたいと上奏したが、巣を軽視し懐柔できると考えていた宰相達は許可しなかった。
◎.10月 文官の宰相王鐸は巢を討とうとして都統として荊南節度となったが、先鋒の湖南李係が敗北するとたちまち江陵を捨てて遁走した。
◎.12月 鐸は更迭され、駢の支持者盧攜が宰相に復帰した。
廣明元年[880]
◎.正月 淮南將張潾は黃巢戰を大雲倉に破った。
◎.3月 高駢は諸道兵馬行營都統となり黄巣を討つ主将となった。
◎.5月 張潾は饒州を制圧し、信州に迫ったが黃巢に大敗して戦死した。
◎.7月 黃巢は揚子江を渡り淮南麾下の滁、和二州を陥した。意気阻喪した駢は疾と称して救援しなかった。
◎.10月 黃巢は河南から東都へ進撃し、12月京師を陥した。駢は傍観するだけだった。
廣明二年/中和元年[881]
◎.正月 黄巣に逐われ僖宗皇帝は成都へ逃亡した。駢へ救援の要請が相継いだが、駢は麾下への事前褒賞を求めるだけだった。
◎.2月 高駢を京師回復の為の京城東面都統とした。
◎.5月 駢は黄巣を討つとして、麾下8万、舟2千を東塘に結集させた。
◎.9月 結局、浙西周寶や浙東劉漢宏の協力が得られない、占いの結果が悪いなどを言い立てて出兵を取りやめた。もはや駢には気力が無く朦朧していた。
◎. 駢の統制はきかなくなり、麾下の石鏡鎮將董昌は勝手に杭州ょ占有し、刺史路審中を逐った。
◎.是歲 霍丘鎮使王緒は壽、光二州を陥し占有した。
中和二年[882]
◎.正月 宰相王鐸は、高駢に討伐の意志がまったくないとして、諸道行営都統を罷免し自らが就任した。駢にはなお諸道鹽鐵転運使だけが残された。
◎. 駢は耄碌し、方士呂用之達のいいなりとなり、諫言する諸将達を排斥していった。
◎.5月 駢は兼侍中となるが、諸道鹽鐵転運使を解任され財政権を失った。不満な駢は貢賦を上納しなくなった。
◎.7月 洪州を占拠した鍾/鐘傳を駢の推薦により江西觀察使とした。また
◎.是歲 駢の領域統制は完全に弛緩し、廬州將楊行密は刺史郎幼復を逐い、和州刺史秦彥は宣歙觀察使竇潏を逐って自立した。
中和三年[883]
◎.4月 將張瓌は復州を、8月 將韓師德は岳州を 10月 賊許勍は滁州を取った。
光啓二年[885]
◎.5月 朱玫が僖宗皇帝に代わって襄王を皇帝につけ、檢校太尉兼侍中淮南節度使高駢を太師兼中書令充江淮鹽鐵轉運等使諸道行營兵馬都統に任じ、右都押牙和州刺史呂用之を檢校兵部尚書兼廣州刺史嶺南東道節度使に任じた。駢は喜んで命を奉じた。
光啓三年[886]
◎.4月 呂用之の専横に耐えられなくなった兵馬使畢師鐸は反乱し、高駢を捕らえ、用之を逐った。師鐸は黄巣降將である。
◎.5月 師鐸は駢を幽閉したが、自分では軍を統制できないと思い、兄貴分の宣歙觀察使秦彥を招いた。彥もまた黄巣降將である。
◎. 逐われた呂用之は、盧州刺史楊行密等と組んで揚州を包囲した。
◎. 彥は宣州兵3万を率いて東下が途中で敗北し半ばを失ったが、揚州に入り淮南節度使と称した。
◎.8月 揚州は包囲され師鐸・彥軍は飢えて行った。
◎.9月 形勢が不利となった秦彥達は、高駢が利用されるのを懼れて族滅した。
◎. また8月に自ら全軍を率いて嶺南に拠る黄巣を討ちたいと上奏したが、巣を軽視し懐柔できると考えていた宰相達は許可しなかった。
◎.10月 文官の宰相王鐸は巢を討とうとして都統として荊南節度となったが、先鋒の湖南李係が敗北するとたちまち江陵を捨てて遁走した。
◎.12月 鐸は更迭され、駢の支持者盧攜が宰相に復帰した。
廣明元年[880]
◎.正月 淮南將張潾は黃巢戰を大雲倉に破った。
◎.3月 高駢は諸道兵馬行營都統となり黄巣を討つ主将となった。
◎.5月 張潾は饒州を制圧し、信州に迫ったが黃巢に大敗して戦死した。
◎.7月 黃巢は揚子江を渡り淮南麾下の滁、和二州を陥した。意気阻喪した駢は疾と称して救援しなかった。
◎.10月 黃巢は河南から東都へ進撃し、12月京師を陥した。駢は傍観するだけだった。
廣明二年/中和元年[881]
◎.正月 黄巣に逐われ僖宗皇帝は成都へ逃亡した。駢へ救援の要請が相継いだが、駢は麾下への事前褒賞を求めるだけだった。
◎.2月 高駢を京師回復の為の京城東面都統とした。
◎.5月 駢は黄巣を討つとして、麾下8万、舟2千を東塘に結集させた。
◎.9月 結局、浙西周寶や浙東劉漢宏の協力が得られない、占いの結果が悪いなどを言い立てて出兵を取りやめた。もはや駢には気力が無く朦朧していた。
◎. 駢の統制はきかなくなり、麾下の石鏡鎮將董昌は勝手に杭州ょ占有し、刺史路審中を逐った。
◎.是歲 霍丘鎮使王緒は壽、光二州を陥し占有した。
中和二年[882]
◎.正月 宰相王鐸は、高駢に討伐の意志がまったくないとして、諸道行営都統を罷免し自らが就任した。駢にはなお諸道鹽鐵転運使だけが残された。
◎. 駢は耄碌し、方士呂用之達のいいなりとなり、諫言する諸将達を排斥していった。
◎.5月 駢は兼侍中となるが、諸道鹽鐵転運使を解任され財政権を失った。不満な駢は貢賦を上納しなくなった。
◎.7月 洪州を占拠した鍾/鐘傳を駢の推薦により江西觀察使とした。また
◎.是歲 駢の領域統制は完全に弛緩し、廬州將楊行密は刺史郎幼復を逐い、和州刺史秦彥は宣歙觀察使竇潏を逐って自立した。
中和三年[883]
◎.4月 將張瓌は復州を、8月 將韓師德は岳州を 10月 賊許勍は滁州を取った。
光啓二年[885]
◎.5月 朱玫が僖宗皇帝に代わって襄王を皇帝につけ、檢校太尉兼侍中淮南節度使高駢を太師兼中書令充江淮鹽鐵轉運等使諸道行營兵馬都統に任じ、右都押牙和州刺史呂用之を檢校兵部尚書兼廣州刺史嶺南東道節度使に任じた。駢は喜んで命を奉じた。
光啓三年[886]
◎.4月 呂用之の専横に耐えられなくなった兵馬使畢師鐸は反乱し、高駢を捕らえ、用之を逐った。師鐸は黄巣降將である。
◎.5月 師鐸は駢を幽閉したが、自分では軍を統制できないと思い、兄貴分の宣歙觀察使秦彥を招いた。彥もまた黄巣降將である。
◎. 逐われた呂用之は、盧州刺史楊行密等と組んで揚州を包囲した。
◎. 彥は宣州兵3万を率いて東下が途中で敗北し半ばを失ったが、揚州に入り淮南節度使と称した。
◎.8月 揚州は包囲され師鐸・彥軍は飢えて行った。
◎.9月 形勢が不利となった秦彥達は、高駢が利用されるのを懼れて族滅した。
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