唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

宣宗末期の 南部地域の軍乱

2022-11-26 08:18:01 | Weblog

宣宗皇帝は小太宗と呼ばれる唐後半期の名君で、個人としては節減し治政に配慮し、民を労ることに努力しましたが、既に唐の体制は弛緩腐敗していてその善意は下に伝わることはありませんでした。

唐南部地域は、淮西吳元濟平定以降長く戦乱がなく、地域の軍は老化弱体化し、官僚達の収奪により待遇は悪化、将校は地域の豪族の利権となり、兵員は盗賊あがり・貧民で充たされ、それも給与の横領により欠員だらけでした。

軍乱のタイプは
[A]官僚貴族の帥が、現地の將士を軽侮し、資財を横領して待遇を切り下げる。
[B]新任の帥が現地属官。土豪の癒着腐敗を摘発是正しようとして反発される。

大中9年7月
[Aタイプ]浙江東道で軍亂が起き觀察使李訥が逐われました。訥は遜の弟の子ですが、官僚貴族上がりで傲慢であり將士を虐待したため逐われました。

大中9年9月
李訥は朗州刺史に左遷され、訥の態度を放置した監軍王宗景も処罰されました。
宣宗は「以降、鎭帥に失態があれば監軍も連座させる」と警告しました。
傳師の子禮部侍郎沈詢が浙東觀察使となりました。

大中11年5月
[?]容管軍亂,逐經略使王球。

大中12年4月
[Bタイプ]嶺南都將王令寰が亂して、節度使楊發を逐いました。
楊發は清廉な官僚で嶺南の腐敗した状況を引き締めようとして、現地勢力に逐われたのです。
大中十二年五月
涇原節度使李承勳が嶺南節度使となり、隣道の兵を借りて平定しました

大中12年5月
[Aタイプ]湖南軍都將石載順等が觀察使韓悰を逐い、都押牙王桂直を殺しました。
琮が將士を軽視したための反発です。

大中12年6月
[Bタイプ]江西都將毛鶴が觀察使鄭憲を逐いました。

大中12年7月
[?]容州都虞候來正が反しましたが、軍人である經略使宋涯は誅しました。

[Bタイプ]宣州都將康全泰作亂,逐觀察使鄭薰。薰奔揚州。

大中12年8月
宣歙は主要財源ですから反乱を淮南節度使崔鉉が宣歙池觀察處置使を兼任して征討します。
実務は宋州刺史温璋[造の子]が宣州團練使として行います。

大中12年10月
山東節度使徐商が編成した精鋭數百人[捕盜將]を派遣し、宣歙康全泰を簡単に鎮圧しました。
宣歙等の兵は弱体ですから、民衆の賊と結びつかない場合は正規軍がくればたちまち制圧されます。

江西も財源地ですから光祿卿韋宙[良政を布いた丹の子]を江西觀察使とし、隣道の兵を借りて毛鶴を討ちます。

大中12年11月
崔鉉は宣歙觀察使を辞し、温璋が宣歙觀察使となりました。

大中12年12月
韋宙は山東徐商に[捕盜將]都將韓季友を借りてたちまち洪州を制圧、毛鶴を誅しました。

◎軍乱は簡単に鎮圧できましたが、状況がかわらないのでなんの解決にもなっていません。
次の懿宗皇帝時には軍乱が民衆・草賊と結びついて仇甫や龐勛などの大乱になります。


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