李靖。本名藥師。雍州三原人也。
祖崇義,後魏殷州刺史、永康公。
父詮,隋趙郡守。
軍學に通じ、隋長安縣功曹・駕部員外郎。
大業末,馬邑郡丞として高祖の反乱を告げようとして
果たせず捕まる。
斬罪に処せられる時に高祖に認められ、太宗配下となる。
武徳三年王世充征討に従い、開府となる。
また廬江王瑗に従い荊州蕭銑を伐ち、阻まれ高祖に譴責
されるが、許紹に救われる。
四年趙郡王孝恭行軍長史として蕭銑を平定。
上柱國・永康縣公。
そして檢校荊州刺史として嶺南を帰服させる。
嶺南道撫慰大使,檢校桂州總管。
六年江南の輔公祏が反し、元帥孝恭とともに討伐し、
東南道行台兵部尚書となる。
其年檢校揚州大都督府長史。
八年突厥が太原に侵攻し淮南兵を率い防ぐ。
檢校安州大都督。
九年突厥の侵攻を靈州道行軍總管として防ぐ。
太宗が即位し刑部尚書・實封四百戶。
貞觀二年,兼檢校中書令として宰相となる。
三年兵部尚書に転じる。
四年太宗は突厥の冷害による弱体化をみて、和約を破り、
靖を代州道行軍總管として頡利可汗を捕らえ、
隋の子孫も拘束させた。
唐は唐儉を使いとして頡利と講和させ、油断したところ
をに攻撃させるという策で勝利を得た。
功により代國公、しかし太宗は御史大夫溫彥博を唆せ、
靖軍の掠奪を弾劾させに謝罪させてから赦して褒賞
するという姑息な態度をみせた。
そして左光祿大夫を加え、尚書右僕射とした。
靖は宰相となることを喜ばず廷議においては発言しなかった。
八年,畿內道大使として風俗を視察。
ついで足疾を以って致仕を願い出た。
太宗はが宰相を避けていることを知り、特進・每三兩日
至門下中書平章政事として宥めた。
九年吐谷渾が侵攻し、太宗はが出撃することを求めた。
靖も得意の軍務であるため引き受け西海道行軍大總管と
してこれを平定した。
この時も大功を立てながら高甑生の讒言にあい取り調べを
受ける屈辱をうけ、閉門籠居することとなった。
十一年衛國公に転じ世襲濮州刺史。
十八年開府儀同三司に進む。
太宗の高麗平定には随行を申し出たが、老齢のため免ぜられた。
二十三年に79才で卒した。贈司徒、并州都督。
太宗は自らも軍人であるため、大功を立てた將を妬むという
欠点があり、素直に褒賞を与えないことが多かった。
李・李勣・侯君集などはすべてこの被害者である。
子の謇が襲爵、將作少匠に至る。
[宰相履歴]
貞觀2年正月検校中書令~3月關内道行軍大総管~3年2月兵部尚書
~8月定襄道行軍大総管~4年8月右僕射~8年10月三両日一至門下
中書平章政事~11月罷
祖崇義,後魏殷州刺史、永康公。
父詮,隋趙郡守。
軍學に通じ、隋長安縣功曹・駕部員外郎。
大業末,馬邑郡丞として高祖の反乱を告げようとして
果たせず捕まる。
斬罪に処せられる時に高祖に認められ、太宗配下となる。
武徳三年王世充征討に従い、開府となる。
また廬江王瑗に従い荊州蕭銑を伐ち、阻まれ高祖に譴責
されるが、許紹に救われる。
四年趙郡王孝恭行軍長史として蕭銑を平定。
上柱國・永康縣公。
そして檢校荊州刺史として嶺南を帰服させる。
嶺南道撫慰大使,檢校桂州總管。
六年江南の輔公祏が反し、元帥孝恭とともに討伐し、
東南道行台兵部尚書となる。
其年檢校揚州大都督府長史。
八年突厥が太原に侵攻し淮南兵を率い防ぐ。
檢校安州大都督。
九年突厥の侵攻を靈州道行軍總管として防ぐ。
太宗が即位し刑部尚書・實封四百戶。
貞觀二年,兼檢校中書令として宰相となる。
三年兵部尚書に転じる。
四年太宗は突厥の冷害による弱体化をみて、和約を破り、
靖を代州道行軍總管として頡利可汗を捕らえ、
隋の子孫も拘束させた。
唐は唐儉を使いとして頡利と講和させ、油断したところ
をに攻撃させるという策で勝利を得た。
功により代國公、しかし太宗は御史大夫溫彥博を唆せ、
靖軍の掠奪を弾劾させに謝罪させてから赦して褒賞
するという姑息な態度をみせた。
そして左光祿大夫を加え、尚書右僕射とした。
靖は宰相となることを喜ばず廷議においては発言しなかった。
八年,畿內道大使として風俗を視察。
ついで足疾を以って致仕を願い出た。
太宗はが宰相を避けていることを知り、特進・每三兩日
至門下中書平章政事として宥めた。
九年吐谷渾が侵攻し、太宗はが出撃することを求めた。
靖も得意の軍務であるため引き受け西海道行軍大總管と
してこれを平定した。
この時も大功を立てながら高甑生の讒言にあい取り調べを
受ける屈辱をうけ、閉門籠居することとなった。
十一年衛國公に転じ世襲濮州刺史。
十八年開府儀同三司に進む。
太宗の高麗平定には随行を申し出たが、老齢のため免ぜられた。
二十三年に79才で卒した。贈司徒、并州都督。
太宗は自らも軍人であるため、大功を立てた將を妬むという
欠点があり、素直に褒賞を与えないことが多かった。
李・李勣・侯君集などはすべてこの被害者である。
子の謇が襲爵、將作少匠に至る。
[宰相履歴]
貞觀2年正月検校中書令~3月關内道行軍大総管~3年2月兵部尚書
~8月定襄道行軍大総管~4年8月右僕射~8年10月三両日一至門下
中書平章政事~11月罷