唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐宰相一覧[除皇族]4.竇威

2014-12-16 10:40:46 | Weblog
竇威。字は文蔚。太穆皇后の從父兄。父の熾は隋太傅。
武門の名家出身だが文史を好む。
隋秘書郎となるが長期間昇進せず、大業四年になってやっと
内史舎人・考功郎中となるが免官となり長安に帰る。
高祖自立後、大丞相府司録參軍となり古典の博識を買われる。
武徳元年內史令として宰相となる。
高祖の親任は極めて厚かったがまもなく病死した。
贈同州刺史,追封延安郡公。
子のが嗣爵し岐州刺史に至った。
[宰相履歴]
武徳元年6月内史令~6月薨

唐宰相一覧[除皇族]3.裴寂

2014-12-15 10:34:01 | Weblog
裴寂。字は玄真。祖父融は司本大夫、父瑜は絳州刺史。
風采は良く、州主簿・左親衛・齊州司戶・侍御史・駕部承務郎・晉陽宮副監を歴任する。
劉文靜と共謀し高祖に自立を薦めた。
大丞相府長史・魏國公となり即位後尚書右僕射として宰相となった。
軍事的才能は無いが、よく高祖の相談役となり信任され、武徳9年には司空に昇進した。
太宗即位後、實封一千五百戶を与えられた。
しかし高祖ほどには信任されず、敬遠される存在となり、
貞観3年仏僧法雅のささいな事件に坐して免官・削邑された。
しかも狂人信行の事件にこじつけられて僻地に流された。
配流の地靜州の山羌の反乱に際しては家僮を率いて平定したため、
入朝を赦されたが、果たさず60才で卒した。
贈相州刺史・工部尚書・河東郡公。
子の律師が嗣爵し、太宗の妹臨海長公主と結婚し、汴州刺史となった。
孫の承先は,則天時に殿中監となり、酷吏により殺された。
[宰相履歴]
武徳元年6月.右僕射~6年4月.左僕射~9年正月.司空~貞觀3年正月.免

唐宰相一覧[除皇族]2.劉文靜

2014-12-14 12:22:55 | Weblog
劉文靜。字は肇仁。祖父懿用は石州刺史。
父韶は戰沒し贈上儀同三司。
文靜は父の功績により襲儀同三司。
風采は良く策謀を練ることを好んだ、隋末混乱時に晉陽令となり、
晉陽宮監の裴寂と結び、太原留守の高祖に自立を薦めた。
唐の起兵には中心人物として活躍し、高祖即位後、
魯国公・納言として宰相となった。
秦王世民元帥府長史として薛擧を伐つが大敗
[世民=太宗に傷がつかないように、世民の病中に専断したと
いうことにされている]し除名される。
しかしまた起用され復爵・民部尚書領陝東道行台左僕射となる。
だが軽んじていた裴寂の下に置かれることに耐えられず
しばしば酒席で憤懣をぶちまけ、やがて密告され、
裴寂に陥れられて反意があるとして誅殺された。52才。
太宗は同情していたらしく、裴寂失脚後の貞観三年に
官爵を復されて子の樹義が魯國公となり公主と結婚する。
だが兄樹藝が謀叛を計画し誅殺される。
[宰相履歴]
武徳元年6月納言~8月除名

唐宰相一覧[除皇族]1.蕭瑀

2014-12-14 11:42:34 | Weblog
蕭瑀。字は時文。父荊州に都した後梁明帝。九歲で新安郡王。
隋に統合され姉が隋晉王[煬帝]妃となったため入朝。
風采があり、学才もあるが硬直であり仏教に傾倒していた。
煬帝が太子となり、太子右千牛。即位すると尚衣奉御檢校左翊衛鷹揚郎將、
銀青光祿大夫、內史侍郎に至った。
しかし煬帝に逆らい河池郡守に出された。
高祖が起兵すると郡を持って帰し光祿大夫.宋國公.民部尚書になった。
その後秦王世民に従い洛陽を攻め、武元年內史令として宰相に列せられた。
高祖の信任厚く諸制度の確立に貢献し、また世民に従い東都王世充を降し、
右僕射となった。太宗即位後も宰相を継続し、重きを成した。
しかし自尊心が高く頑迷な性格のため、封徳彙・陳叔達・房玄齢と争い。
やがて太宗ともしばしば衝突するようになり、何度も罷免され、
有能なためまた復活するということを繰り返した。
封建制や仏教崇信を推進したが、仏道出家についても太宗と争い、
削封・商州刺史に左遷された。
しかしまた赦されて宋国公に復し、貞觀21年74才で卒した。
贈司空、荊州都督。
子の銳が嗣爵し太宗女の襄城公主を妻とし太常卿、汾州刺史を歴任した。
子孫一族から多くの宰相・高官を輩出している。
[宰相履歴]
①武徳元年6月内史令~6年4月.右僕射~9年11月.免官
②貞觀1.6月左僕射~12月罷
③4.2月参議朝政~7月罷
④9年11月.参豫朝政~10年12月.罷
⑤17年4月同中書門下三品~20年4月罷