李錡は都統・戸部尚書國貞[軍乱により死]の子であり、貞元15年寵臣李齊運に贈賄し常州刺史より唐朝の重要財源である浙西観察使諸道鹽鐵轉運使となりました。盛んに収奪し德宗皇帝や宦官に媚びて贈賄し寵愛を受けた。
貞元17年6月には地元民崔善真にその不正を糾弾されたが、德宗は捕らえて錡に引き渡し殺させた。
また私兵を募集し身辺を固めました。幕僚達は連座を懼れて逃げていきました。
永貞元年3月
姑息な德宗皇帝が卒し、順宗皇帝になると浙西觀察使から鎭海軍節度使に昇格しましたが、利得の源泉となる諸道鹽鐵転運使を解任されました。錡は不満でしたが昇格でもあるのでまだ激発しませんでした・
元和2年9月
西川の劉闢が平定され、錡は懼れて入朝を請願しました。留められるという期待に反して、すぐ判官王澹を留後とし、尚書右僕射という名誉職に任じるという命令がきました。
後任に御史大夫李元素を鎮海軍浙西節度使と発令され、不満な錡は親兵をそそのかし澹を殺し、勅使を捕らえました。
元和2年10月
朝廷は李錡の反乱を予期していましたので、淮南節度使に練達の軍人王鍔を配置していました。鍔はただちに諸道行營招討使となり、宦官薛尚衍が監軍として、武寧・鄂岳・宣武・淮南・宣歙・江西・浙東軍が征討軍となりました。
錡は腹心を蘇州,常州,湖州,杭州,睦州に配置し、各兵數千を置き準備していました。常・湖州刺史はこれを鎮圧しましたが、蘇州刺史李素は敗れて捕らえられました。
錡は宣州を攻撃しようとし、兵馬使張子良・李奉仙・田少卿に兵三千を与えましたが、三人は到底乱が成功しないと判断し、牙將裴行立と共謀し反し錡を捕らえました。
元和2年11月
錡は京師で誅殺され、將張子良[奉国]は南陽郡王、田少卿、李奉仙等は公となりました。
貞元17年6月には地元民崔善真にその不正を糾弾されたが、德宗は捕らえて錡に引き渡し殺させた。
また私兵を募集し身辺を固めました。幕僚達は連座を懼れて逃げていきました。
永貞元年3月
姑息な德宗皇帝が卒し、順宗皇帝になると浙西觀察使から鎭海軍節度使に昇格しましたが、利得の源泉となる諸道鹽鐵転運使を解任されました。錡は不満でしたが昇格でもあるのでまだ激発しませんでした・
元和2年9月
西川の劉闢が平定され、錡は懼れて入朝を請願しました。留められるという期待に反して、すぐ判官王澹を留後とし、尚書右僕射という名誉職に任じるという命令がきました。
後任に御史大夫李元素を鎮海軍浙西節度使と発令され、不満な錡は親兵をそそのかし澹を殺し、勅使を捕らえました。
元和2年10月
朝廷は李錡の反乱を予期していましたので、淮南節度使に練達の軍人王鍔を配置していました。鍔はただちに諸道行營招討使となり、宦官薛尚衍が監軍として、武寧・鄂岳・宣武・淮南・宣歙・江西・浙東軍が征討軍となりました。
錡は腹心を蘇州,常州,湖州,杭州,睦州に配置し、各兵數千を置き準備していました。常・湖州刺史はこれを鎮圧しましたが、蘇州刺史李素は敗れて捕らえられました。
錡は宣州を攻撃しようとし、兵馬使張子良・李奉仙・田少卿に兵三千を与えましたが、三人は到底乱が成功しないと判断し、牙將裴行立と共謀し反し錡を捕らえました。
元和2年11月
錡は京師で誅殺され、將張子良[奉国]は南陽郡王、田少卿、李奉仙等は公となりました。
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