唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

山東 來瑱の変

2023-01-11 08:13:48 | Weblog
乾元3年軍乱続きの山東十州節度使となった來瑱は、たちまち將士を手懐け統制を回復しました。
ところが定見の無い肅宗皇帝と李輔國はそれに猜疑を抱きました。

荊南呂諲や淮西王仲昇は「瑱は將士の衆心を得て自立を図っている」と讒言し、朝廷は京師に近い金商均房四州を山東の管轄から分離しました。しかし山間の遠隔地でもあり瑱はさして気にしませんでした。

史朝義將謝欽讓は王仲昇を申州に破り捕らえました。瑱は怨んでいましたので救援しようとはしませんでした。

元年建卯月
瑱を山東から切り離し安州刺史淮西十六州節度使という一見昇進にみえる転任をさせました。
山東は朝廷に内通して瑱を裏切った行軍司馬裴戎に襄鄧等州防御使として与えました。
十六州は一見広大ですが史朝義の領域や戦乱で荒廃した地域が多く軍糧の調達にも困難な地域なため瑱は赴任せず山東節度に留まることを求めました。

寶應元年5月
肅宗皇帝が崩御し、代宗皇帝が立った混乱からか朝廷は來瑱の復任を認めました。

寶應元年6月
穀城に屯していた襄鄧防御使裴戎は任命を受け、麾下二千人とともに襄陽へ赴きましたが、お互いに朝命を受けたとして対立し、戎は瑱軍に撃破され捕らえられました。そして戎は京師に逆臣として送られ誅されました。

寶應元年8月
瑱は入朝し、9月兵部尚書同平章事山東節度使山陵使という破格の昇進をしました。

寶應2年正月
贈賄を拒否された宦官程元振の誣告により、突然に瑱は流罪となり殺害されました。このような定見のカケラもない朝廷に軍人達は強い不信を抱き、この後の吐蕃の侵攻と京師陥落時に誰も支援をしないという状況を引き起こしてしまいました。
当然留守の山東では軍乱が生じました。


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